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源義経公基礎知識⑦ その最期

2022-05-13 11:28:14 | 歴史、民俗

奥州の都平泉に身を寄せた義経公ですが、平和な日々は長くは続かない。

 

藤原秀衡公が、病床に伏してしまいます。

 

秀衡公は跡継ぎの泰衡公と、その腹違いの兄国衡公に遺言します。

「義経を主君とし、鎌倉からの侵略に備えよ」

 

平泉は仏教思想に基づいた平和都市。しかし一方では17万騎とも云われる強力な軍隊を所持していました。

しかしこの軍隊はいまだ実戦経験がなく、百戦錬磨の鎌倉勢を相手に勝てるかといえば

大変心許ない。

だから、軍事の天才である義経公を中心とした、戦時臨時体制を築け、ということだったのでしょう。

 

平和を守るためには、万全の備えが必要。

当然のことですね。

 

 

秀衡公の病歿の後、鎌倉側は朝廷を通して義経公追討を命じてきます。

 

この、「朝廷を通して」というところが絶妙なんです。

 

これが頼朝からの直接的な命令だったなら、平泉側は寧ろ態度を硬化させ秀衡公の遺言通り、義経公中心の戦時臨時体制を敷いて鎌倉側と対峙したことでしょう。しかし朝廷の命となると、そうもいかない。

 

平泉内部で、秀衡公の遺言に従うか、朝廷の命に従うのか意見が分かれ、対立が生じます。

 

これこそが頼朝の狙いでした。平泉内部に対立を生じさせ、弱体化を謀る。

 

まことに頼朝とは、有能な「政治家」です。

 

平泉内部では、先代秀衡公の遺言を巡って、ちょっとした内部抗争に発展し、命を落とす者まで出るほどでした。そうして4代目を継いだ藤原泰衡公は、義経公の追討を決断します。

 

泰衡公は衣川にあった義経公の住まいに急襲をかけます。もはやこれまで、死期を悟った義経公は。まず妻と4歳になる娘を殺害し、館に火をかけると自害して果てました。

 

享年31歳。その天才性で戦場の巷を駆け抜けた生涯でした。

 

 

まだつづく。

コメント (3)
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