いつかこの日が来るのはわかっていたことだが、やはり実際にその日が来ると
感慨深いものがある・・・・・。今日は、ミヒャエルの思い出をいろいろと
書いてみようと思う。
私がシューマッハの名前を最初に目にしたのは、1990年に開催された、F3の
マカオGPに関する記事だった。確か Autosports のマカオGP特集に掲載されて
いたと記憶している。このマカオGPは、世界中のF3選手権で華々しい成績を
あげた将来有望なドライバーを集めて行われる、事実上のF3世界選手権とも言える
一大レースだ。
この記事で別格の扱いを受けていたのが、当時まだ初々しかったミカ・ハッキネンと
ミハエル・シューマッハだった。当時のメディアはまだシューマッハの正しい読み方が
統一されておらず、ミヒャエル・シューマッハとかミハエル・シュマッハーとか
いろいろな表記をされていた。この二人がなぜそこまで別格の扱いをされていたかと
いうと、それは二人の飛びぬけた走りが何よりの理由だ。
このマカオGPのギア・サーキットは、マカオの市街地コースを利用したサーキットで、
いわばモナコのような市街地サーキットだが、路面状況はお世辞にもよいとはいえず、
滑りやすくミスをしやすいサーキットだ。そんな劣悪な状況のせいか、このサーキットの
予選タイムは、1983年に市街地マイスターこと、若き日のアイルトン・セナがマーク
した驚異的な予選タイムがいつまでも破られなかったことでも有名であった。
ところが、その予選タイムが7年ぶりに更新されたのだった。更新したのが、まさに
この二人。しかも、ハッキネンはセナがマークしたタイムよりも2秒近くも早い
タイムで予選をトップ通過した(確か 1 分 21 秒台だったと記憶している)。
ちなみにこのレースは、あのドリキン土屋圭一も参戦していたが、この二人のタイムに
ついて「マシンの差だけでは、あのタイムは絶対に出せない」と完敗宣言をしていた。
また、ハッキネンが当時所属していたのが、セナが在籍していたイギリスの名門F3
チームのウエストサリー・レーシングであったことも、話題になった。セナの
ように、眉間にしわを寄せて集中する姿もまたセナに似ており、しかもセナと同じく
イギリスF3選手権を優秀な成績で制していた。これらの点から、セナの後継者と
目されるにふさわしい条件が揃った逸材であった。しかし、その逸材を破ったのが
ドイツF3チャンピオンのシューマッハだった。
このレース、さまざまなメディアで語られてきたので詳述は避けるが、結果から
言えばシューマッハは狡猾で、ハッキネンは甘かった。速さでは確かにハッキネンの
ほうが圧倒的に勝っていたが、レースは速ければ勝てるものではないということを
具体的に示したいいレースであった。ハッキネンは泣き崩れ、シューマッハは表彰台で
狂喜乱舞した。
当時のシューマッハは、本当に生意気で向こう見ずで、何かというと「クレイジー!」
という言葉を連発する、文字通りクレイジーなやつだった。雑誌のインタビューで
尊敬するドライバーは?と聞かれて「アイルトン・セナだよ、あいつは本当に
クレイジーで信じられないくらい速いやつだ」とクレイジー節を披露していたのを
覚えている。俺以外のドライバーは全員クズだ、くらいの物言いばかりが目立つ、
ひどく鼻っ柱の強いドライバーだった。
しかし彼はその後すぐにはF1に行かずに、スポーツカーレースで経験を積む
道を選んだ。超一流F1ドライバーとしては珍しく、デビュー前にはル・マン24時間
レースにもザウバー・メルセデスチームから参戦している。このときのレースは
見ていたが、24時間レースというマラソンレースだったせいか、特に光る走りを
見せてはいなかった。しかし、すぐに彼の名前はF1の世界にとどろき渡ることに
なる。
91年、当時ジョーダンチームから参戦していたベルギー人ドライバーのベルトラン・
ガショーがロンドンでタクシーに乗っている時に運転手と口論になり、運転手に催涙
スプレーを吹き付けるという暴行を働いたことから解雇され、その代役として
シューマッハに白羽の矢が立った。シューマッハはまったく初めて乗るF1マシン、
初めて走るスパ・フランコルシャンサーキットでいきなり予選7位という驚異的な
成績をあげた。ここからシューマッハ伝説がスタートする。
決勝レースこそ、スタート時にクラッチを慌ててつないだためにクラッチトラブルで
リタイヤという結果に終ったが、次戦では突然ベネトンチームから参戦することに
なった。このときは、シューマッハの才能に目をつけたメルセデスベンツが、将来
自分たちがF1に参戦したときにシューマッハを優先的に獲得できるように、多額の
裏金を使ってシューマッハをベネトンに移籍させたらしい。当時のベネトンは、
ジョーダンに比べてマシンの競争力・信頼性ともに優れていたので、新人が経験を
積むのに最適なチームだった。
ベネトンに移籍してからは、同僚の元ワールドチャンピオンのネルソン・ピケを
圧倒する走りを見せたばかりか、翌年の92年にはデビューサーキットのスパで
初優勝も遂げてしまう。マシンを降りて高笑いしていたときの、憎憎しいばかりの
シューマッハの笑顔は忘れられない。「見たかこのクズども!」とでも言いたげな、
謙虚さのかけらもない不遜な若者がそこにはいた。
そんなシューマッハだけに、いざこざも多かった。特にセナとは何度もいさかいが
あった。92年のブラジルGP、決勝レース中にセナのエンジンが不調でタイムが
あがらず、セナの後を走っていたマシンが大名行列状態になってしまった。
セナはマシンが不調であるにもかかわらずいつまでも後ろのマシンをブロック
し続けたため、それに対してシューマッハが「あんな行為はワールドチャンピオンに
ふさわしくない」と噛み付いたのだ。
また当時のシューマッハは無謀な運転をすることでも有名で、セナとは何度か
レース中にぶつかってもいる。マシンを降りた後にセナに胸ぐらをつかまれたこと
すらあり、かなり危険なドライバーだった。しかしセナのそんな態度に対しても
「セナは僕の服の乱れを直してくれたのさ」と意に介さない大物ぶりを見せた。
今のシューマッハしか知らない人には想像できないだろうが。
しかし、そんなシューマッハも、態度を変えざるを得なくなる。セナが94年の
イモラサーキットで天国に召されてから、否応なしにシューマッハが次世代の
ドライバー代表ということになり、自分が望まずとも周囲がシューマッハに
責任ある対応を求めることとなる。それに応えざるをえず、シューマッハも
しだいに大人の態度を取るようになり、やがて現在のような紳士的な態度の
シューマッハに変わっていく。
ところで、シューマッハというドライバーには、最後まで変わらなかった、
大きな問題がある。それは、プレッシャーに弱い、という点。そして、自分が
無様に負けるくらいなら、相手にぶつけてでも勝とうという残忍な性格だ。
90年のマカオGPでハッキネンにくらわせた接触事故、チャンピオンシップが
かかった94年の最終戦オーストラリアでのデーモン・ヒルへの体当たり、
97年にやはりチャンピオンシップがかかったヨーロッパGPでのジャック・
ビルヌーブへの体当たり、最近では今年のモナコGPでの通せんぼ事件、etc。
プレッシャーに弱いという点では99年の日本GPを思い出す。ハッキネンとの
一騎打ちとなった決勝レース、スターティンググリッドに着いたときに、
シューマッハは緊張とプレッシャーから、まさかのエンジンストールをさせて
しまう。絶対優位なときには憎らしいほど自信に満ちたドライバーだが、
プレッシャーには滅法弱く、また焦ってミスを犯すことも多い。一気に形勢
逆転を狙いすぎる嫌いがあり、それが接触やミスにつながっていたように
感じられた。
彼は長いF1の歴史の中で、ドイツ人初のワールドチャンピオン、さらに
史上最多の7回(今年取れれば8回)ものワールドチャンピオンになった
不世出のF1ドライバーとして記録され、記憶されることになるのだろう。
私にとって彼は、超一流のアスリートとはどういうものか、ということを
何よりわかりやすく教えてくれたと思う。つまり、健全な肉体に健全な魂が
宿るとは限らず、また自分以外のライバルをすべて焼き尽くすほどの、
激しく燃え上がるエゴイズムがなければトップアスリートになど到底なれない
ということが、彼を通して実によくわかった。
決していやみで言っているのではなく、それが現実だということを今では
認識している。現役時代にはその計算高いマスコミ操作や政治的な人間関係が
目立ったアラン・プロストも、今思えばそれがトップアスリートとしては
当たり前の行為だということも理解できるようになった。そして、そのような
普通の人が眉をひそめるような行為は、忌み嫌うべきものでも受け入れるべき
ものでもなく、ただ「トップアスリートはそういうものだ」と思うしかない、
ということも理解できるようになった。
レースに、そして人間というものに対して、ただの未熟者であった私を
ここまで成長させてくれたのは、まぎれもなくミハエル・シューマッハだ。
これほどの名ドライバーに成長させてもらったのは、本当に幸運であったと
言わざるを得ない。奇しくも彼は私と同い年。私よりも何百倍も濃密で
激しい人生を歩んだであろうミハエル、正直に言えば好きなドライバーでは
ないが(笑)、でも今はただ「ありがとう、お疲れ様」と言いたい。
感慨深いものがある・・・・・。今日は、ミヒャエルの思い出をいろいろと
書いてみようと思う。
私がシューマッハの名前を最初に目にしたのは、1990年に開催された、F3の
マカオGPに関する記事だった。確か Autosports のマカオGP特集に掲載されて
いたと記憶している。このマカオGPは、世界中のF3選手権で華々しい成績を
あげた将来有望なドライバーを集めて行われる、事実上のF3世界選手権とも言える
一大レースだ。
この記事で別格の扱いを受けていたのが、当時まだ初々しかったミカ・ハッキネンと
ミハエル・シューマッハだった。当時のメディアはまだシューマッハの正しい読み方が
統一されておらず、ミヒャエル・シューマッハとかミハエル・シュマッハーとか
いろいろな表記をされていた。この二人がなぜそこまで別格の扱いをされていたかと
いうと、それは二人の飛びぬけた走りが何よりの理由だ。
このマカオGPのギア・サーキットは、マカオの市街地コースを利用したサーキットで、
いわばモナコのような市街地サーキットだが、路面状況はお世辞にもよいとはいえず、
滑りやすくミスをしやすいサーキットだ。そんな劣悪な状況のせいか、このサーキットの
予選タイムは、1983年に市街地マイスターこと、若き日のアイルトン・セナがマーク
した驚異的な予選タイムがいつまでも破られなかったことでも有名であった。
ところが、その予選タイムが7年ぶりに更新されたのだった。更新したのが、まさに
この二人。しかも、ハッキネンはセナがマークしたタイムよりも2秒近くも早い
タイムで予選をトップ通過した(確か 1 分 21 秒台だったと記憶している)。
ちなみにこのレースは、あのドリキン土屋圭一も参戦していたが、この二人のタイムに
ついて「マシンの差だけでは、あのタイムは絶対に出せない」と完敗宣言をしていた。
また、ハッキネンが当時所属していたのが、セナが在籍していたイギリスの名門F3
チームのウエストサリー・レーシングであったことも、話題になった。セナの
ように、眉間にしわを寄せて集中する姿もまたセナに似ており、しかもセナと同じく
イギリスF3選手権を優秀な成績で制していた。これらの点から、セナの後継者と
目されるにふさわしい条件が揃った逸材であった。しかし、その逸材を破ったのが
ドイツF3チャンピオンのシューマッハだった。
このレース、さまざまなメディアで語られてきたので詳述は避けるが、結果から
言えばシューマッハは狡猾で、ハッキネンは甘かった。速さでは確かにハッキネンの
ほうが圧倒的に勝っていたが、レースは速ければ勝てるものではないということを
具体的に示したいいレースであった。ハッキネンは泣き崩れ、シューマッハは表彰台で
狂喜乱舞した。
当時のシューマッハは、本当に生意気で向こう見ずで、何かというと「クレイジー!」
という言葉を連発する、文字通りクレイジーなやつだった。雑誌のインタビューで
尊敬するドライバーは?と聞かれて「アイルトン・セナだよ、あいつは本当に
クレイジーで信じられないくらい速いやつだ」とクレイジー節を披露していたのを
覚えている。俺以外のドライバーは全員クズだ、くらいの物言いばかりが目立つ、
ひどく鼻っ柱の強いドライバーだった。
しかし彼はその後すぐにはF1に行かずに、スポーツカーレースで経験を積む
道を選んだ。超一流F1ドライバーとしては珍しく、デビュー前にはル・マン24時間
レースにもザウバー・メルセデスチームから参戦している。このときのレースは
見ていたが、24時間レースというマラソンレースだったせいか、特に光る走りを
見せてはいなかった。しかし、すぐに彼の名前はF1の世界にとどろき渡ることに
なる。
91年、当時ジョーダンチームから参戦していたベルギー人ドライバーのベルトラン・
ガショーがロンドンでタクシーに乗っている時に運転手と口論になり、運転手に催涙
スプレーを吹き付けるという暴行を働いたことから解雇され、その代役として
シューマッハに白羽の矢が立った。シューマッハはまったく初めて乗るF1マシン、
初めて走るスパ・フランコルシャンサーキットでいきなり予選7位という驚異的な
成績をあげた。ここからシューマッハ伝説がスタートする。
決勝レースこそ、スタート時にクラッチを慌ててつないだためにクラッチトラブルで
リタイヤという結果に終ったが、次戦では突然ベネトンチームから参戦することに
なった。このときは、シューマッハの才能に目をつけたメルセデスベンツが、将来
自分たちがF1に参戦したときにシューマッハを優先的に獲得できるように、多額の
裏金を使ってシューマッハをベネトンに移籍させたらしい。当時のベネトンは、
ジョーダンに比べてマシンの競争力・信頼性ともに優れていたので、新人が経験を
積むのに最適なチームだった。
ベネトンに移籍してからは、同僚の元ワールドチャンピオンのネルソン・ピケを
圧倒する走りを見せたばかりか、翌年の92年にはデビューサーキットのスパで
初優勝も遂げてしまう。マシンを降りて高笑いしていたときの、憎憎しいばかりの
シューマッハの笑顔は忘れられない。「見たかこのクズども!」とでも言いたげな、
謙虚さのかけらもない不遜な若者がそこにはいた。
そんなシューマッハだけに、いざこざも多かった。特にセナとは何度もいさかいが
あった。92年のブラジルGP、決勝レース中にセナのエンジンが不調でタイムが
あがらず、セナの後を走っていたマシンが大名行列状態になってしまった。
セナはマシンが不調であるにもかかわらずいつまでも後ろのマシンをブロック
し続けたため、それに対してシューマッハが「あんな行為はワールドチャンピオンに
ふさわしくない」と噛み付いたのだ。
また当時のシューマッハは無謀な運転をすることでも有名で、セナとは何度か
レース中にぶつかってもいる。マシンを降りた後にセナに胸ぐらをつかまれたこと
すらあり、かなり危険なドライバーだった。しかしセナのそんな態度に対しても
「セナは僕の服の乱れを直してくれたのさ」と意に介さない大物ぶりを見せた。
今のシューマッハしか知らない人には想像できないだろうが。
しかし、そんなシューマッハも、態度を変えざるを得なくなる。セナが94年の
イモラサーキットで天国に召されてから、否応なしにシューマッハが次世代の
ドライバー代表ということになり、自分が望まずとも周囲がシューマッハに
責任ある対応を求めることとなる。それに応えざるをえず、シューマッハも
しだいに大人の態度を取るようになり、やがて現在のような紳士的な態度の
シューマッハに変わっていく。
ところで、シューマッハというドライバーには、最後まで変わらなかった、
大きな問題がある。それは、プレッシャーに弱い、という点。そして、自分が
無様に負けるくらいなら、相手にぶつけてでも勝とうという残忍な性格だ。
90年のマカオGPでハッキネンにくらわせた接触事故、チャンピオンシップが
かかった94年の最終戦オーストラリアでのデーモン・ヒルへの体当たり、
97年にやはりチャンピオンシップがかかったヨーロッパGPでのジャック・
ビルヌーブへの体当たり、最近では今年のモナコGPでの通せんぼ事件、etc。
プレッシャーに弱いという点では99年の日本GPを思い出す。ハッキネンとの
一騎打ちとなった決勝レース、スターティンググリッドに着いたときに、
シューマッハは緊張とプレッシャーから、まさかのエンジンストールをさせて
しまう。絶対優位なときには憎らしいほど自信に満ちたドライバーだが、
プレッシャーには滅法弱く、また焦ってミスを犯すことも多い。一気に形勢
逆転を狙いすぎる嫌いがあり、それが接触やミスにつながっていたように
感じられた。
彼は長いF1の歴史の中で、ドイツ人初のワールドチャンピオン、さらに
史上最多の7回(今年取れれば8回)ものワールドチャンピオンになった
不世出のF1ドライバーとして記録され、記憶されることになるのだろう。
私にとって彼は、超一流のアスリートとはどういうものか、ということを
何よりわかりやすく教えてくれたと思う。つまり、健全な肉体に健全な魂が
宿るとは限らず、また自分以外のライバルをすべて焼き尽くすほどの、
激しく燃え上がるエゴイズムがなければトップアスリートになど到底なれない
ということが、彼を通して実によくわかった。
決していやみで言っているのではなく、それが現実だということを今では
認識している。現役時代にはその計算高いマスコミ操作や政治的な人間関係が
目立ったアラン・プロストも、今思えばそれがトップアスリートとしては
当たり前の行為だということも理解できるようになった。そして、そのような
普通の人が眉をひそめるような行為は、忌み嫌うべきものでも受け入れるべき
ものでもなく、ただ「トップアスリートはそういうものだ」と思うしかない、
ということも理解できるようになった。
レースに、そして人間というものに対して、ただの未熟者であった私を
ここまで成長させてくれたのは、まぎれもなくミハエル・シューマッハだ。
これほどの名ドライバーに成長させてもらったのは、本当に幸運であったと
言わざるを得ない。奇しくも彼は私と同い年。私よりも何百倍も濃密で
激しい人生を歩んだであろうミハエル、正直に言えば好きなドライバーでは
ないが(笑)、でも今はただ「ありがとう、お疲れ様」と言いたい。
知らない話まで
かなり詳しくて勉強になりました!
私は、プロストが好きでしたw
TBさせていただきます