◎ 2013年3月2日(土) 田辺聖子 「そのときはそのとき」楽老抄 集英社
小林一三という人は、古い大阪人にとっては、一種独特のニュアンスで
もって思い出されている。私の両親も祖父母も、イチゾはん
と呼び
ならわしていた。イチゾはんには、なみの経済人にはない夢
があ
る。ロマン
がある。
私鉄やターミナル、デパートはほかの実業家もつくった。しかし、タカ
ラヅカは
夢
のある人でなければ作れない。実利的な大阪で
タカラヅカ の夢だけは定着し、誇りとされ、花開いていった。
イチゾはん
が格別の親愛感と関心を持たれ、大阪人から敬愛さ
れている所以だ。
少女歌劇がはじめて公演されたのは対象三年だったが、四年後には
東京帝劇に進出、このときからお金を取って見せるようになる。年を追
うて人気が高まり、大正13年には四千人収容の大劇場ができた。
小林さんは、宝塚歌劇を、女性文化の淵叢(えんそう)と考えていたの
であろう。清く正しくうつくしくがこの世に行われにくいのは、本来リアリ
リストたる女たちが男よりもよく知っている。だからこそ、美しく善きもの、
清いものへの夢を抱きつづけ、女のよさ、女の愛を唄いあげるのだ。
小林さんは明治の男だけれど日本人ばなれした女性理解者である。
そんな男は今までいなかった。そんな実業家は、彼以前も以後もいな
いであろう。
司馬遼太郎さんの小説に登場する女性たちが、なんとも生彩が
がある。司馬さんの小説に出てくるヒーローの男たちはみな魅力的だ。
転換期の時代を切り開いてゆく英雄たち。才幹、情熱、識見、人望・・・
それぞれの器量をありあまるほどそなえ、そして、ここが一点、ふしぎな
共通点だが、小説の主人公たちにふさわしい 徳
を賦与されている。
彼らには、おしなべて、男の可愛げ
があるのだ。だから周囲に好か
れるのだ。そこが、読者を魅了し、どんな膨大な長編小説でも一気に読
ませてしまう。
これが女人像となると複雑だ。司馬さんが恋愛小説
も広く読まれた
に違いない、と思うのはそんなときだ。ヒロインの中には女性読者が読
んで,あまり共感の持てない個性が登場する。そのくせ、そのたたずまい
の描写の生き生きして精緻で鮮明なこと。
たとえば「竜馬がゆく」のおりょうだ。・・・・
風雲急を告げる幕末の時期,国事に奔走して新時代の構築を夢みる
坂本竜馬。この男がまことに男臭芬芬(ふんぷん)と魅力的に描かれて
いて、こういう男と かかわりをもった女は、たいてい魅了されてしまうだ
ろうと思われるが、小説の中では三人いる。北辰一刀流の皆伝をもつ
千葉さな子。男まさりで才気もあるが、恋すると少女のような一面もあ
っていじらしく、これは女性読者にも好かれる。
もう一人は、土佐藩の家老、福岡家のお田鶴さま。勝気で利口で美しく
これも同姓には好もしい。
竜馬はそのどちらからも愛され、自分でも嫌いではない。竜馬は、女く
さく、めめしく、しめっぽい女は嫌いらしい。今風に言えば、ボーイッシュ
な感性 に、むしろコケットリーを感ずるらしい。
しかし偶然めぐりあった、おりょうという女に心を奪われてしまう。この
おりょうの造型がすばらしい。とびきり美しいが、かなり風変わりな娘。
家柄の良い家に育ち,生花、お茶、香道などの教養があるのに、当時
の女常識的な躾とされた炊事・裁縫はできない。
世間なみな挨拶もせず、よけいなお世辞もいえない。悪気はないが、
当時のごくふつうの女が男に対するときの、はばかり、つつましやかさ
もない。生育暦の中で学習し損ねたのか。周囲の違和感も不快も彼女
は更に意に介しない。といって、ふてくされているのではないし、増長、
高慢でもない。それが地なのだ。
それは同姓に対するときも同じだが、まわりへの配慮がない性質から、
竜馬に思いを寄せている女たちには、あからさまな敵意をみせてしま
う。それが子供のようにむきだしなのである。天性の野人なのである。
それが美しい娘であるところが面白い。小説の中とはいえ、女性読者
はたちまち反感をもってしまうだろう。・・・
はばかり太郎な老人より