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源義経公基礎知識⑨ 伝説の誕生

2022-05-16 15:27:56 | 歴史、民俗

「義経北行伝説」をご存知でしょうか。

義経公は衣川で死なず、三陸沖を陸路移動し、津軽の十三湊から蝦夷地(北海道)に渡った。

 

この伝説がいつ頃誕生したものか、よくわからない。この話の初出は、江戸時代の儒学者林羅山の著書「本朝通鑑」らしい。

江戸時代とはまた、随分新しい。だからと言って必ずしも新しい伝説とは限りませんが、それにしても新しい。

 

私は個人的には、この北行伝説を信じてはいない。でも気持ちはわかる気がする。

 

義経公の生涯はあまりに華麗で、あまりに哀しい。だからせめて、伝説の中だけでも

逃がしてあげたい。

生かしてあげたい。

 

でもやはり、義経公は衣川で死んだのです。

 

そういうことにしておいてあげるのも、眠らせてあげるのもまた優しさ

 

ではないかな。

 

もう、そっとしておいてあげようよ。

 

大陸に渡ってジンギスカンになったとか、一体義経公になにを期待しているのか、なにを託したいのか。

もういい。

 

 

 

平泉中尊寺の金色堂には、藤原清衡公、基衡公、秀衡公三代のミイラが納められ、五十六億七千万年後の弥勒下生を待ちわびています。

いや、正確には三代ではありません。

四代目泰衡公の首だけのミイラも共に納められています。

平泉を滅亡に追い込んだ張本人といってよい泰衡公は、長いこと評判が悪かったし、泰衡公の首が納められていたなど、昭和の大修理の時まで知られていなかったようです。

 

泰衡公の首には、釘が打ち付けられた跡がありました。これは頼朝がこの首を、厨川の柵跡に晒したときに付けられたものです。

この首を、名も知られぬ誰かがそっと持ち帰り、金色堂に、父祖の霊が眠る堂宇に、そっと納めた。

 

この優しさが、義経北行伝説を生んだ元なのかも知れない。

 

泰衡公の首桶の中には、蓮の種が撒かれていました。極楽浄土に咲く蓮の花の種を撒くことで、非業の死を遂げた泰衡公の極楽往生を願ったのでしょう。

 

この優しさ。これが

 

日本人。

 

 

おわり。

 

 

コメント (2)
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