すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

今度は、自分を徹底的に許してみた。

2016-09-27 10:42:48 | ひとりごと
前の記事には続きがある。


今度は、徹底的に自分を許してみた。

あれから丸一日経って、それは自然に起きた。罪悪感が抜けた心と身体の空っぽから、声がする。

答えがほしい、と。

勝手に、何かが、誰がが、その声に呼応した。


息子を感情的に責めたことを許すよ。
うまくいかないことを夫のせいにしてきたことを許すよ。
母や姉や亡くなった父にしたことしなかったこと、言ったこと言わなかったことも許すよ。

ちゃんとしすぎるところも、ちゃんとできないところも許すよ。
自分に罪悪感を持ってしまったことも許すよ。
自分を嫌う自分も許すよ。
自分を許せない自分も許すよ。
演じてきた自分も、嘘つきの自分も、つくり笑いの自分も、許すよ。
全部全部許すよ。
これまでだって本当はそうだったし、これからもそうだよ。
自分の全部を、まるごと許すよ。

だって、最初から罪なんてなかったんだよ。
謝るから、許しただけなんだよ。

これからも、謝りたかったら謝ればいい。許すだけだからね。




涙腺が、前日以上に決壊した。

自分を許す、というその感覚もまた、エネルギーだった。空っぽに満たされていく、優しいエネルギー。


統合、というやつなのかな。


そして、
自分に対するのと同じだけ許せなかった息子のすることしないこと、夫のしたことしなかったこと、母にも姉にも、その他の人にも、「私も許すよ」という感覚が生まれてきた。


私は、本当は、誰に謝って、誰に許してもらったんだろう。

わからない。答えは出ない。
でも、今はそれでいいかな。許された実感だけが、今の私には宝物だ。



自分を徹底的に責めてみた。

2016-09-27 09:12:47 | ひとりごと
罪悪感。自己否定。自己憎悪。

自分が自分を、馬鹿にして、嫌い、憎み、勝手に罪を背負い、自分を消したいとすら思う感情。

誰もが、多かれ少なかれ抱いている感情。生まれてから今日までのさまざまな体験によって、膨らんできた感情。

頭ではわかる。それは、必要がない、と。
心ある人も言う。自分を責めてはいけない、自分を嫌ってはいけない、と。

その感情に気づいた私にとっては、いかに罪悪感を減らすか、が課題だと考えていた。色々な気づきやワークなどによって、罪悪感が減ってきている自覚もあった。

けれど、まだまだ罪悪感は、底なし沼のように、私の無意識を占領していた。

つい先日、私の身の回りで、あるトラブルが起きた。誰が悪いとか、何が悪いとか、ではとても判断できない出来事。ただ起きた、としか言えないような出来事だけれど、でも、私の無意識は容赦しなかった。

二日間、身体全体が鉛のようになって、起き上がるのがやっとというくらいに重く、締め付けられるような緊張に覆われた。心が痛くて痛くて、どうしようもなかった。心も身体も、自分から切り離したい、と思うくらいだった。

二日後そのままの状態から、ふっと少しだけ身体が軽くなった。頭が動きだした。そして気づいた。

これは、私の中にあった果てしなく大きい罪悪感なんだ。あのトラブルが、この未消化の罪悪感に挑みかかってきたんだ。


私のせいだ。私が悪い。私が全部悪い。
ごめんなさい、ごめんなさい、許してください、許してください。



心には、こんな言葉がくっきり浮かんだ。こんなことを言ったら自分の罪悪感を認めたことになる、という抵抗もあって私は打ちひしがれた。


ふっとある本が思い出された。安田隆さんの「誰でも簡単にできる『気』の本」だ。ものすごく前に買って、パラパラ読んだ程度だけれど、その中の最後のページに、今の私のヒントがあったはずという確信が起きた。

藁にもすがる思いで、本棚を探し回り、この本をさがし当て、最後のページをめくった。




コラム⚫︎和解
もしあなたが、自分の全てを変えたいなら、黒い紙をかぶり、眼前に広がる黒の世界に向かって、次のように言い続ければいい。
「許してほしい、許してほしい」
(略)



福音に聞こえた。


最初に読んだ時には、奇妙な印象というか、「こんなネガティヴなことやりたくない」という抵抗心だけで、ほぼ素通りだったのに、今は、この意味がわかった。

私の中の罪悪感が、徹底的に罪悪感を感じたい、吐き出したいと言っているんだ、と。


クローゼットから黒いTシャツを取り出し、顔に乗せて、仰向けになった。

私のせいだ。私が悪い。私が全部悪い。
ごめんなさい、ごめんなさい、許してください、許してください。



ゆっくり心の中で、心がそうしたいように唱えていった。息子や夫や母や姉や、色んな人の顔が浮かび、そのエネルギーが感じられた。私がいろんな人たちに罪悪感をもって、いろんな出来事に責任を感じていることがわかった。もつ必要がないものであったとしても、私が現に持ってしまってきたものたちだった。

涙がとめどなく溢れて、溢れて、溢れて、止まらなかった。顔を覆ったTシャツがぐっしょりとぬれた。

だんだん頭がボーッとしてくる。放心状態。
本にも書いてあるけれど、やがて、一体私は、誰に何の罪で謝っているのかわからなくなる。私の罪の理由も。

私が何らかのきっかけで、その罪を、その悪を必要としたのだろう、ということだけがぼんやりとわかる。

15分くらい経っただろうか、しばらくして、Tシャツを顔から取り除いた。

身体が軽くなり、胸の中の錘が薄れ、視界が柔らかく明るくなった。相変わらず、頭だけがぼんやりしていた。


ああ、なんだろう。この感覚。

罪悪感は、消えていた。笑いさえ起きた。そして、自分がそこはかとなく愛おしい。



あれから、

この体験の後も、罪悪感はやってくる。小さいのも大きいのも、中くらいのも。

でも、罪悪感をエネルギーとして体験できたことが、私を根本的に変えた気がする。出せば、終わりなんだ、と。

ただ、この罪悪感があとどれだけ私の中に眠っているんだろう、っていうのと、この罪悪感を出し切るまでにどれだけの出来事が必要なんだろう、と考えると少々怖くもある。(笑)

まあ、でも、それを楽しむしかないのかな。今は、そんな風に感じる余裕ができた。



台風の恩恵、息子と。

2016-09-21 08:12:52 | 日記・できごと
台風の朝。

暴風警報が出ていたけれど、授業は通常通りというメールが学校から来た。

息子を送り出すためにマンションのドアを開けると、強い突風にあおられた。肌寒さも感じるし、小雨もちらつく。息子を学校まで一人で30分歩かせるのは危ないかも、と咄嗟に判断して、ついて行くことにした。

小1の息子と、久しぶりに学校までの道を歩いた。傘を片手に手をつないで、給食のカレーを楽しみにしているなんて話や、今日は学校に着くのが何番目かな、なんて話をした。横断歩道には、学校の先生が立ってくれていて、息子が「4組の先生だよ」とか「教頭先生だよ」とか教えてくれた。

他愛もない話をしながら、なんとなく気持ちがほっこりして、気づくと校門の前。30分の道のりがあっと言う間に感じられた。台風で被害が出た地域の人には申し訳ないけれど、台風ありがとう、って言いたい気分になった。

手を振って息子と別れたあと、言葉を覚え始めた頃の息子の姿やしぐさが頭を掠めた。息子の最近のブームが、自分の写っているビデオを見ることで、それに、ついつい付き合って私も一緒に見てしまっているせいだ。

幼い息子の映像を見ていて、不思議な気持ちになる。

その丸っこいシルエットや、覚えたての二語文を話すおしゃまな感じが可愛くて可愛くてたまらないのだけど、「あれ、あの頃は最高にイケメンっと思ってたけど、意外にフツー?!(笑)」なんて感想もでてきたりする。過去の私には、もの凄い親バカフィルターが掛かっていたんだな。

と、俯瞰して見ることができる、その幼い息子は、もう過ぎ去った息子なんだなー、過去の私にとっての最愛の息子なんだなー、そして、私ももう過去の私でもないんだな、ということ。


それで、息子と登校しながら思ったのが、やっぱり今目の前にいる息子が最高に可愛いいな、ということ。校門のところで何度か振り返っては「お母さん、バイバーイ!」といい、普段は小生意気なことも言うようになった今の息子が、一番可愛いという実感がある。その実感のある、この今こそが一番幸せだな、ということ。


「あんな頃が一番良かったー」と、小さい子どもを見かけては過去に浸る人は多いし、その言わんとするところはわかるけれど。でも、私は、できたら感じ続けていきたい。

今の息子が一番可愛いし、一番好き、とね。それは、私が「今の私」を、「私の今」を肯定しつづけていく気がするから。






ちゃんと嫌う。ひとりで嫌う。

2016-09-10 12:05:05 | ひとりごと
むかし、こんな記事を書いていました。

人を嫌えなかったんだなぁ、私。今なら、この私に言ってやりたいです。

大嘘つきーーーってね。笑

その人の存在や言動で嫌な思いをしたり、できるだけ関わりたくないっていうのは…

あなた、それを嫌いっていうんですよーってね。笑笑

でも、嫌いって言っちゃダメな気がしてました。
嫌い、を否定してました。
自分の中の「嫌い」、を見ないようにしてました。

その人だって、いいところがあるみたい。
口は悪いけれど面倒見もいいらしい。
苦労人みたいだからね。
誤解されやすいんだよね。

そんな情報が耳に入ったり、自分の仲良しさんがその人を褒めていたりすると、そっちを取り込もうとする。頭の中で無理やり納得させようとする。

自分の「嫌い」という気持ちの方がおかしいのかな、って無意識に「嫌い」を殺そうとしてましたね。

誰かに共有されない「嫌い」は、間違っているということにしてしまってたんでしょう。

自分の感覚より、いわゆる「空気」を重んじてました。

でも、好きも嫌いも、自分の中から湧き上がってくるもの。ただ湧き上がってくる思いであり、感情です。本来、そこに良いも悪いもない。全部等価です。

ここが腑に落ちると、本当に楽です。

「嫌ってはいけない」という意識は、湧き上がるものを必死に抑えこもうとしている状態。抑えこんだものは、必ずよろしくないものに姿を変えます。

他の誰かが、ある人のことを好きと言っても、私が嫌いならそれは嫌いでいいんですよ。自分の「嫌い」を誰かと共有することで、その「嫌い」を正当化させようとする必要もないです。賛同した人の数が多いから、正しいというものでもないのだから。

だから、他人にももちろんご本人にも「嫌いです!」なんてわざわざ宣言することもない。


ちなみに嫌いな人って、自分が抑えこんでるものを投影している人ってことが言われます。つまり、嫌いな理由は相手にあるわけではなくて、自分の中にあります。

相手の「何か」に自分の抑えこんでいる「何か」が反応しているだけで、それを全くスルーする人には反応する「何か」がないのです。

その事実を受け入れたら、嫌いな人を攻撃する必要もなくなるし、その人を好きだという人がいてもいいわけです。

好きも嫌いも所詮は投影、感じる人の中に理由があるわけです。もっといえばその感じ方だって理由だって、何らかのトラウマだって、もちろん否定したりすべきものでもないんです。強いて言えば、癒されること、解放されることを待っているその「何か」に気づいてあげることですね。

でね、私の中の「嫌い」を殺さないで生かしておいてやると、その私の言いたいこと、自分の中で息を潜めて窮屈にしていた「何か」が息を吹き返し、報われ、終わっていきます。

「嫌い」が成仏されるんですね。そこに抵抗がなければ、やがて嫌いな人を嫌う理由も薄れていって、どっちでもよくなります。


矛盾しているようですが、自分のなかの「嫌いっ!」って感情を素直に認めてあげることが、嫌いな人への「嫌い」という感情の呪縛から解放されるための最初の一歩なんですね。









感じることを選ぶ。

2016-09-07 08:26:49 | My メソッド
人間、追い詰められる時には、必ず頭の中で、思考が、言葉が、暴走しているんですよね。

心にふときざした気がかりなことがきっかけとなって、リアル感たっぷりの妄想が次々と雪だるま式に展開していく。

例えば、
絶対にミスできない仕事のこととか、
私はあの人たちに嫌われてるんじゃないだろうか、とか、
風邪が長引いて咳が続いてるけどもしや重い病気?とか。

仕事で言えば、大きな失敗をして上司に怒られたり、言い訳をしようとしどろもどろになっているシーンとかが生々しく目に浮かんだりして。

そんな、
頭の中の暴走に合わせて生じてくるのが、
不安、怖れ、怒りの感情。

こわいこわいこわい。
苦しい苦しい苦しい。
辛い辛い辛い。

でも、そんな感情は感じたくないから、反射的に避けようとする。
それで、今度は、解決策という名の思考を投入して、暴走する思考を黙らせようとする。

ミスは誰でもするはずだ。
あの人たちも悪い人ではないのだし。
すぐに不安になるのが私の悪いところ。でも、大丈夫。
私を不快にさせる思考は間違っている。
そうそう、考えを変えよう。


これももちろん、効果がある時はあります。暴走した思考が中和されて、一時的に感情がおさまってくれたり。

でも、すんなりいかないことが多い。ほどなく思考がぶり返してきます。一つのテーマですり抜けても、また似たようなテーマに遭遇すると、同じような思考がはじまり、同じような感情が起こり、ほどなく頭も体も心も占領されるんです。

ああ、まただ。どうしていつもこうなんだ。どうして私はこうなんだ。

頭の中だけで決着をつけようとしても失敗に終わる事が多い上に、自分をさらに傷つけていきます。

普段から瞑想や思考観察が習慣になっていて、こうした時の対処法を持っている人でも、特定のテーマでは感情が強すぎて対処しきれないこともあります。




そんな時に残されている道は、ただ一つ。それはもう、

ただ、ただ、ただ、
感じること


感じることに徹することです。
頭を放置する。思考を放置する。 そのかわりに身体の異変に集中する。

締め付けられる胸、荒くなる呼吸、緊張する肩、腕、顔、 に静かに意識を合わせ、その感覚を感じます。その中にある不安、怖れ、怒りの感情を自ら感じにいく。

決して心地よい感覚ではないけれど、その感覚を感情を、消そう、解放しようなんてことはせず、コントロールという意図を捨てて、純粋にただただ感じにいくのです。

五分でも十分でも、感じたいだけ。

そうするとね、頭の中がスーッと静かになって、涙腺が緩んで涙が出て、うまくいくと感情の方がしゃべりだしますよ。


どんなにやったってミスする時はミスするんよー、ボケー

あの人の、無表情が怖いんだってば。こわいの、こわいの、こわいのー

好きで心配性やってるわけじゃないんだよー。心配なモンは心配だろうがー



言いたいだけ言わせてあげるんです。
なだめたり、取り引きしたりしないで、ただ感情にしゃべらせる。頭じゃなくて、感情にしゃべらせます。

多少きたない言葉も、私じゃなくて、感情が話してるんだから、と、どこかで自覚していると、余計なブレーキが入りません。

そしてある時、全身の力がふっと抜けるように、感情もエネルギーを失い、通り過ぎる。

じゃあ、目の前にある現実はどうなるの?仕事も人間関係も病気の可能性も消えてないじゃない?

感情が通り過ぎると、現実を見る視点が変わります。それだけで解決される問題もあるし、建設的な解決策が思いつくこともあります。解決しようという切迫した意識が薄れて、まあなんとかなるかな、とどっしり構えていられるようになるかもしれせん。

思考が感情を作る、とはよく言われることですが、その感情がまた新たな思考を作っていきます。

特にネガティヴと言われる感情は、その都度出口を作って流してあげないと、心の深いところに仕舞われていきます。その古い感情の集まりが、私たちの普段の思い癖や人生に影響を与えていきます。


感情は、ただ感じてもらうことを求めています。それ以上でもそれ以下でもありません。

ただ、ただ、ただ
感じること。

感じることを選びませんか。