「義経北行伝説」をご存知でしょうか。
義経公は衣川で死なず、三陸沖を陸路移動し、津軽の十三湊から蝦夷地(北海道)に渡った。
この伝説がいつ頃誕生したものか、よくわからない。この話の初出は、江戸時代の儒学者林羅山の著書「本朝通鑑」らしい。
江戸時代とはまた、随分新しい。だからと言って必ずしも新しい伝説とは限りませんが、それにしても新しい。
私は個人的には、この北行伝説を信じてはいない。でも気持ちはわかる気がする。
義経公の生涯はあまりに華麗で、あまりに哀しい。だからせめて、伝説の中だけでも
逃がしてあげたい。
生かしてあげたい。
でもやはり、義経公は衣川で死んだのです。
そういうことにしておいてあげるのも、眠らせてあげるのもまた優しさ
ではないかな。
もう、そっとしておいてあげようよ。
大陸に渡ってジンギスカンになったとか、一体義経公になにを期待しているのか、なにを託したいのか。
もういい。
平泉中尊寺の金色堂には、藤原清衡公、基衡公、秀衡公三代のミイラが納められ、五十六億七千万年後の弥勒下生を待ちわびています。
いや、正確には三代ではありません。
四代目泰衡公の首だけのミイラも共に納められています。
平泉を滅亡に追い込んだ張本人といってよい泰衡公は、長いこと評判が悪かったし、泰衡公の首が納められていたなど、昭和の大修理の時まで知られていなかったようです。
泰衡公の首には、釘が打ち付けられた跡がありました。これは頼朝がこの首を、厨川の柵跡に晒したときに付けられたものです。
この首を、名も知られぬ誰かがそっと持ち帰り、金色堂に、父祖の霊が眠る堂宇に、そっと納めた。
この優しさが、義経北行伝説を生んだ元なのかも知れない。
泰衡公の首桶の中には、蓮の種が撒かれていました。極楽浄土に咲く蓮の花の種を撒くことで、非業の死を遂げた泰衡公の極楽往生を願ったのでしょう。
この優しさ。これが
日本人。
おわり。