Andyの日記

不定期更新が自慢の日記でございます。

模範解答シンドローム

2020-01-14 16:26:29 | よしなしごと

先日、ツイッターでフォローしている竹端寛氏が数年前に上梓した著作の『当たり前をひっくり返す』を読んで、これは日本中の教育者や管理職の人たちに読んでほしい良作であると思った。いや、それだけでなくすべての日本人にぜひ読んでほしいとさえ思う。


本書はイタリア国内から精神病院をなくすことに成功したフランコ・バザーリア(1924-1980:イタリア)、知的障碍者の入所施設の論理を破壊しノーマライゼーション原理を唱えたベングト・ニィリエ(1924-2006:スウェーデン)、教育現場での抑圧性を告発したパウロ・フレイレ(1921-1997:ブラジル)のそれぞれの代表作から、彼らの思想のエッセンスとなる文章を例にとりながら、現代社会に生きる人たちが常識と考えて疑義を挟みすらしない現状に警告を鳴らす内容となっている。

本書の前半は知的障碍者施設の問題点、知的障碍者の抱える悩みやストレス、それに対する施設職員らの対応など、具体的な事例が占めている。この前半部分だけでも大いに示唆に富む内容になっているのだが、後半に詳述されている知的障碍者施設での教育方針に見られる問題点は現代の学校における問題点とほとんど変わりがないことには驚かされる。

現代の教育とは空の箱を指導者からの知識で満たす「銀行型アプローチ」といわれる。この詰込み型教育では指導者が生徒と共に客観的、分析的、批判的に問題を考えることは不要であるとして、指導プロセスからは切り捨てられる。このような環境では、教師が生徒と気持ちを通じさせてコミュニケーションをとりつつ共に問題を考えるということはなく、指導者は生徒という空箱にひたすら知識を詰め込み続け、生徒も黙ってそれを受け入れることが求められる。生徒は自分が置かれている状況を読み解き、その状況を変革可能なものとしてとらえ、批判的意識へと向う自律的な成長の機会を持てなくなる。その結果、生徒は知識を「預金」すること、すなわち知識を整理整頓してため込んでおくことだけが上手な知識のコレクターと化してしまう。これが長じると、自分の周囲の世界全般をも、客観的な批判や分析無しに安易にカテゴライズしてしまうことにつながる。

というのは、銀行型教育で成長した人は、自分の理解の範疇を超える価値観や社会問題に遭遇すると、それらを客観的、分析的、批判的に考察するようなことはせず、どのようなことにも〇×式の選択問題のように必ず1つの正解があると考え、その正解さえ選択すれば新奇な価値観や様々な諸問題をうまく頭の中でカテゴリーし、「整理整頓してため込んでおくことができる」と考えがちだからである。またその際には、えてして固定化された常識がその模範解答として求められがちである(「ホームレスは怠け者である」「ゴミ屋敷の住人は精神異常者である」など)。

さらに銀行型の受動的教育で思考回路が成熟した人の問題は、支配者側の論理で動かされる世界にも限りなく受動的になっていくということだ。銀行型教育の環境では、模範解答以外の解答はすべて一律に誤答と採点されてしまうため、無心に詰込み式教育プロセスに取り組み、それにうまく適応できた人ほど周囲からも学校からも世間からも「教育のある人間」であると認められる。そして銀行型教育で成長した人が社会の中で多数派を占めるようになると、国の政策や基本方針を模範解答とし、それを疑いも批判もせずに受け入れる人が著しく増加する。国家の運営は政府に委ねられており、すなわち政府の決定は国民にとって最高かつ不可侵の模範解答であり、この模範解答に異議を唱える者は紛れもなく教育のない人間である、とカテゴライズされてしまうからだ。

これはしかし、やがて人を内側から苦しめることになる。現実の社会を知れば知るほど、政府の方針や社会全般の因習、慣習、前例、凡例といった模範解答には明らかに誤りと思われる点や時代遅れな点もあることがわかる。だがそれに対して反論したり疑義を差し挟む者は、銀行型教育の卒業生から構成される社会では、「教育のある人間」とは認められない。そのため社会から爪はじきにされぬよう、支配者の論理や社会全般の因習、慣習、前例、凡例に対して過剰な自己同一化を図らざるを得なくなる。その結果、「この社会のルールや常識には目に余るおかしなことが多い、しかしそれに声をあげれば社会から爪はじきにされる」という二重の苦しみに苛まされることになる。この負のエネルギーは、リベラルや革新的思想に対する羨望と差別の両方が入り混じったすさまじいバッシングにつながる。ネット上で右寄りの人たちが一概にリベラルを激しくバカ扱いする理由は、つまりこれである。現実社会を肯定し、それに同一化できる自分たちこそが教育のある優秀な人間であり、それに合わせることができない者や批判をする者はすべて愚劣な人間だ、という理屈になる。そして明らかにリベラルや革新的思想の言い分に正当性があると認められそうになると、今度は理不尽なまでに現実を無理やり肯定し、自分たちにこそ正当性があると主張しようとする。いわゆる「エクストリーム擁護」と表現される過激な現状肯定主義だ。

現代社会にそのまま通じる冷徹で正確な分析に、本当に驚かされた。まさに今の世の中は模範解答シンドロームと表現するにふさわしく、MeToo 運動やグレタ・トゥンベリさんが猛烈なバッシングを受けているのも、彼らの模範解答至上主義から逸脱している価値観だからなのだろう。