鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

昭和38年の鳥海山案内地図より

2022年06月22日 | 鳥海山

 昭和38年の鳥海山案内地図には興味深い記述が沢山ありましたので何回かに分けて紹介していきます。

 最初に目についたのが当時の山小屋です。

 大平小屋では食事も出していたようです。又、蕨岡口には遊佐町で運営するソブ谷地小屋があり、食事も出していたことがわかります。1976年の山と高原地図では既に小屋はなくなっています。又蕨岡口もこのころには鉱石を採取するための嶽ノ腰林道を奥まで行ったソブ谷地から横堂へ直登する道が蕨岡の人によって開かれ、水呑を経由する登拝道もこの頃には使われなくなっていたことがわかります。嶽ノ腰林道については「遊佐町の鳳来山付近には鉱泉沈澱型褐鉄鉱鉱床があり、明治38年頃から昭和20年まで断続的に採鉱が行われ、昭和34-35年にも嶽ノ腰鉱山として約1,000トンの鉱石が出荷されたことがある」との記録があります。

 ソブというのはこの案内の「蕨岡口」に簡単に説明してあります。谷地というのはおわかりでしょうから説明は省略します。

 「このコースは古くから吹浦口とともに信仰登山で栄えた登山道であり、 蕨岡には昔三十三の僧坊があった。
 酒田始発の定期バスは蕨岡を経て、一時間二〇分の後、 終点杉沢部落につく。  ここから九、 七粁奥のソブ谷地まではジープの通る車道となっているが歩けば三時間の距離である。杉沢からはゆるい登りで途中開拓部落が次々に現われる。 杉沢からはゆるい登りで途中開拓部落が次々に現われる。 二合目駒止を経てソプ谷地につく。鳳来山の西麗で、 ここには遊佐町経営の山小屋があり、 近くの鉱泉を引いて風呂をわかしている。  ソブとは土地の語で赤色を意味し、 附近の土が鮮やかな茶褐色をなしているところからソブ谷地の名が生まれたという。」

 ソブ谷地小屋には風呂もあったのですね。ついで面白いのは御浜、御室、横堂が大物忌神社で経営する小屋として挙げられていることです。先輩のNさんは横堂に宿泊したこともあるそうです。横堂の宿泊可能人数は20人となっています。今現在、横堂の跡地に立ってみるとその人数が宿泊できるスペースがあったのかと思ってしまいます。料金を見ると今とは逆で町営小屋より神社で経営する小屋の方が安くなっています。

 河原宿小屋についてはこの当時は大物忌神社ではなく、蕨岡共栄社の経営となっています。共栄社というのは、修験道廃止令にともない、学頭寺であった龍頭寺を除く旧坊宿の人々すべてが神道に改宗しましたが、その後の彼らの自分たちの権益を守るために作った組織であり、鳥海山への参拝者や大物忌神社への参詣者のための便宜を計るものだったということです。(大物忌神社発行 鳥海山-自然・歴史・文化- による)

 (河原宿でまだ幕営できたころ。この影響により河原宿の周辺は荒れ地となりました。)

 蕨岡三十三坊を継ぐことが出来たのは長男のみであり、次男以下は蕨岡に残る場合は門前衆として商売を行い暮らしていたということです。のちに彼らは共栄社に対抗して隆盛会という組織を作ったということです。この組織を作るときは共栄社には秘密で、その集会は夜ひそかに行われたということです。又、彼ら門前衆から見ると、旧坊宿の人は毎日囲碁を打って暮らしていたようだ、と表現される生活だったということです。(前掲同書による)

 

 矢島口では祓川ヒュッテはよく登場しますが、祓川山の家は初めて知りました。祓川神社については村上浅吉さんについて書かれた本も出ています。

 (建て直す前の祓川ヒュッテ)

 象潟口せきれい山荘は今の鉾立山荘の前身ということになるでしょうか。鉾立山荘より下の方にありました。

 升田口取入小屋については1976年時点で山と高原地図には載っていました。

 そのほかまだまだ面白い話はありますが以下次回。


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