奥州藤原氏には、中央に進出しようという野望などなかった。しかし頼朝には、そんなことはわからない。
平泉の持つ軍事力に脅威を抱き、これを潰さぬ限り、鎌倉政権の安寧はないと思った。
義経公のことは、平泉を潰すための絶好の機会でした。
朝廷としては、義経の首が届けられたことでもあるし、これで事は終わった。平泉を誅するまでもないとしていました。しかし頼朝は、謀反人義経を匿ったのは重罪であり、追討すべきであるとして、朝廷に泰衡公追討の院宣を出すよう迫ります。
しかし朝廷は言を左右にし、なかなか院宣を出さない。
焦れる頼朝。この時、頼朝の家人、大庭景義がこう進言します。
「軍中、将軍の令を聞く、天子の詔を聞かず」
院宣があろうとなかろうと、頼朝が「動け!」と命じれば軍は動く。
もはや頼朝の勢いを止められるものは、それこそ平泉以外にはない。その平泉は内部分裂によりガタガタになっている。
やるならいましかない!
頼朝は平泉への進撃を決断します。
17万騎とも云われた平泉の軍勢でしたが、百戦錬磨の鎌倉勢にあっけなく、本当にあっけなく敗れてしまいます。泰衡公は逃亡し、頼朝に除名嘆願の文を送りますが、頼朝は受け入れない。
そうして泰衡公は、家人川田次郎の裏切りにより討たれます。
頼朝の下に泰衡公の首が届けられます。頼朝は川田次郎に対し
「主君を裏切る者は、いずれ我らをも裏切るであろう」
として、これを処刑します。
奥州は源頼義以来、源氏にとって宿怨の地でした。頼朝は前九年合戦の古戦場、厨川の柵跡を訪ね、その地に泰衡公の首を晒します。
ついに奥州は源氏の手に落ちた。源氏の長の宿怨は
晴らされた。
鎌倉政権は、もはや磐石。
もう少しつづく。