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源義経公基礎知識②~奥州平泉おさらい・前編~

2022-05-04 05:42:30 | 歴史、民俗

義経公を知るには、奥州平泉のことを知らねばなりません。

 

義経公が10代から20代にかけての、最も多感な時期を過ごした平泉。その頃の暮らしが義経公のものの見方、考え方に多大な影響を与えたことは間違いないでしょう。奥州平泉は義経公を知る上でも、この時代を知る上でもとても重要な地なのです。

 

 

平安時代後期、朝廷から郡司の職を賜り、奥六郡(現在の岩手県中央部付近)を実質的に治めていた安倍氏。時の陸奥国司・藤原登仁は、安倍氏が徴税した品を私しているとして、軍を率いて安倍氏を討伐しようとしますが、鬼切部(現在の鬼首温泉付近)での戦闘で朝廷軍は大敗を喫し、藤原登仁は失脚、後を継いで陸奥国司に就任したのは、時の武門の棟梁、源頼義でした。

頼義は息・源義家とともに奥州に下向、奥州の権益を独占しようと安倍氏に対し、度重なる挑発を加えますが、安倍氏は一向に乗ってこない。

ついに頼義の任期が切れるというとき、安倍氏の長・安倍頼時の一子貞任が、頼義の陣を襲ったと言いがかりをつけ、貞任の引き渡しを要求します。これにとうとう堪忍袋の緒が切れた安倍頼時。ついに両者は戦闘状態に入ります。

都合11年に及んだこの戦争を「前九年合戦」といいます。

 

戦争は膠着状態が続き、焦った源頼義は、出羽国仙北郡を治める清原氏の助成を受けることでようやく状況を打開、安倍氏を厨川柵に追い詰め、ついに戦闘に勝利します。

 

結局源氏は自軍だけでは勝利することができず、秋田の実力者清原氏の力を借りなければ、安倍氏に勝てなかった。朝廷はこの点を冷静にみていました。

安倍氏の治めていた奥六郡は清原氏に与えられ、頼義は奥州の豊富な権益を手に入れることができなかった。11年もかかってようやく勝てたと思ったら、なにも手にすることができなかったわけです。

頼義・義家親子の無念は、源氏類代の遺恨として、源氏の長に伝えられていきます。それは源頼朝の代にまでも......。

 

 

さて、安倍頼義・貞任率いる軍に味方した人物の中に、藤原経清という人物がおりました。

現在の宮城県亘理郡に所領を持ち、亘理権大夫と呼ばれた藤原経清は、藤原北家に連なる名門であり、かの平将門を討伐した藤原秀郷(俵藤太)の6世の孫とされています。

 

経清は国府・多賀城に務める役人でしたが、安倍頼時の娘を妻に娶っており、安倍貞任とは義兄弟。朝廷側よりも安倍氏側に強いシンパシーを感じていたようで、初めこそ源頼義の命に従い、安倍氏追討軍に従軍していたものの、最終的にこれを裏切り安倍氏側に走ります。

 

経清は安倍軍の名参謀となって源氏軍を翻弄し、頼義はこれを大変憎みました。厨川柵が落ちた後、経清は捕らえられ、頼義の前にひかれます。頼義は錆びた鈍刀で経清の首を落とさせるという残虐な刑を執行します。錆びた刀ですから当然切れにくい。これで無理矢理首を落とそうとするわけですから、その苦しみたるや、想像を絶するものがあります。

頼義はこれを歓喜の目で笑いながら見ていたといいます。これがこの時代の武門の棟梁です。

この時代に、武士道などなかった。

 

 

経清の死後、経清の妻は安倍氏を滅ぼした清原武則の子、清原武貞に再嫁します。経清との間には一人の男の子を儲けておりましたが、この子は清原氏の子として、他の子たちと分け隔てられることなく育てられたようです。

 

経清の子、その名は清衡。

 

清原清衡、後の奥州平泉藤原氏初代

 

藤原清衡です。

 

 

後編に続く。

 

 

コメント (2)
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