あくまで竹田恒泰流解釈です。他の解釈もあり得るかとは思いますが、ひとつの参考にはなるかと。
希少なる読者のみなさん、今年も大変お世話になりました。来年もどうかひとつ、よろしくお願いいたしとうござりまする~。
どちらさまも
良いお年を。
あくまで竹田恒泰流解釈です。他の解釈もあり得るかとは思いますが、ひとつの参考にはなるかと。
希少なる読者のみなさん、今年も大変お世話になりました。来年もどうかひとつ、よろしくお願いいたしとうござりまする~。
どちらさまも
良いお年を。
脚本、監督、主演、のん。
主題歌、サンボマスター『ボクだけのもの』
特撮監督、樋口真嗣。
予告編編集、岩井俊二。
コロナ禍で卒業制作の作品が発表できなくなってしまった美大生の苦悩。
「世の中の人たちみんな、芸術なんかなくたって生きていけるんだって」このセリフに込められた、表現者のんの悔しさ、哀しさ。
表現者はある意味、自分の命を削って作品を作っている面があると思う。表現者にとって作品は「命」でもある。
それを、簡単に「不要不急」などと決めつけてしまっていいのか?私はずっとそう思ってきたし、今でもそう思っている。
この映画は、自分の「命」をまるでゴミのように扱われた表現者自身からの、異議申し立て、なのかもしれない。
大切なものは人それぞれ、それをアンタの狭い了見であーだこーだ決めつけるな!
いや、この映画がどういう映画なのかはまだわからないよ。なにせ来年2月公開だからね。
公開されてから、もう一度語ってみたい。
それにしても、樋口真嗣に岩井俊二って、のんちゃんの人脈はなにげに
おもろい。
おおみたからとは、歴代天皇が庶民を指して使われた言葉。旧かなづかいでは「おほみたから」と書きます。
みたから、つまりは「御宝」ですね。宝物ということです。
御宝以外にも様々な漢字があてられていて、「蒼生」「衆庶」「人民」「民」そして「百姓」など字があてられるようです。
百姓というのは今でこそ「農民」の意味になっていますが、本来は庶民一般すべてを指していました。百というのは「たくさん」という意味で、姓は家、血統を現しますから、百の家=たくさんの血族、つまりすべての民という意味になります。
歴代天皇はこのように、庶民を「御宝」と呼んで慈しんできました。第16代仁徳天皇の御事績など、今更私が紹介するまでもないとは思いますが、仁徳天皇のような大御心を、歴代天皇は御自身の大御心とされて、庶民に相対されてきたのです。
それが、おおみたからという言葉に現れている。
庶民は宝。天皇はこのような大御心をもって庶民を慈しみ、庶民はそんな天皇を敬愛し、守ってきた。
それが天皇と民との関係性です。2000年に亘って培われ、積み上げられてきた、美しき伝統です。
その天皇は、初代より今上陛下に至るまで、万世一系を守ってきました。男系系統を守り通してきました。これもまた、美しき素晴らしき伝統。
我ら日本人の先人たちが守り、育て、積み上げてきた伝統を我々の代で簡単に崩してはいけない。伝統文化は民族のいわば「魂」です。
簡単に崩されてたまるか!
そういうことです。
昔、とある新興宗教団体の教祖さんは、自分が「神」であると自称していたそうな。
だから、信者さんたちには、教祖さん自身を拝ませていたそうですよ。信者さんたちは、その教祖さんが鎮座増しますところへ向かって、一生懸命祝詞を奏上したそうな。
「神」とは、祈られる、拝まれる存在だから、ということなのでしょうな。
なんと言っていいのやら......。
さて、戦前の天皇は「神」だったが、戦後「人間」になった。とか言う方々おりますな。いわゆる天皇の「人間宣言」と言われる奴です。
でもそのいわゆる「人間宣言」には、どこにも
【「神」を辞めて「人間」になる】
などとは書かれていないそうですな。私は読んだことないですけど。
書かれていることは、朕(天皇)と国民との関係性は、お互いの信頼と敬愛によるものであって、「神話」や「伝説」のみで成り立っているのではない。という意味のことなのだそうな。
この「神話」や「伝説」のみで成り立っているのではない、というところを切り取って、「天皇は神格を否定した」だの「天皇は人間になった」だの言っているようです。
どこをどう読めば、「人間宣言」になるのでしょうね。むちゃくちゃな話です。
天皇は常に民を思い。民のために「祈る」存在だった。民はそんな天皇を敬愛し守ってきた。それが2000年以上に亘って続いてきた、天皇と国民との関係性であり、民は天皇そのものを「神」として崇めてきたわけではなく、民のために「神」に祈り続ける天皇に「神聖性」を見出してきた。
天皇というのは、神武天皇の昔から「人」でありました。神武帝の祖父にあたられる天孫ニニギノミコトは、地上に降臨した後、国津神オオヤマツミの娘、コノハナサクヤヒメを妻としますが、その姉であるイワナガヒメを、好みでないと送り返してしまった。イワナガヒメも妻に迎え入れていたならば、ミコトの命は岩の如くに永遠であったろうに、コノハナサクヤヒメのみを妻としたため、ミコトは花のように儚く散る短い寿命を持つ「人間」となったのです。
だからそのニニギノミコトの孫にあたられる神武天皇は、生まれた時からすでに「人間」だったのですよ。
記紀神話の段階から、天皇は「人間」なのです。だから
わざわざ「人間宣言」などする必要などない。天皇は太古の昔からずっとずっと、ずーっと、
「人間」でした。
もし天皇を「神」だと思っていたというのなら、冒頭に記述したような、天皇そのものを「神」として祀る、拝む、そのような儀式なり習俗なりがあってしかるべきだし、今上天皇をお祀りする神社があってしかるべきなはず。
でも、そのようなものは一切ありません。
天皇はあくまでも「祈る」御存在。初代から今上陛下に至るまで、「拝まれる」存在であったことは
一度もない。
天皇は最初から
「人間」。
ただ日本人は、そんな風に民のために祈り続けておられる天皇に、ある種の「神聖性」を見出した。天皇の中に、「神」の如きものを見ていた。ということは言えると思う。
祈られる天皇の中に、神の顕現を見た。
天皇はあくまで「人間」、ただその「人間」天皇の中に、神の現れをみた。
人の中に顕現する神。人の中に現れる神。
それを称して
「現人神」と言ったのでしょう。
現人神は「人間」です。人間の中に、神の顕現をみたのです。決して「神」そのものではない。
天皇は昔からずっと「人間」でした。天皇そのものが「神」であったことは一度もない。
だから、昭和天皇がわざわざ「人間宣言」などするわけがないのです。
天皇は民のために祈り。民はそんな天皇を敬愛し守ってきた。この美しい関係性が2000年以上も続いてきた。日本はそういう国。
以上、ほぼ竹田恒泰先生からの受け売りでした(笑)
『青天を衝け』終わりました。
幕末から明治を描いた大河ドラマで、旧幕側の人々をあそこまで徹底的に描いたドラマは珍しい。なんといってもその点を評価すべきだなと、思います。
特に徳川慶喜公、草彅剛さんの名演もあって、とても魅力的な人物として描かれていたのは、称賛に値します。
もちろん、ドラマですから、誇張された部分もあるだろうし、敢えて描かれなかった史実もあるでしょう。
話をわかりやすくするため、テーマを絞り込みたいがため、歴史上の有名人でも敢えて登場させなかった人物たちもいます。坂本龍馬や木戸孝允(桂小五郎)などがそうだし、一応登場したけど、ほぼいないかのように描かれた、松平容保公や松平定敬公。容保公に関しては、あまり詳しく描いてしまうと、徳川慶喜公の「負」の部分が強調され過ぎてしまうと考えたのかな、とも思います。慶喜公に感情移入しにくくなってしまうというか。
だからあえて、描かなかったのだろうと。
ドラマですから、それも仕方なかったのかなと、いまでは思っています。ともかくも、慶喜公のイメージが刷新されたというだけでも、十分意義はあった。
昨日の最終回でとても印象的なシーンがあって、それは原敬首相(石丸謙二郎)の暗殺シーンです。ああいうシーンは例えば新聞記事だけで済ませるとか、ナレーションだけで伝える(ナレ死)とか、セリフだけで済ませるとか、やり方は色々あったと思う。だって西郷さんの死もそんな感じで済ませてますからね、原敬みたいに少ししか出ていない人物の暗殺シーンを、なぜわざわざ描いたのだろう?
これは私の妄想ですが、原敬というのは盛岡藩の家老の出自です。盛岡藩は戊辰戦争で、新政府軍に最後まで抵抗し続け、逆賊の汚名を着せられてしまった、そんな藩に出自を持つ。
だから、藩の汚名を雪ぐため、国に尽くす。原敬とはそういう生き方をした人物だと思う。逆賊の汚名を着せられ、それでも、いやだからこそ、国のために尽くした。そんな人々を描いたのが今回のドラマだとするなら、原敬はまさに、そのテーマにそった人物だった。
原敬を演じた石丸謙二郎氏は、その最期のシーンで、笑顔とも泣き顔ともつかない不思議な表情をしています。「やり遂げた、でももっと尽くしたかった」とでも言いたげな、そんな表情。
石丸謙二郎、名バイプレイヤーです。
ラストシーン、渋沢栄一の孫、敬三氏が、栄一追悼会で述べたスピーチに、こんな言葉がありました。
「棒ほど願って針ほど叶う」
栄一の人生を評した言葉でしたが、ああ、人生って、そんなもんだよなあって、妙に納得してしまいました。
そこに嫌な感じはないし、哀しみも感じない。むしろ笑ってしまう。妙に納得してしまう。
人生ってそんなもの、でもそれで
いいんだよ。
良いドラマでした。