◎ 2014年3月16日(日) 「東京が戦場になった日」を見て 私のかすかな思い出
このドラマでは、その戦争当時の若者達の国や父や母、兄弟、姉妹に対する
思いが描かれていました。戦争に巻き込まれた兄さん達の戦死の知らせに
泣き崩れる父母、疎開先から帰ってきた妹の兄に対する気持ちも少し描かれ
ていました。消防士になった主人公が次第に決死の気持ちで取り組んで行く
姿が描写されていました。やがて、東京大空襲の日を迎えるのですが、余り
の焼夷弾に手も足も出ない有様が描かれていました。家族は全員焼け死ぬ
のですが、本人は友達の助けで生き残ります。(死を覚悟していたのですが)
その後の人生はいかばかりかと思わずにいられない作品でした。
たった1時間半でしかないのですが、戦争時に生きていた老人は、このドラマ
でいろいろと記憶が甦ったと思います。
戦争の悲惨さやむなしさを直に味わったものと、映像だけのものとでも随分
違うとおもわれます。
私の戦争の記憶は、当時6才~7才のときからです。家の横に粗末な防空壕
を掘り、空襲警報のたびに、母や兄弟祖父母とで、穴の中に逃げ込んだので
す。私は、大阪の下町に住んでいる時でした。
初めは艦載機は、上空はるか白い尾を引くほどの高さのところを飛んで、
日本の高射砲がはるか下のほうで煙をはくようなものでした。
やがて、いくら低く飛んでも、高射砲の弾が撃たれることがなくなりました。
B29が、私の町にも来るようになりました。艦載機も昼夜かまわず来るよう
になり、祖父母もうわし達は防空壕ににげるのもいやになった、このまま家
と一緒に焼け死んでもよい」とまで言うようになり、その晩の夜行で母の実
家に父を残して、疎開しました。広島の呉の向かいの能美島に行ったので
す。
その能美島から、またも、呉の造船所が毎夜の艦載機の空襲にさらされる
のを見たです。まるで、悪夢の美しい花火を見るようなものでした。
やがて、広島市内に原爆が投下され、きのこ雲がたちのぼりました。この島
にも突風と黒い雨が降りました。
「 このとき、奇跡が起こっていたのです。と言うのは、母親の姉の子、従兄弟が
爆心地の広島一中に居たのです。明くる日、叔母家族は、焼け野が原の震災
地にむけ出かけたのですが、近くにも行かれず、帰ってきました。
数日して、その従兄弟が帰ってきたのです。みんなびっくりしました。当日、
あまりの暑さのため、一中の地下の医務室で休んでいたそうです。それから
彼は、50才近くまで生き延び、子どもも授かりました。でも、最後は白血病で
亡くなったのです。」
そして、数日して、本家にいるとき、玉音放送があるからというので朝から皆
してラジオの放送を聞きました。だれからともなく、「これで戦争は終わった。
日本は負けたのだ」と言いました。
終戦から3ヶ月後、大阪の家に帰りました。家は少し焼けただけで残っていた
のです。父が消防団のリーダーをしていたからだと言っていました。
帰る時の広島の海はあちこちに魚雷があり、小さいのや、大きいのが無数に
あり、魚雷の周りには旗が立っていて、それを避けて宇品港まで帰ったのです。
逆立ちした、日本の軍艦や船もたくさんありました。
広島の駅までは、焼け野が原のがらくたの山でした。
大阪に帰ったのはよかったのですが、それからも数年食べ物に困り、父母や
祖父は空き地という空き地に野菜を植え、にわとりを数十羽飼い、私達子ども
もいろいろと手伝いました。買出しにも、列車で明石等に出かけました。
つらいつらい思い出は遠のくばかりです