さっさ日記

2011年4月からプラントエンジ会社勤務。ただいまベネズエラに出張中

最近

2010年11月14日 | 大学関係
お久しぶりです。
アルプスでは10月中旬に紅葉が見ごろでしたが、11月に入り下界でも紅葉も進んできました。
日本は四季の移り変わりがあって、植生も多用なのでいろんなものの変化が複雑に合わさってとても美しいと感じます。
フィンランドでは、現在8時過ぎに日の出、4時前に日没です。寒くて雪の降って暗い11月。思い出すとちょっとしんみりします。
その代わり、冬の部屋の中の環境は人生で一番快適でした。

さてさて、最近ですが
先週、研究室の友人たちと国立科学博物館に行ってきました!日本の航空宇宙の歴史について、特別展示があったからです。
あとは、新宿のフィンランドデザイン展に行ったり、自転車が壊れたり、修士論文申請を書いたり、実験したり・・・

おとといは、北アルプスの三俣山荘で今年出会ったメンバーたちと再会。
昨日、日本に来たフィンランド人の友人と、東工大のフィンランド留学組で飲みました。

久しぶりに友人と会うときって、過去の思い出を沢山記憶の引き出しから取出して、共有する良い機会になります。
本当に楽しかった。

話がずれますが、
自分は内面を観察する癖があって、楽しい時は”なんで今「楽しい」という感覚なんだろう?「楽しい」ってそもそも何?”とか、”「イライラ」してるけど、これはどういう仕組みでこういう結果に至ってるんだろう?”

簡単に解析してみると、たとえば、「友達といて落ち着く」というのは、「”友達といる”という認識(いるかどうかではなく、そう認識するかどうか)から”落ち着く”と感じている”」となり、「”自分の理解者”と定義した人物と時間・場所を共有していると”認識”していることによって、感情や言動のセーブ機能を一部解除できると判断することで脳に神経伝達物質が流れ、・・・いわゆる落ち着いたという気持ちになる」

となります(正確じゃないですが)

つまり、当たり前ですが、そこに何かがあるかどうかではなく、どう認識するかどうかが感情の発現には大切です。
妄想由来のものか、実際の事象由来のものかどうかは、関係ありません。(持続性等の違いはありますが)
実際に神がいるかいないかは重要ではありません。いると認識するかしないかです。偶然にも世界中に宗教が存在するのは、それによってもたらされる”認識”が、人間が一個体として生きて行く時に、欠かせない性質のものだからだと思います。それは一言でいえば自分の存在理由です。考えるより前に、自分は存在するわけだから、後付けにはなりますが、定義といえるかもしれません。
その自分の定義が揺らいだと”認識”する時、その理由を周囲に求めれば究極的には殺人、自分に求めれば鬱となり自殺になる。

人間にある事象をどう認識するべきか、その根拠を与えてくれるのが自然科学だと思います。
科学は、50gか100gかということは言えますが、どちらが優れているかどうか判断するのは人間だからです。
重量計の誤差としての値なら、50gの製品の方が優れてそうです。
1分あたりの工場の生産能力なら、100gの方が優れてそうです。
でも、価格も考えると、結果的に誤差100gの重量計の方がいいかもしれません。
自然環境のことを考えると、結果的に生産能力は50gの方がいいかもしれません。

基準によって、認識はいくらでも変わってきます。
一方で基準は、何を望ましいと考えるかという認識の反映です。

基準は一人一人が持っています。世の中はその基準の集まりです。
みんなの基準の相違が大きければ、多様性に富んで分散しやすい集団です。
みんなの基準の相違が小さければ、均質的でまとまりやすい集団です。

議論をして方針を決めるのは、お互いの基準の相違を小さくする行為と捉えられるし、法律やらの決まりごともそういう性質です。
当たり前ですが、何かを管理するときに、基準の相違を大きくするためのものって、あまりないですね。
やはりエンタルピーは増大するという真理を表してるのでしょうか。
膨張するものに、外から圧を加えることで世の中はバランスを保っている。
もしそうなら、その圧力は認識の反映ですから、人間世界における”認識”の役割は非常に大きなものですね。


他人のマネごとが、長続きしない原因も根本的には同じ理由なんだと思います。
逆にいえば、認識のプロセスを大事にして、それを積み上げていくことが充実した人生の鍵だと思います。
そして、プロセスに手助けをしてくれる情報の質を高めることも併せて重要でしょう。

そんなことをプラプラ考えてました。

でわでわ、これから研究室に行ってきます。^^

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