アメリカン・ブルーです。
今日の仙台は、雨が残る、薄暗い朝を迎えました。
2011年、3月11日・・・
M9という、未だ体験したことのない巨大地震に見舞われてから、1年。
去年も、こんなに寒かったかしら・・・
夫とそんな言葉を交わしました。
ほぼ、毎日のように更新し続けてきた私のブログも、さすがにその日の記載がありません。
前日のブログでは、その前の日にあった、やや大きな地震への心配のコメントが寄せられており、
大丈夫でしたと、普通に昼過ぎまではコメントを返しておりました。
ちょうど、その前日に起きた震度4の地震の時は、パソコン教室で勉強中で、
N先生が、「地震予知サイトで今日、M8クラスの地震が来るって言ってました」と言われ、
それはなに?
とても不思議に思いにかられながら・・・聞いていました。
「M8の地震が来たら、閖上なんか津波で壊滅するよ!!」
そんな校長先生の冗談とも思える言葉に、そこにいた人たちは、まさかそん現実が迫っていることとも知らず、
みんなで大笑いしたことが、今は悔やまれます。
99%の確率で間もなくやってくる宮城県沖地震・・・・
そう言われて、頭の中では解っていたものの、誰もが、その巨大地震と、巨大津波と、
それに伴って起こってしまった福島原発の脅威までを、
その時は想像だにできてはいませんでした。



その日は、一週間前に単身赴任で福島市に引っ越してしまった夫が、
仙台での会議に自分の休みをつけて、たまたま家にいたのです。
引っ越しの疲れから、風邪を引いてしまったらしく、
当日は、近所の内科で診てもらい、風邪薬を貰って来て、
お昼ご飯を食べて、薬を飲んで、午後2時頃、ルナを連れて、
「少し寝るから・・・」
そう言って、2階へ上がって行きました。
それから、間もなくの、2:46です。
それは、左右に大きく揺さぶられる、
今までに感じたことのないほど、振幅のある、異様な揺れから始まりました。
近年、何度も震度5~6の揺れは襲ってきており、
そのたびに、「これは、予想されている宮城県沖地震では無い」
そんな事に、半分慣れていたことも事実です。
しかし、間もなくそれは、ただならぬ長い長い恐怖に変わって行きました。
収まるかと思うとまたやってくる・・・これでもか、これでもかと言うほどに大きく長い揺れでした。
私は、皆さんも良くご存知の、
私の大事な「マニ―」が入っているカップボードを支えながら立っていました。
「これは、重心が下にあるから、これが倒れるときは、すべてが終わりだよ(笑)」
そう息子に言われて、そうなのか・・・と思っていたものの、
すでに、カップボードは半ば前傾姿勢になって来たように感じ、
その恐怖に、遂に、悲鳴を上げてしまいました。
その時、夫は、二階で、ルナを抱いたまま、やはり、タンスを支えて立っていたそうです。
私の悲鳴が聞こえて、そのまま下へ降りて来て、ルナを私に渡して、
私の代わりにカップボードを支えてくれて、
庭に出るガラス戸を開けるように言いました。
頑張って、開けようとしましたが、左右に揺さぶられながら、ルナを抱いて、
ペアガラスになっている普段でも重いサッシはなかなか開きませんでした。
私はそのまま、ルナを抱いて、半ばあきらめと放心状態で、その場に座り込んで、
「これで死ぬのかなぁ~」
そんな事を茫然と考えながら、リビングの吹き抜けに吊るしている細長いシャンデリアタイプの電灯が、
なんと、180℃の弧を描いて振子のように揺れているのを、
珍しい・・・とずっと見つめていたのでした。
のちに、5分とも6分とも言われている、一回で3回分だった地震は、
ひとまず、落ち着きをみせ、ようやく、呼吸ができた様な想いでした。
ガラス戸は、いつも使っている方は開かなくなっていましたが、
反対側が、何とか開くようになりました。
それは、いまも、同じ状態です。
いつもなら、地震と同時にその戸を開けていた私ですが、
あの日は、それさえもできなかったのです。
でも、あれを開けていたら、今度は閉まらなくなっていたのでは・・・・
そんな事をようやく考えるこの頃です。



「何とか持ちこたえたか・・・・」
夫は、そう言っていました。
もしかしたら、家はもうここまでかと思っていたようでした。
そんな直後、「ブルーさ~ん!!ブルーさ~~~ん!!」
外で私を呼ぶ声がしました。
庭へ出ると、お向かいの奥さんが、「大丈夫ですか~?」と、
一人でいるだろうと心配をして来てくれたのです。
夫は、間もなく津波が来るだろうから、まずは、ここから逃げよう・・・・
そう言っていました。
私の住む所は、仙台市の最南端海側と言っても良いところで、
むしろ、名取市閖上に隣接する、東部道路で津波の難を逃れたところです。
夫は、名取川を津波がさかのぼって、ルナと良く散歩しているあの土手を超えてやってくるはず・・・
そう前からずっと言っていました。
夫は私を心配して来てくれた、お向かいの奥さんと臨月のお嫁さんと、
大型犬アイリッシュセッター・ハーディを車に乗せて、
私とルナは、私の車にのり、待ち合わせは場所はスーパーの屋上へ・・・・
しかしながら、行った先のスーパーの屋上は陥没して、ロープが張られていました。
でも、その場所は、津波はここまでは来ないだろうと思われるところだったので、
私達はそこで、しばらく様子を見る事にしました。
そこへ、息子から、電話が入って来たのです。
「今何処にいる?! TVで、ものすごい津波の映像が流れている・・・・」
息子も我が家の位置が、不安で電話をかけて来たのだと思いました。
逃げて、離れたところまで来ていることを伝えて、
私達には、何にも情報がないことを告げ、
しばらくはここで待機すると話しました。
地震から、2時間ほどを過ごして、家に戻りました。
そこで初めて、家の損壊や、家財の損傷、壁の無残なやぶれかた、
物の散乱状態、二階では、夫が支えていた和ダンスは、倒れてふたつに分解し、扉は取れて飛んでいました。



今思えば、この日、私は、泣かなかった・・・
人間は、こんな時は、涙が出ないものだと後で思うけれど、
余震の恐怖と、寒さに震えて、その晩は、ルナと夫と車の中で夜明けを待ったけれど、
その時に見た、「満天の星空」を題材に、翌日、携帯からブログを更新したことを覚えています。
そして、そこに寄せられた、多くの方々の心配と励ましのメッセージに、
ようやく、人の心に帰って、涙が流れたのでした。
この動画は、震災前の夏の終わり・・・・
家から車で10分もかからない、ルナと初めて遊んだ閖上の砂浜です。
波を怖がらずに、楽しんだルナ。
一緒に映っている、親子の様子もなんてのどかなことでしょう。
海が悪いわけではないんです。
海は嫌いにはなれないんです。
でも、私はまだ、ここへは一度も行くが出来ないんです。
名取市閖上は、今日、一日限りの復興朝市を催しているようです。
安心して暮らせる環境をここに求めることはできるのでしょうか・・・・
震災の前の日の状態に、もう、何ひとつ戻ることは出来ないでしょう。
戻ることができないなら、新しい道を探すことを選択して、
その先に、希望を持つこと、それが、「生きる」ということ、
そして、何げない日常がいかに素晴らしかったことかを忘れてはいけないと思っています。
今は亡きお隣の奥様から貰った、避難所で配られたという小さなおにぎり。
車のダッシュボードの上に置いて、
太陽の光で温めて食べたあの美味しかった記憶。
大事に取っておかないといけませんね。


今日は、長いひとり言を書いてしまいました。
あの日、あの時のことは、日本中のどんな人にもひとつのドラマがあるんです。
その瞬間は、その人にしか語れない想いがあるのです。
本日は、いつもより早めの更新です。
私のあの日、あの時を今日こそ残しておかなくては・・・
何があるか解りませんからね。
そして、その瞬間には、
この震災で命を亡くされた多くの方々に、黙とうを捧げたいと思っています。
震災から1年、このブログを通じて、お友達になっていただいた方々には、
本当に大きな心の支えを頂いて参りました。
お会いしたことのない方々が、親戚のおばさんのように、
昔からの友達のように、そして、家族のように・・・・・・・
ありがとうございました。
今度は、私も、微力ながら、皆さんのお役にたてることがあればと願っています。

