Andyの日記

不定期更新が自慢の日記でございます。

殯の森

2008-05-12 14:41:27 | 映画
今更ながらだが、「殯の森」を見た。以前に NHK の BS2 で放送したいたのを
録画しておいたのだが、最近まで見る機会がなくて塩漬け状態にしておいた。
映画の内容だけど、なんというか、ほのぼのとした死生観、という表現が
ふさわしいかどうかわからないが、そんな映画だったように思えた。実際の
映像は、「ほのぼの」と表現するには程遠い、かなり刺激的なシーンもあったの
だが、鑑賞後に残ったのは、そんな感覚だった。

で、ここからはネタバレ。あの映画はハリウッド系映画に慣れきっている人には
結構難しい映画かもしれない。私も観終わった後、「これでおしまい?」と
呆気に取られてしまった。見終わってから「あれは何だったの?」「これは
何を意味していたの?」という疑問が次から次へと沸いてきた。特に終盤の
シーンには意味不明な箇所が多く、何度か見返してしまったほどだ。

で、奥様とあれこれ意見交換しながら何度か見返してみて、「あぁなるほど」
という段階にまではたどり着くことができた。箇条書きにキーポイントを
まとめてみると、

1. しげきさんはやや痴呆症(やや疑問点ありだが)
2. 真千子さんは川辺で子供を亡くして生きる気力を失っていた
3. 真千子さんはしげきさんに「同胞」を感じ取った。
4. しげきさんは奥さんのもとに行きたい
5. 真千子さんのしげきさんに対する思い

まず1について。ほんとに痴呆症なのかな、という点はある。最後のシーンで
しげきさんは真子さんが亡くなった1973年からの日記(?)を、自分が
掘った穴に入れるのだが、人間は痴呆症にみまわれると、まず日付の感覚が
わからなくなるということなので、このような日記をつけることができたのは
やや不思議なことだと思う。ごくごく最近、痴呆症になった、ということなら
わからなくもないのだが。

次に2。二人で真子さんのお墓を目指しているとき、真千子さんは濁流の中に
足を踏み入れるしげきさんを見て、半狂乱になって「やめて!!」と叫んで
いた。これは、お子さんを川辺でなくしたことのトラウマなのだろう。
旦那さんとの会話のシーンで、「どうして手を放したんだ」と詰問される
シーンがあったが、あれはおそらく二人で川に流されたときに、真千子さんは
お子さんの手を握ったものの、途中で力尽きて手を放してしまったのだろう。

さてさて、3。しげきさんはお坊さんが訪問していたときに、「私は生きて
いるんですか?」と質問していた。その発言からしばらくして、奥さんを亡くして
今年で三十三回忌であることなどを知り、真千子さんはしげきさんが自分と
同様、生きる張り合いのようなものを無くしているのだと思い、しげきさんに
何か共感できるものを覚えたのだろう。だから、あの茶畑でのおいかけっこの
とき、真千子さんは自分と同じような気持ちの人と触れ合えることに嬉しくなり、
ずいぶんと明るく楽しそうにしていたのではないか。しげきさんのお尻を
ポンと叩くシーン、あそこに真千子さんのしげきさんに対する遠慮のない
気持ちが表れていたと思う。

そして、4。しげきさんは、三十三回忌で真子さんが永久にあの世に行って
しまうことを知っていて、あのような強硬なお墓探しをしたはずだ。
三十三回忌を過ぎたら、もう真子さんには会えない。一緒にピアノを弾いたり、
ダンスをすることもできない。そんな余生を送るのはたまらない、そういう
気持ちでいたのだろう。だから、日記の入ったバッグを真千子さんが捨てようと
したときに、猛烈な勢いで怒ったのだ。あのバッグには、真子さんのお墓で
最期を迎えるときのための日記が入っていたのだから。

最後に5。最初の頃こそ同胞レベルの認識であったはずのしげきさんだが、
いつごろからか、真千子さんのしげきさんに対する思いは、変化したようだ。
しげきさんが真千子さんにスイカを食べさせるシーン、あれはとてもエロチックに
思えた。下手なラブシーンなどよりも、あのシーンのほうが胸の奥にグサリとくる。
男女の機微を生々しく鮮烈に伝えていたと思う。男性が手づかみで女性の口に、
果汁のしたたる果物を無造作に押し付けて食べさせる。女性もいやがらず、
それを吸い取るようにむさぼり食べる。人によってはなんということはないのかも
しれないけれど、あんなことはよほど心を許した相手でなければ、普通は
ありえないのではないか?考えすぎかなぁ・・・。

また、しげきさんが死に物狂いでお墓を目指して行こうとするのを、真千子さんは
しげきさんの顔を両手で引き寄せて、「自分の命より大事なん?お墓に行くのが?
なぁ、自分の命よりやで?」泣きながらしげきさんに問い詰める真千子さん。
もはや、「施設の職員とその利用者」という意識ではなかったはずだ。自分の大切な
人が、命がけで昔の奥さんのお墓探しをしている。この人まで死んでしまったら
どうしよう、という気持ちと、真子さんに対する嫉妬とが入り混じった気持ちで
いたのではないか。そしてあの焚き火のシーン。あれは、お坊さんの説法のシーンの
延長なのだろう。あのときは手と手でぬくもりを感じ、焚き火のシーンでは
裸の肌と肌とで、お互いのぬくもりを感じた。こうすることで、真千子さんは
生きていることの実感をしげきさんに伝えよう。私のために、命を捨てるような
ことはしないでほしい、と願ったのだと思う。だから、翌朝にしげきさんが
真子さんと踊っているところをみて、諦念と静かな怒りを目に浮かべた表情を
したのだろう。

お墓に行く途中、巨大な神木にしげきさんが抱きつくシーンがある。あれは
しげきさんが「これからそちらに参りますよ、神様。やっとそちらに行けます」
という気持ちでいたのではないか。あの巨木を神様に見立てて、神様の愛情を全身で
感じている姿であったに違いない。真千子さんもそのしげきさんの気持ちが
わかったので、涙を流してその姿を見ていたのだろう。この人はやはり、
死のうとしているのだ、そしてもはや何を言ってもしかたがないところまで
きているのだ、という確認もあの時点でできたのではないか。

そして二人は、あのお墓にたどりつく。ちなみにこのお墓、映画の冒頭にすでに
出てきている。葬儀の列のシーンが終わった時点で、あのお墓がアップで写されて
いるのだ。そこから考えて、あの葬儀の列は真子さんのためのものだったと考えられる。
しげきさんは穴を掘り、日記を置き、「今まで一緒にいてくれて、ありがとなぁ」
と穴の中で囁く。それが真子さんに言ったのか、真千子さんに言ったのかはわからない。
真千子さんは「もう逝っていいよ、逝っていいからね、ありがとう・・・」と応える。
ほんの少しの間でも、生きる喜びを感じさせてくれたしげきさんに対するお礼の
気持ちだったのか。真千子さんは泣きながら、オルゴールを鳴らしていた。最後に
オルゴールを高々とかかげながら笑っていたのは、天国に上っていくしげきさんに、
あの音色を聞かせていたのだろう。そして、しげきさんとの短くも楽しかった日々を
思い出していたのだろう。

「こうしゃなあかん、ってことないから」このセリフもキーポイントだと思う。
普通なら、施設の職員が利用者の自殺を許可するようなことはしない。でも、
しげきさんの思いがわかり、自分のしげきさんに対する思いも固まってしまって
いる今、「帰りましょう、生きていればいいことありますよ」なんて無粋で無味乾燥な
ことは言えなかったし、言いたくもなかったのだろう。考えてみると、自分が誰より
大切に思っている人に先立たれてしまった場合、Tomorrow is another day などと
簡単に考えられる人は、どれくらいいるのだろう。こういう最期を選択することも
人によっては仕方がないし、むしろそのほうが幸せなのでは?と思えなくもない。
この映画は、そんなことを伝えたかったのだろう。

不思議なのは、内容も表現もとても深刻できついものなのに、見終わった後には
ほのぼのとした気持ちになれることだ。奈良の言葉が柔らかいからなのか、自然の
美しさが見るものを穏やかな気持ちにさせてくれるからなのか、それはわからない。

たそがれ清兵衛

2007-04-17 15:15:13 | 映画
先日、いまさらではあるが『たそがれ清兵衛』を見た。昨今の番組改編
時期の特番ラッシュでうんざりしていたので、借りてきた。いい映画だった。
淡々としているが、山田洋次監督らしく、人間臭い映画になっている。
若いときの山田洋次監督の映画は、作品によってはあまりにも人間臭すぎて
見ていてつらいものもあったが、今は監督自身が枯れてきたせいか、
この作品はそれほど人間臭くなかった。

藤沢周平の世界観というのは、山田監督の世界観と一致する部分があるの
だろうか。地に足の着いた市井の人々を等身大で描く、という点で共通
しているような気がする。大げさな表現もドラマチックな展開もないが、
じわじわと心の中に広がる独特の感覚は、なんと表現したものか。この
作品でも、それはしっかり感じることができる。

とはいえ、この作品に限らず、藤沢周平原作の映画というのは2時間
程度でまとめるのは無理があるようだ。蝉しぐれやその他の映画でも
そうだが、2時間でまとめようとすると、必ずどこかに無理やはしょりが
生じる。NHKで内野聖陽くん主演で製作された蝉しぐれくらいが、
一番いいような気がする。藤沢周平の作品というのは、実際の字数よりも
内容が濃密なのが原因なのではないだろうか。

今回の映画での清兵衛と余吾善衛門とのあの果し合いシーン、すばらしい。
何がいいって、あの田中泯さん。あの人の存在感は、あれはもう反則だ。
こないだのNHKの『ハゲタカ』でもベテランのレンズ職人さんの役を
演じていたが、あの存在感はいったい何なのか。ただ立っているだけで
画面が引き締まる役者さんなんて、世界中でもそう何人もいまい。

そして果し合いの内容だが、これはあくまで私見だが、余吾善衛門は最初から
清兵衛に陣ってもらうつもりでいたのではないだろうか。話は少し遡るが、
清兵衛は朋江の以前の夫の甲田豊太郎と、成り行きで果し合いをすることに
なり、甲田は清兵衛に木刀で打ち負かされるという屈辱を味わう。甲田は
友人の余吾に、酒の席でこのことを打ち明けて、かたきをうってくれと頼む。

余吾はこの話を聞いて、甲田ほどの人間が木刀で打ち負かされるとは、
清兵衛がよほど尋常ではない使い手であることを察したのだろう。清兵衛に
会いに行って、まずどの程度の者であるのかを自分の目で確かめた。そして、
予想外に実に朴訥とした苦労人風情の清兵衛を見て、こいつは一体、どういう
境遇を経てきた者なのか、と下調べをしたに違いない。敵を知り己を知らば、
ではないが、余吾はかなり清兵衛について調べたのであろう。果し合い前の
雑談で、実によく清兵衛のことを知っていた。

そして、この下調べをした結果、自分を討ち取りに来るのであれば、清兵衛しか
いないであろうこと、そして清兵衛は自分を殺すつもりなどないであろうことを
予想したのだと思う。甲田との果し合いですら木刀で挑む男が、不条理な
切腹を命じられた不運な人間を、お役目とはいえ切って捨てることなど、
あり得ないし、できるわけがない。もちろん、清兵衛もそのまま逃がすのではなく、
形ばかりは相手をして、自分が転んだ拍子か何かに合図をして逃がす、という
ような段取りでも考えていたのではないかとは思う。

実際、清兵衛は上司の久坂から、もしものときには家族の面倒を責任を持って
見るぞ、と言われたときに、今生の別れを匂わせる礼をしていた。また、
果し合いの前日には刀を研いでいたが、その様子を娘は「とても不気味」だったと
表現している。これは、腹を切る覚悟でいた清兵衛の醸し出す異様な雰囲気を
感じ取ったからではないのか。そして、朋江には、思い残すことがないように、
という気持ちからか、朋江に思いを告げている。

しかし、余吾も清兵衛と似たような境遇のものだった。余吾は考えたに違いない。
清兵衛が俺を逃がせば、清兵衛の切腹は免れまい。なんとしてでも俺を斬らせるには、
どうしたらいいか。そういえば、あいつは分不相応な葬式を出したそうだが、
刀でも売らないことには、貧乏侍にそんなことはできまい。そして、だからこそ、
甲田も木刀で相手をしたのだろう。そこを突いてはどうか・・・・・。

そう思った余吾は、清兵衛が屋敷に踏み込んできたときに、「俺は逃げるぞ」と
まず清兵衛に告げて、清兵衛の出鼻をくじく。清兵衛が考えていたことを、
最初に清兵衛本人に言ったのだ。これで清兵衛としては面食らう。そう言われて
「はい、そうですか」と逃がすわけにはいかなくなる。いわゆる、つかみはOK、
という状況だ。

そして、長々と雑談をしていくうち、とうとう清兵衛が果報の刀を売ってしまった
ことを告白させる。あの雑談は、決して雑談などではなく、余吾なりの
「つばぜり合い」だったはずだ。清兵衛の心のスキを生み出させるための、
彼なりの作戦だったのだろう。清兵衛が刀を売った、と告白したときの、あの目。
あれは覚悟した人間の目だと思う。プライドを傷つけられて怒りに満ちた目
とは異なり、冷たい光をたたえていた。

余吾は刀を抜いて清兵衛に向かっていくが、あれこそ余吾が最初から勝つつもり
などないことを示している。余吾ほどの使い手が、家の中であんなに長い
日本刀を振り回すことがどれほど自殺行為であるのか、知らないはずがない。
どうしても家の中で戦うのであれば、清兵衛のように短刀で向かっていくのが
セオリーだ。そして果し合いの最中、余吾は一瞬ちらりと天井のほうを見る。
「ここで斬らせてやるか」という思いだったのだろう。そして、その場所で刀を
鴨居にひっかけて、清兵衛に斬られてしまう。それにしても、あの斬られた後の
田中泯さんの演技。まるで体から魂が抜けていく様子が見えるかのような、
見ていて吸い込まれるほどの動き。

さて1つ疑問が残る。なぜ余吾はもっと早く逃げなかったのか。清兵衛など
待たずとも、もっと早い段階で逃げていれば、生き延びることができたのに、
なぜ清兵衛を待ち続けたのか。おそらくだが、世話になった長谷川志摩への
忠誠心からのことではなかったのか。雑談の中で余吾は、長谷川への感謝の
気持ちを述べているシーンがある。自分を拾ってくれた長谷川のために、
好きな酒もやめて奉公した、というあたりだ。本来であれば、いさぎよく腹を
切るのが筋ではあるが、しかしここまで自分を律して奉公してきた自分への、
最後のご褒美、ということで、死ぬ前に腕の立つ男とひと勝負してから死にたい、
という、剣に生きた余吾のささやかな我侭、と取るのは読みすぎだろうか。

清兵衛はその3年後に戊辰戦争で鉄砲の弾に当たって命を落とす、ということ
だが、余吾のおかげで命を拾った清兵衛を、そう長生きさせておくのは藤沢周平の
倫理観が許さなかったのだろうか。どちらかが犠牲になることで拾っていい命や
捨てていい命などない、ということなのではないか。考えすぎかな。ともあれ、
実に淡々としていながらも、あじわいのあるいい映画だった。

花よりもなほ

2006-06-05 15:05:59 | 映画
土曜日に、是枝監督の最新作『花よりもなほ』を見てきました。同じ日に
例の『ダビンチコード』も上映されていたので、私が見に行ったときには
お客さんの入りはいまいちでしたけど、でも映画自体はとてもよかったと
思います。是枝監督の作品らしく、淡々としていて、でもしっかりと観る
人の心に残る内容でした。

あまり詳しく書くとネタバレになってしまうので、そこそこにしておきますが、
今回の映画を見て改めて思ったのは、是枝監督は人間が好きなのだな、と
いうことです。ドキュメンタリー時代にいろいろと思うところがあったのか、
あるいは本来そういうかたなのかはわかりませんが、誰でも彼でも、何かしら
欠点や汚点があって当たり前で、そんな状態でこそ、まさに人間。そして、
その不完全な人間こそが素晴らしいし美しい、そう言っているように、この
映画は感じられます。

考えてみれば、『誰も知らない』での母親役の You さんも、どうしようも
ない母親でありながら、どこか可愛らしく描かれていたのは、偶然ではなかった
のかもしれません。また、『ワンダフルライフ』でインタビューに答える
人たちが、とても心和む雰囲気で話しているようにカメラに収められていたのも、
そういう意図があったからなのでしょう(由利徹さんが最高でした)。

そうそう、主人公の宗左が、父上に教えてもらったことが他にもあった、
というあのシーン、思わず日産の「ものより、思い出」というあのキャッチ
コピーが思い浮かびました。きっとこれは是枝監督の基本的な価値観なの
かもしれません。『誰も知らない』での子供たちだけでの生活、危なっかし
くて、しかも究極の貧しさであるにもかかわらず、子供たちはそれなりに
楽しそうだった。

人間って、とても微妙なバランスの上で生きているんだ、ということを
あの映画の中の数々のシーンで感じました。そして、ほんとちょっとした
ボタンの掛け違いでもそれが崩れてしまう。『花よりもなほ』では、
そんな脆い人間というものを支えられるのは、ちょっとした思いやりや
寛大な心なんだ、ということが語られているように思えました。

そういうテーマの映画は、大上段に振りかぶって作ると、単に暑苦しい
お説教映画になりかねませんけど、このあたりは是枝監督のうまさなのか、
そう感じさせずに話が進んでいきます。そうそう、是枝監督の映画って、
けっこう長いんですよね。この映画もけっこう長かったと思います。
始まる前にはトイレを済ませておいたほうがいいかもしれません。

難しい問題2

2005-11-07 13:27:50 | 映画
しかし、世界で最初に人権宣言を出した国であるフランスのこと、当然、
こういうブランド化・グローバル化の動きに頑固に反発する人もいます。
南フランスのラングドックにあるアニアーヌ村は、その代表的な土地で、
ここの土地をアメリカの最大手ワインメーカーのロバード・モンダビが、
大量に買い占めようとしたことがありました。そのことは村民には事前に
通知されておらず、怒った村民はその年の村長選挙で、村民を裏切った
村長(社会党)を選ばず、共産党の対立候補を選んでしまったほどです。
この村長は、この年に選出された村長のうち、唯一の共産党の村長となり
ました。

この映画では、ワインのブランド化に反発しながら、昔ながらのワイン造りに
頑固にこだわるワイン職人さんが何人か登場しますが、どの人も実に味わいが
あって、深みのある意見を聞かせてくれます。ワイン造りのドキュメンタリー
映画のはずなのに、ヒューマンドラマでもなかなか聞けないような、枯れた
味わいのあるセリフ、情熱のほとばしるセリフ、自分の不完全さを露呈させて
一切恥じるところがない堂々としたセリフなど、見ていて目頭が熱くなるほどです。

ワインというのは、本来その味に均一性はなく、同じ畑で取れたワインでも、
おいしいワインもあればそうでもないワインもある。その土地その土地に
よって、芳醇な味になったり、力強い味になったり、柳腰の味になることも
ある。その個性を楽しむことが、ワインを飲む醍醐味なのだ、ということに、
職人さんや心ある関係者の人たちの言葉から気がつかされます。

心ある関係者、と書きましたが、このワインのブランド化に反対しているのは、
フランス人ばかりではないのです。アメリカの、しかもニューヨークにも
いました。ニール・ローゼンタールさんという、NYでワイン商を営むその
人は、昨今のパーカリズムによる悪影響を非常に危惧しています。このまま
では、世界中のワインから個性が消えてしまう、パーカリズムに屈する結果
としての味の改造により、今のワインの味は非常に不自然だ、と指摘しています。

私もこの映画を見て知ったのですが、最近のワインというのは、いわゆる
バニラの香りをつけるために、わざわざワインを香りの強い新品のオーク樽で
熟成させているのです。ワインの世界では、バニラのような香りが有難がら
れているので、その香りを強く感じられるように、こういうマキアージュ
(化粧)を施しているのですね。しかしこれは、消費者に豊かなテロワールを
味わってもらうための加工というよりは、「バニラの香りがするワインは高級」
というスノビズムを満足させているだけではないのか。

さて、この映画を見終わって、しばらく考えさせられました。確かに、
パーカリズムやブランド主義は、ワインの個性を奪います。しかし、
それがすべて悪いことなのだろうか。現実に、この流れのおかげでワインの
出来不出来の差は極小となり、世界中のそれほどワインにうるさくない
人たちは、安くておいしいワインが入手できるようになった現代の環境を
喜ぶかもしれません。あとは、おいしい食事があり、気の置けない人と
楽しい話題で盛り上がることができれば、それはそれで素晴らしいはず。

そして一方、この人工的な味のワインが増えてゆくことにより、ワイン職人
さんの心意気や腕、その土地のワインだけが持つ個性を味わえる、昔ながらの
ワインが減りつつある、ということもまた事実です。映画の中で、ワイン造り
には、詩人の心が必要だ、と言っていたベテランワイン造りの職人さんの
言葉が、深く心にしみこみます。気候による出来不出来も、土地の良し悪しも、
またひとつのテロワールなのだ。そういう心で精魂をこめて作られたワインで
こそ、ワインの何たるかを本当に味わうことができるのではないか。

現代人と同じで、あたりは優しいが中身がなく、よく味わおうとすると
背中を向けて逃げてゆく、そんなワインばかりになるというのは寂しい。
一方で、何事もコストダウンとスピードが要求される現代社会で、何十年も
熟成が必要な、時間のかかる高価なワインばかりというのでは、これも困る。


おいしければいいのか?


難しい問題

2005-11-04 14:39:00 | 映画
昨日、渋谷のアミューズCQNで、ワインをテーマにしたドキュメンタリー
映画、『モンドヴィーノ』を見てきました。この映画は、ワイン造りに
携わるさまざまな人たちを、できるだけ広範囲に取材することで、現代の
ワイン造りの実情、裏事情、問題、葛藤、などなどをつまびらかにした
意欲作です。監督は、自身ソムリエの資格を持つジョナサン・ノシターと
いうかたで、それだけに実にポイントを突いた取材をしています。

今日のワイン造りで一番問題になっていること。この映画によると、それは
「ブランド化」です。消費者は誰でも、できるだけおいしいワインが欲しい。
しかし、ワインに通じている人や、頻繁にワインの試飲の機会に立ち会える
人でもなければ、市場にあまた流通しているワインのうち、どれが本当に
おいしいワインであるのかは、飲んでみるまでわからない。だから、ワイン
選びのときに指標となるものが欲しい。「これにしたがって買えば、少なく
ともはずれのワインには当たらない」という、権威と実績のある評価基準が
欲しい。

今その指標としてもてはやされているのが、ロバート・パーカーという
アメリカのワイン評論家の評価と、フランスのミシェル・ロランという
ワイン・コンサルタントの評価です。この二人の評価の影響力は絶大で、
市場のワインの値段がこの二人の評価次第で上下してしまうほどです。
そのため、この二人にいい評価をしてもらうために、二人の好みに合うように
ワインの味や色を変えるワイナリーまで現れるという事態にまで発展して
いるのです。中には、二人に評価してもらうときには、普段市販していない
ような特別のワインを出すワイナリーまであるそうです。結果として、
おいしいワインを選ぶための指標、という本来の目的とは異なり、あまたある
ワイナリーのどのワインも、すべて似たような味のワインになってしまう、
という憂慮すべき結果を招いています。

彼らが「良い」と評価するワインは、味も色も濃厚で、早く飲めるワインで
ある、という傾向があります。当然、そういうワインが高得点となるので、
ワイナリーの中には色を濃くするために、圧縮果汁をワインに混ぜるところ
まで出てきたそうです。これは、フランスのワイン醸造法に違反する行為で、
当局はロバート・パーカーの評価による「パーカリズム」に頭を痛めています。
実際、ミシェル・ロラン氏は自分がアドバイスをしているいくつかのワイナリー
で、ワインを早く飲み頃にするために、ちょっとこれは・・・、と思われる
ような最新のテクノロジー処理をさせています。ちなみになぜ濃厚な味の
ワインを評価しているかという点ですが、これはおそらくミシェル・ロラン
氏がヘビースモーカーであることと無関係ではないと思います。映画の中で、
ロラン氏はひっきりなしにタバコを吸っていました。

さらに、一部の大手ワインメーカーが、他のワイナリーやワインメーカーを
買収し、自社で展開している味の均一化・改造の手法を買収先のワイナリー
でも実行しています。これにより、どこでも安くておいしく、一定の品質を
キープしたワインを大量生産することが可能になるのですが、しかしそれは
ワインの個性を奪う行為に他なりません。ワインの味とは、その土地の特性
である「テロワール」を生かしたものであることが、それこそワインの
レゾンデートルであると言ってもいいはずなのに、このブランド化というか
マクドナルド化というか、最新のテクノロジーによる品質管理のために、
ワインの味は確実に個性を失いつつあることが、この映画でわかりました。
続きはまた。

セカチュー

2005-10-06 12:46:26 | 映画
話題のセカチュー、遅ればせながらようやくテレビで映画版を見ました。
結論から言うと、大沢たかおくんは、安定した素晴らしい演技。
彼の映画を見たのは『解夏』以来ですけど、さらにいちだんと磨きが
かかっているように思えます。英会話も達者で、すごいですね。本人、
ハリウッド進出とか狙っているのでしょうか。かっこよすぎです。
山崎努さんの渋い演技もいいですね、たかおくんの演技を際立たせて
いました。



以上!



と終わりたい気分ですね。それ以外では、ほとんどどこにも見るべきものが
ないというか・・・・・。台詞回しのくささ、浅薄な内容、しゃべりすぎ、
時代考証の甘さ、etc。原作も映画も、なぜこれほど話題になったのか、
かなり謎です。エンディングの『瞳を閉じて』のせいで話題になったのかな?
見終わってから、奥様と「結局この映画って何だったの?」ということで
意見が一致いたしました。