前回「ガザ地区の戦乱②」では、「欧州の世論は、イスラエルの強硬姿勢への拒絶反応が膨らみつつあるのに対して、米国の世論の多くは、むしろイスラエル強硬姿勢を支持している」状況をお話ししました。そして、そうした国際世論の左右のブレが、ガザ地区の戦乱を収拾させるパワーを削いでいると申し上げました。
今回は、「なぜ同じキリスト教圏である欧州と米国で、そのような世論の違いが生まれているのか?」について、ワタクシの見解を述べてみたいと思います。
この違いの原因は、そもそも「キリスト教にとってのユダヤ教の位置付け」の違いがあるからだとワタクシは考えています。
ご案内のとおり、キリスト教は、2000年前にユダヤ教から生まれた新興の宗教であります。ユダヤ教徒であったイエスが、十字架に架けられあとに復活を遂げたことから、「イエスは救世主である」と信じたイエスの弟子たちがイエスの教えを布教し始めました。これがキリスト教の起源であります。
問題は、「救世主であるイエスが十字架に架けられた経緯」。ローマ帝国支配化にあった当時のエルサレムにおいて、「イエスを十字架に架けよ」と強く迫ったのは、ユダヤ教保守派のユダヤ人自身でありました。このあたりは、マタイ福音書第27章第25節にあるとおり、イエスの処刑を躊躇するローマの総督に対して、「その血の責任は、我々と我々の子孫の上にかかっても良い」と、ユダヤ教の祭司長と長老たちが群衆を促して処刑を求めさせたとなっています。
マタイの福音書は新約聖書の一部であります。ローマカトリックでも、宗教改革後のプロテスタントでも、欧州大陸のキリスト教徒たちは、当然ながらキリスト教の聖典を暗唱できるくらいに繰返し繰返し頭に刻み込むことになります。結果として、欧州大陸のキリスト教徒の潜在心理の奥底には「イエスを十字架に架けたのはユダヤ人」という想いが強く刻まれていきます。これが、2000年の間、欧州大陸に蔓延った、陰湿かつ根深い「ユダヤ人差別」の原因と考えられています。
そして、今の欧州大陸のキリスト教徒の潜在意識には「ユダヤ人は『あの時と同じようにやり過ぎている』のではないか?」という想いが根強くある気がいたします。
一方で、建国から約250年しか経っていない米国。アメリカのキリスト教には、欧州のキリスト教内にあるような古くからの因習や恨みにも似た偏見はなく、それとは無縁の新しい風が吹き込まれており、ユダヤ教は、キリスト教が生まれるための「親」のような存在(=キリスト教福音派)と理解されています。すなわち、お互い同族に近く、双方は繋がっている存在という感覚です。したがって、神が創った国であるイスラエルが苦しんでいる状態、あるいは誰かから傷つけられている状況をキリスト教徒は見過ごすべきではない、という想いがまず先に立ちます。
この違いが、今回の欧米の世論の違いを生んでいるというのが、ワタクシの見解であります。そう考えると、根が深い問題であるため、なかなか事態収拾に向けた糸口が見つからないのも頷けるというもの。
ちなみに、ユダヤ教にとって「キリスト教」はどう見られているのでしょうか。
ユダヤ教にとってイエスは救世主ではなく、一人の預言者に過ぎません。したがって、キリスト教のことは「ナザレ派」と呼ばれ、ユダヤ教から派生した一派と看做されています。当然ながら、救世主の誕生を祝うクリスマスという習慣はあり得ません。
最後になりますが、今回のガザ地区の戦乱は、イランとハマスが企図した軍事作戦にまんまと嵌って、中東情勢がもとの混迷時代に戻されてしまったという事象です。
本来ならば、「過去よりも未来を見据えて新たな時代の幕開け」となるはずだった中東地域。我々日本人は、目の前の惨状をただ嘆いたり、「平和をただ祈る」というだけで思考を止めてしまいがちですが、それだけでは何も解決いたしません。実現直前だった中東地域の新しい未来のために、今の日本に何が出来るのかという視点から、この状況をあらためて考察していくことが重要であります。
ひとつ間違えれば、第5次中東紛争が勃発してしまうリスクがあります。それを避けるためにも、今回のガザ地区の戦乱がなぜ発生したかを正しく理解し、その上で本来の新しい潮流に戻すために、世界各国がどう協調・協力していくかが最重要課題。そこにおいて日本が出来る役割は大きいものになるはずとワタクシは考えております。