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あみの3ブログ

加賀藩主 前田家墓所@金沢市野田山 令和元年(2019)10月24日 

ラーメン食べ歩きの腹ごなしにお城を巡るというお城ファンにとって不埒な行為ですが、訪ねるとそれなりに深く知りたくなり知ると楽しくなります。
知識が全く無いので先ずは訪ねた先の資料を集め、今後の活動に活かせればいいなと思い日記代わりに記録しました。

北陸・富山に住む者として一番身近なお城は「富山城」
一番身近な大名は高岡開町の祖「前田利長」
その本家本元がお隣の石川県金沢市。兼六園を庭園として有する加賀百万石の「金沢城」であり、「加賀藩主前田氏」です。

お城の歴史、前田氏の歴史を訪ねるうえで、墓所の存在を忘れることはできません。
藩祖初代前田利家以降の歴代藩主とその正室などが葬られている墓所は、金沢の山側環状線野田・大桑のトンネルの辺り野田山にあります。
相当昔に一度訪れた(連れてこられた?)微かな記憶がありますが、大人になって(笑)改めて訪ねることになるとは思ってもいませんでした。


野田山墓地から参道を進むと、奥まったところに石碑があり「前田家墓地」その奥にさらに比較的新しい石碑があって「史跡 加賀藩主前田家墓所」とあります。一般の墓地と一線を画す境界です。

そこから先の坂道には石の階段が敷かれ、苔むした石段は枯れ葉と折からの小雨で滑りやすく危うい状況でした。
左右に点在するお墓をみながら10分ほど登ると、突当りに鳥居のある墳丘墓が見えてきました。
いよいよここからが歴代藩主が眠る結界の中です。


突当り正面は利家公の正室「松」(芳春院)
向かって左手に「藩祖利家公」
右手に「初代藩主利長公」
さらにその奥と言うか上段には利家の兄「利久公」
その右手、利長公墓上段には利長公正室「永」(玉泉院)
この五基がひと固まりとなって最上位に配置されている。

「二代藩主利常公」はぐるりと反時計回りに回って左手下の方向に「三代藩主光高公」や、利長公に殉死した藩士らに囲まれて祭られている。


以下写真でまとめてみました。
(説明文は成巽閣による)
山頂部最上段にある利家公の長兄「前田利久公」の墓
 尾張国荒子城主前田利春公の嫡男として生まれる。
 永禄3年(1560)父の跡を継いで尾張荒子城主となったが、永禄12年(1569)に織田信長の命によって弟利家公に家督を譲った。
 利家公は常に兄を重んじ、利家公が金沢城に入城(1583)後、利久公を金沢に迎えたのである。
利久公は客分として鄭重に待遇され、家臣からは御隠居様と呼ばれていた。
また利家が末森の戦いなどで出陣した場合には、金沢城の守護を代任したりした。
 天正15年(1587)没する。
 利家公は野田山に墓所を定め、その最も高い所に利久公をはじめて埋葬したのである。



藩祖「前田利家公」の墓
高徳院、名は犬千代、後に孫四郎、永禄5年(1562)には、又左衛門と改める。
天文7年(1538)尾張国荒子城主前田利春公の4男として生まれた。
 利家公は14才のときに織田信長に仕え、生涯40回以上の戦いに参加、数々の武勲をあげていた。
なかでも初陣の海津の戦い(1551)、桶狭間、長篠、賤ヶ岳の戦いや末森城(現石川県押水町)の激戦(1584)は有名である。
また、「槍の又左」と異名をとるほど槍の名手であったという。
 天正13年(1585)9月、豊臣秀吉から羽柴筑前守の号を譲られている。
秀吉の天下統一の大業は、利家公に負うところが多大であったといわれている。
 大名としては、元亀元年(1570)、近江国長浜で1万石を領したのにはじまり、越前府中(福井県武生市)で3万3千石余、ついで能登一国を領有し、加賀国石川河北両郡を秀吉から増封され、天正11年(1583)4月25日(新暦6月14日)に金沢城(当時は尾山城)に入城した。
利家公が金沢入城と共に加賀藩の時代が始まったのである。
この日を記念して毎年6月14日には封国祭と百万石祭が盛大に行われている。
 慶長4年(1599)大阪城で逝去、享年62才。
 金沢の尾山神社は公を祭神として祀っている。





利家公夫人「松」(芳春院)の墓
 天文16年(1547)尾張国海東郡沖の島に生まれる。
 同19年利家公の邸に入り、後にその正室となる。当時利家公は尾張国荒子城主であった。
 利家公が戦国時代を生き抜いて百万石の太守に出世したが、その夫人としての芳春院の内助の功は高く評価されている。
 関ヶ原合戦の後(利家公の没した翌年)徳川方と加賀藩との融和のために進んで人質となつて、江戸へ送られたのである。
 慶長19年(1614)までの15年の長い間、加賀藩のために、忍従の月日を過ごされたのである。
 元和3年(1617)金沢で没した、享年71才。



初代藩主「前田利長公」の墓
瑞龍院。
藩祖利家公の嫡男として永禄5年(1562)尾張国荒子に生まれる。母は芳春院。
 幼名利勝、後に利長と改めた。利家公と共に戦国歴戦の武将である。
 慶長3年(1598)2代藩主となったが、同4年には、利家公が逝去され、翌5年には関ヶ原の合戦が起きるなど徳川方と大阪方との関係が悪化し、雄藩たる加賀前田氏の去就は天下の注目を集め利長公の心労は並々ならぬものがあったのである。
 利長公の在位はわずか7年であるが、金沢城の修築にキリシタン大名として有名な高山右近を用いて百間堀の石垣などを作らせた。
 慶長10年に弟利常に藩主の座を譲り、自らは富山城に住まわれた。
 慶長14年(1609)には居城が焼失したので、海陸交通の重要な地である高岡に城を築き移り住んだ。 
 この間に高岡の開発に努め、今日の商工都市高岡の発展の基礎を築いたのである。
 慶長19年(1614)高岡城で苦難の多かった生涯を閉じた。享年53才。
 高岡の名刹瑞龍寺は公の菩提所である。

利長の弟利政は関ヶ原の戦いで石田三成方に与し所領を没収されたが、その子直之が本家の利常に仕えて以降代々加賀藩の要職を務めた。これを前田土佐守家(または直之系前田家)という。





利長公夫人「永」(玉泉院)の墓
玉泉院。名は永、天正2年(1574)織田信長の4女として生まれる。
 天正9年(1581)越前府中(福井県武生市)に入輿した。
 豊臣秀吉の側室淀君(茶々)、2代将軍徳川秀忠の夫人崇徳院(江)とは従姉妹である。
 利長公逝去後は玉泉院と称し、高岡より金沢城に移り、元和9年(1623)2月に没した。享年50才。
 金沢城の西の丸館跡は玉泉院丸と称され、樹木・泉石を配し路地が造られ庭園とした。



二代藩主「前田利常公」の墓
微妙院。初代利家公の4男として文禄2年(1593)金沢に生まれる。
 初代利長公に男子がなかったので慶長10年(1605)その跡を継いで藩主となる。年13才。
 2代将軍秀忠の二女珠姫(江の娘)を正室に迎え、徳川方との融和政策を進めたのである。
 利常公は改作法という画期的な農政を実施した。
 このため加賀藩百万石の治世が安定したのである。
 また美術工芸の振興に努め、さらに神社・仏閣の造営にも力を注ぎ、名工をまねいてこれに当たらせた。
 羽咋の妙成寺(利常の生母・寿福院の菩提寺、本堂他が国の重要文化財)、小松の小松天満宮(国の重要文化財)と那谷寺(国の重要文化財)、高岡の瑞龍寺(国宝)などはいずれも前田利常の時代に造営されたものである
 寛永16年(1639)長男光高に継がせ、小松に隠居所としての居城を作り晩年を過ごされた。
 その間に小松の商工業振興に務め、今日の隆盛の基礎をつくられたのである。
 万治元年(1658)小松で逝去した。享年66才。


正門が解放されていたので立ち入りました





利常公夫人「珠姫」(天徳院)の墓
天徳院。名は子々または禰々、後に珠姫。
 2代将軍徳川秀忠(と、江)の2女で慶長4年(1599)伏見邸内に生まれる。
 同6年(1601)江戸より金沢へ入輿利常公へ来嫁する。珠姫3才の時である。
 公子女8人を生み元和8年(1622)24才で没した。
 金沢小立野に葬り、一寺を建て、おくり名をとり、天徳院と称した。
 50年後の寛文11年(1671)に利常公の墳墓のあるこの地野田山に移葬された。
 公子長男光高公は加賀藩を継ぎ、二男利次公は分藩し富山藩祖、三男利治は大聖寺藩祖である。



利常公生母「ちよ」(寿福院)の墓、、、父利家の側室
藩主の生母と言えども側室の墓はずいぶんと離れた場所にあるし、標識に名前さえ記載されていない。墓標に刻まれた文字を辿るしかない。
藩主、正室、子の墓は、規模・格式・場所に至るまで厳格に序列が守られているのが分かる。




◆二代藩主利常が徳川秀忠の娘を正室に迎えてからというもの、江戸時代の前田家当主の半数以上が将軍家や徳川御三家、松平家などの徳川一門から嫁を娶っていることだ。これまで前田氏の男児は元服すると "利"の一字を含む名を称していたが、系図にみるように4代光高から以降は、名前に "利" の一字が含まれていないことがわかる。
以下のように、4代光高の代以降の歴代藩主の名は、その当時の将軍から一字を拝領しているのである。
3代光高:3代将軍家光から"光"の一字 正室は清泰院 3代将軍・徳川家光の養女(水戸藩主徳川頼房の4女徳川光圀の姉)
4代綱紀:4代将軍家綱から"綱"の一字 正室は松嶺院 会津の保科正之(3代将軍家光の弟)の娘
5代吉徳:5代将軍綱吉から"吉"の一字 正室は光現院 尾張藩 第3代藩主・徳川綱誠の娘で徳川綱吉の養女
6代宗辰:8代将軍吉宗から"宗"の一字 正室は梅園院 陸奥会津藩 第3代藩主・保科(松平)正容の娘
7代重煕:9代将軍家重から"重"の一字 なし
8代重靖:9代将軍家重から"重"の一字 なし
9代重教:9代将軍家重から"重"の一字 正室は寿光院 紀伊国紀州藩 第7代藩主・徳川宗将の長女
10代治脩:11代将軍家治から"治"の一字 正室は法梁院(正姫)大聖寺藩の5代藩主・前田利道の娘
11代斉広:12代将軍家斉から"斉"の一字 正室は維学心院(琴姫) 高須松平勝当の娘 継室は眞龍院(隆子)鷹司政煕(公家)の娘
12代斉泰:11代将軍家斉から"斉"の一字 正室は景徳院(溶姫)11代将軍・徳川家斉の二十一女
13代慶寧:12代将軍家慶から"慶"の一字 正室は正室は霊鑑院(有馬崇子)筑後久留米藩9代藩主・有馬頼徳の娘 継室は顕光院(鷹司通子)関白太政大臣を務めた鷹司政通の娘



加賀八家の墓
加賀八家のうち、6家は野田山に墓所があり、その面積は、併せて約14ヘクタールになります。八家墓所は、前田家墓所をとり囲むように配置され、北東側には長(ちょう)家、北側には前田土佐守(とさのかみ)家、奥村(宗)家、横山家、西側には村井家、奥村(支)家があります。
墓所内には、整然と墳墓(ふんぼ)や墓碑(ぼひ)が並んでいますが、各家の宗派などを反映してその形態は多様です。

写真は前田土佐の守墓入り口の石柱と八家墓地軍の入り口
前田家墓所直下西側にある村井家の墓





【加賀藩主前田家墓所】は、江戸時代に加賀・越中・能登三か国を領有した加賀藩主前田家の墓所で、金沢市野田町野田山の前田家墓所と高岡市の前田利長(としなが)墓所の2カ所からなります。
野田山の前田家墓所は、藩祖前田利家(としいえ)を頂点とした歴代藩主墓をとりまく正室・子女等の墓約80基からなります。形態は、土を盛り上げた土饅頭(どまんじゅう)形式で、特に藩主墓は三段に盛り上げた方形墳の周りを方形の溝がめぐるという独特の形態を採り、大きさも利家墓で一辺約19メートル、他の藩主墓でも一辺約16メートルと、他藩では類を見ない大規模なものとなっています。また、前田家墓所の下方には、重臣の加賀八家(かがはっか)をはじめとした前田家の家臣や町人たちの墓が広がり、現在も市民墓地として営まれています。

【高岡市の前田利長墓所】は、2代藩主利長の個人墓です。二重の堀で囲まれた正方形区画内に15.5メートル四方の化粧石を貼った二段の方形墳を築いており、その上には笠塔婆(かさとうば)形の墓碑が建っています。
加賀藩主前田家墓所は、全国でも有数の規模と威厳を備え、その形態や意匠には、独特の特徴を見ることができることから、江戸時代最大の大名家の政治権力や墓制を物語る貴重な文化財となっています。

【加賀八家】とは
加賀藩では、元禄3年(1690年)以降、、8つの家柄が藩の重役である年寄衆(としよりしゅう)を代々世襲しました。これを八家といい、家臣の中でも別格の扱いとされ、月交代で藩の執政を担当、重要事項の決定には合議制をしきました。
加賀八家のうち、6家は野田山に墓所があり、その面積は、併せて約14ヘクタールになります。八家墓所は、前田家墓所をとり囲むように配置され、北東側には長(ちょう)家、北側には前田土佐守(とさのかみ)家、奥村(宗)家、横山家、西側には村井家、奥村(支)家があります。
墓所内には、整然と墳墓(ふんぼ)や墓碑(ぼひ)が並んでいますが、各家の宗派などを反映してその形態は多様です。
八家の本多家、前田長種(ながたね)家は金沢市内にあるそれぞれの菩提寺(ぼだいじ)に墓所があります。


【墓所配置図】

同 名簿


金沢市文化スポーツ局文化財保護課:パンフレット一覧→こちら
同→史跡(遺跡)→加賀藩主前田家墓所→こちら

分かりやすい解説のページがありました→こちら


【加賀藩主 前田家墓所】
《金沢市街の南西部に位置する野田山は、豊かな自然に恵まれ、そこには前田家墓地をはじめ多くの著名人や市民の墓があります。
1587(天正15)年、初代藩主利家の兄利久をここに葬ったのが墓地の始まりとされています。ついで遺言により利家の墓がつくられ、
以後、頂上付近には前田家一族の墓が、それから下の方には家臣たちの墓がつくられました。》

野田山(前田家墓地)
石川県金沢市野田町墓地
文化財区分;国史跡
管理者;金沢市役所市民課生活衛生室
地図;



※出典、、、金沢旅物語(金沢市観光公式サイト)
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