Andyの日記

不定期更新が自慢の日記でございます。

殯の森

2008-05-12 14:41:27 | 映画
今更ながらだが、「殯の森」を見た。以前に NHK の BS2 で放送したいたのを
録画しておいたのだが、最近まで見る機会がなくて塩漬け状態にしておいた。
映画の内容だけど、なんというか、ほのぼのとした死生観、という表現が
ふさわしいかどうかわからないが、そんな映画だったように思えた。実際の
映像は、「ほのぼの」と表現するには程遠い、かなり刺激的なシーンもあったの
だが、鑑賞後に残ったのは、そんな感覚だった。

で、ここからはネタバレ。あの映画はハリウッド系映画に慣れきっている人には
結構難しい映画かもしれない。私も観終わった後、「これでおしまい?」と
呆気に取られてしまった。見終わってから「あれは何だったの?」「これは
何を意味していたの?」という疑問が次から次へと沸いてきた。特に終盤の
シーンには意味不明な箇所が多く、何度か見返してしまったほどだ。

で、奥様とあれこれ意見交換しながら何度か見返してみて、「あぁなるほど」
という段階にまではたどり着くことができた。箇条書きにキーポイントを
まとめてみると、

1. しげきさんはやや痴呆症(やや疑問点ありだが)
2. 真千子さんは川辺で子供を亡くして生きる気力を失っていた
3. 真千子さんはしげきさんに「同胞」を感じ取った。
4. しげきさんは奥さんのもとに行きたい
5. 真千子さんのしげきさんに対する思い

まず1について。ほんとに痴呆症なのかな、という点はある。最後のシーンで
しげきさんは真子さんが亡くなった1973年からの日記(?)を、自分が
掘った穴に入れるのだが、人間は痴呆症にみまわれると、まず日付の感覚が
わからなくなるということなので、このような日記をつけることができたのは
やや不思議なことだと思う。ごくごく最近、痴呆症になった、ということなら
わからなくもないのだが。

次に2。二人で真子さんのお墓を目指しているとき、真千子さんは濁流の中に
足を踏み入れるしげきさんを見て、半狂乱になって「やめて!!」と叫んで
いた。これは、お子さんを川辺でなくしたことのトラウマなのだろう。
旦那さんとの会話のシーンで、「どうして手を放したんだ」と詰問される
シーンがあったが、あれはおそらく二人で川に流されたときに、真千子さんは
お子さんの手を握ったものの、途中で力尽きて手を放してしまったのだろう。

さてさて、3。しげきさんはお坊さんが訪問していたときに、「私は生きて
いるんですか?」と質問していた。その発言からしばらくして、奥さんを亡くして
今年で三十三回忌であることなどを知り、真千子さんはしげきさんが自分と
同様、生きる張り合いのようなものを無くしているのだと思い、しげきさんに
何か共感できるものを覚えたのだろう。だから、あの茶畑でのおいかけっこの
とき、真千子さんは自分と同じような気持ちの人と触れ合えることに嬉しくなり、
ずいぶんと明るく楽しそうにしていたのではないか。しげきさんのお尻を
ポンと叩くシーン、あそこに真千子さんのしげきさんに対する遠慮のない
気持ちが表れていたと思う。

そして、4。しげきさんは、三十三回忌で真子さんが永久にあの世に行って
しまうことを知っていて、あのような強硬なお墓探しをしたはずだ。
三十三回忌を過ぎたら、もう真子さんには会えない。一緒にピアノを弾いたり、
ダンスをすることもできない。そんな余生を送るのはたまらない、そういう
気持ちでいたのだろう。だから、日記の入ったバッグを真千子さんが捨てようと
したときに、猛烈な勢いで怒ったのだ。あのバッグには、真子さんのお墓で
最期を迎えるときのための日記が入っていたのだから。

最後に5。最初の頃こそ同胞レベルの認識であったはずのしげきさんだが、
いつごろからか、真千子さんのしげきさんに対する思いは、変化したようだ。
しげきさんが真千子さんにスイカを食べさせるシーン、あれはとてもエロチックに
思えた。下手なラブシーンなどよりも、あのシーンのほうが胸の奥にグサリとくる。
男女の機微を生々しく鮮烈に伝えていたと思う。男性が手づかみで女性の口に、
果汁のしたたる果物を無造作に押し付けて食べさせる。女性もいやがらず、
それを吸い取るようにむさぼり食べる。人によってはなんということはないのかも
しれないけれど、あんなことはよほど心を許した相手でなければ、普通は
ありえないのではないか?考えすぎかなぁ・・・。

また、しげきさんが死に物狂いでお墓を目指して行こうとするのを、真千子さんは
しげきさんの顔を両手で引き寄せて、「自分の命より大事なん?お墓に行くのが?
なぁ、自分の命よりやで?」泣きながらしげきさんに問い詰める真千子さん。
もはや、「施設の職員とその利用者」という意識ではなかったはずだ。自分の大切な
人が、命がけで昔の奥さんのお墓探しをしている。この人まで死んでしまったら
どうしよう、という気持ちと、真子さんに対する嫉妬とが入り混じった気持ちで
いたのではないか。そしてあの焚き火のシーン。あれは、お坊さんの説法のシーンの
延長なのだろう。あのときは手と手でぬくもりを感じ、焚き火のシーンでは
裸の肌と肌とで、お互いのぬくもりを感じた。こうすることで、真千子さんは
生きていることの実感をしげきさんに伝えよう。私のために、命を捨てるような
ことはしないでほしい、と願ったのだと思う。だから、翌朝にしげきさんが
真子さんと踊っているところをみて、諦念と静かな怒りを目に浮かべた表情を
したのだろう。

お墓に行く途中、巨大な神木にしげきさんが抱きつくシーンがある。あれは
しげきさんが「これからそちらに参りますよ、神様。やっとそちらに行けます」
という気持ちでいたのではないか。あの巨木を神様に見立てて、神様の愛情を全身で
感じている姿であったに違いない。真千子さんもそのしげきさんの気持ちが
わかったので、涙を流してその姿を見ていたのだろう。この人はやはり、
死のうとしているのだ、そしてもはや何を言ってもしかたがないところまで
きているのだ、という確認もあの時点でできたのではないか。

そして二人は、あのお墓にたどりつく。ちなみにこのお墓、映画の冒頭にすでに
出てきている。葬儀の列のシーンが終わった時点で、あのお墓がアップで写されて
いるのだ。そこから考えて、あの葬儀の列は真子さんのためのものだったと考えられる。
しげきさんは穴を掘り、日記を置き、「今まで一緒にいてくれて、ありがとなぁ」
と穴の中で囁く。それが真子さんに言ったのか、真千子さんに言ったのかはわからない。
真千子さんは「もう逝っていいよ、逝っていいからね、ありがとう・・・」と応える。
ほんの少しの間でも、生きる喜びを感じさせてくれたしげきさんに対するお礼の
気持ちだったのか。真千子さんは泣きながら、オルゴールを鳴らしていた。最後に
オルゴールを高々とかかげながら笑っていたのは、天国に上っていくしげきさんに、
あの音色を聞かせていたのだろう。そして、しげきさんとの短くも楽しかった日々を
思い出していたのだろう。

「こうしゃなあかん、ってことないから」このセリフもキーポイントだと思う。
普通なら、施設の職員が利用者の自殺を許可するようなことはしない。でも、
しげきさんの思いがわかり、自分のしげきさんに対する思いも固まってしまって
いる今、「帰りましょう、生きていればいいことありますよ」なんて無粋で無味乾燥な
ことは言えなかったし、言いたくもなかったのだろう。考えてみると、自分が誰より
大切に思っている人に先立たれてしまった場合、Tomorrow is another day などと
簡単に考えられる人は、どれくらいいるのだろう。こういう最期を選択することも
人によっては仕方がないし、むしろそのほうが幸せなのでは?と思えなくもない。
この映画は、そんなことを伝えたかったのだろう。

不思議なのは、内容も表現もとても深刻できついものなのに、見終わった後には
ほのぼのとした気持ちになれることだ。奈良の言葉が柔らかいからなのか、自然の
美しさが見るものを穏やかな気持ちにさせてくれるからなのか、それはわからない。