山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

魚を喰あくはまの雑水

2008-08-26 23:58:12 | 文化・芸術
080209016

―四方のたより― WFの灯

9年前に鬼籍の人となった中島陸郎氏が専属プロデューサーとして‘93年3月の柿落し以来15年余、関西の小劇場演劇を支えつづけてきたWF-ウィングフィールド-、その小屋を閉館という港に向けます、と公言し、「ウィングフィールドをやめる訳」と題して経営者の福本年雄氏自身が直々に話をする、という呼びかけで開かれた昨夜-8/25-の異・同分野交流サロン「月曜倶楽部」、馴染みの4間×7間ほどの黒壁の空間は、駆けつけた演劇関係者や小劇場ファンら150~60人で超満員を呈した。

桟敷席に身体を寄せ合うように詰め合った聴衆を前に、福本氏の語ったところは、「やめる訳」から一転して「120%やめたくない、やめないためにどうあらねばならないか」へと変じていた。

閉館の公言以来この日まで、意想外に多くの激励と支援の声が届けられていたのだろう。それらの強い声に背中を押されるように、重い現実の前に一旦は挫けそうになった心をもう一度奮い立たせ、彼は閉館の意志を翻したにちがいない。

席上、支援の声を挙げる熱い思いは大きな束となって、福本氏が列挙したギリギリの採算分岐点となる条件は、その期限において未知数だとしても、当分の間クリアしうるものとなるのではないかと覗えた。

だが、陥穽は他にもありうる。危機は別なところからも突然起こり得るということが、この日の福本氏が語った、あまりにも正直な、あまりにも私的なカネの話-財政事情-から否応もなく浮かびあがってくるのだ。

WFはその名も「周防町ウィングス」というテナントビルの6階にある。WFの運営は有限会社として法人格、代表権は福本氏にある。WFの大家にあたるビルもまた福本氏の個人所有である。要するに、大家のビル経営は個人事業、店子のWFは法人と一応別の事業だが、ともに代表権は福本氏にあることから<親>と<子>に等しく、一蓮托生の構図から免れないわけだ。

この日集まった諸氏を軸に運動的な展開で支援の輪をひろげつつWF-<子>-の財政的な再生を実現させたとしても、ビル経営-<親>-の財政規模からすれば一部の健全化にすぎないということであり、<親>サイドから危機的状況は生まれえないのかどうかが問題なのだが、彼のあまりに正直な、あまりに私的なカネの話は、肝心の<親>の財政事情もまた自転車操業同然であることを表白してしまっていた。

福本氏の語ること、彼のスタンスというものに、あまり脱中心化されていない人なのだな、といったことを私は先ず感じていた。自分自身を省みずにいうなら、あまり素直で正直なというのは自己中心に傾いており、50歳を過ぎて世間をわたる事業家としては危ういにすぎよう。

おそらく本音のところ彼は、<子>の事業、小劇場としてのWFの運動的連帯に自分のすべてを賭していきたいと念じているのだろう。とどのつまりは<子>のために<親>はどうなってもいいとさえ思っているのではないか。だがこの場合、<親>が健全であることをつねに担保されていなければ、<子>の育成を保証しつづけることは不可能なのだから、彼の<子>への思い入れが強まれば強まるほど、破綻の危機は大きく孕みゆく構図となろう。その構図から逃れでる策をこそ考えださなければならない筈だが‥。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-32

  どの家も東の方に窓をあけ 

   魚を喰あくはまの雑水  芭蕉

次男曰く、「なは手を下りて青麦の出来」は次をどのようにでも起情できる作りだが、避けて野坡が「どの家も東の方に窓をあけ」と、大切な裏入の初にもかかわらず穏やかに景を付け伸したのは、ただ単に情の取出しを次に譲ったのではない。家々の佇まいが印象づける採光の含を読取ってほしい、と需-もと-めているのだ。

当然、ふさわしい場所の見定めが必要になる。需められて芭蕉は、「浜」と答えている。「浜」とは細道後の俳諧師にとって琵琶湖南以外にはない、という点がこの作りのみそである。

雑水は雑炊と通用されるが、正しくは増水と表記し、雑水・雑炊共に当字である。いくら気に入った土地とはいえ近江にも少々飽きた、と句は釈-と-いてよかろう。だから江戸に帰ってきたとも、「ひさび」「猿蓑」のあと、上方俳諧は鳴かず飛ばずだとも読める作りで、いずれ双方の気分が掛っている。

この句には下敷となった興があるようだ。
翁の堅田に閑居を聞て、「雑水の名どころならば冬ごもり」-其角
の句が「猿蓑」に入っている。芭蕉はもとより、其角から手ほどきを受けた野坡もこの句を知らなかった筈はないが、俳諧師に「病雁の夜寒に落て旅寝哉」の嘆を生ませた例の堅田行は、元禄3年9月13日以降、義仲寺帰帆は25日夜である。消息が江戸にもたらされたときは既に冬だった。「冬ごもり」の句は、或物懐かしさを呼び覚されて、さっそく京の去来宛にでも書き遣ったものらしい。

じつは、其角の父東順は堅田の出で、もと膳所藩の儒医である。元禄元年冬、其角は堅田を訪ねている。二度目の西上の折、偶々叔母宗隆尼の死を知らされたことがきっかけだったか、「いつを昔」-其角編、元禄3年刊-に「千那に供して父の古郷堅田の寺へとぶらひけるとて」と、家集「五元集」には「宗隆尼みまかり給ふ年、千那にぐして堅田へ行とて」と前書をつけて、「婆に逢にかゝる命や勢田の霜」なる悼句を収めている。

「翁の堅田に閑居を聞て」と前書した其角の句には、先生も千那-本福寺住職-を頼ってゆかれたか、という共感の愉快がある。「雑水の名どころ」は冬籠りに取合せた其角流の洒落だろうが、堅田は中世以来、琵琶湖の漁業権をにぎっていた近江の主要港である。雑炊自慢をしてもおかしくない土地柄だ。

「東の方に窓をあけ」るのは堅田浜の家構えだと芭蕉は云っている訳ではないが、魚雑炊の句を付けて、二人の話が「猿蓑」入集の其角の句や、3年9月の堅田病臥のうえに及ばなかった筈はない。

猶、芭蕉には「雑水に琵琶きく軒の霰哉」、元禄6年と推定される吟もある-在深川-。この「琵琶きく」は、琵琶湖に掛けた空想の戯れかもしれぬ。いや、そうだろう。4年冬に帰江した俳諧師は、「琵琶きく」を擬して俳となし、湖南の冬を恋しがっている、と読める句である。

「魚を喰-くひ-あくはまの雑水」は短句ながら、一所不住の境涯を孕んだなかなかの佳句のようだ、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

どの家も東の方に窓をあけ

2008-08-25 23:58:02 | 文化・芸術
Db070510091

-表象の森- 身体-内-知覚へDigする

昨日の稽古、中国の健身気功をよくする谷田順子さんに、Work Shopよろしく実習講座をしてもらった。

気功を通して、それぞれのレベルにおいて身体-内-知覚をより高めるため、あるいは気功や太極拳でいうところの「気の流れ」なるものへ、それぞれなりの道筋がつけばといったところを狙いとしてのことだ。

午後1時前からはじめて4持まで3時間のWorkはなかなか充実したものであったと、少なくとも私の眼にはそう映った。
順子さんの指導ぶりは、4年ほど前だったか、彼女らの所属する健身気功協会による演武を観る機会があったが、その折の水準とは見違えるほどの習熟、練達を示しているのが歴然としていた。

さて受講側の3人、舞踊の身体表現における熟練度がそれぞれに異なる者たちにとって、このWorkの効用のほどはどうであったろうか。

如実に表れていたのは、まだ初心者にすぎないAyaの場合である。彼女には丹田への知覚の操法が効を奏したのであろう、従来見られなかった腰の座りと上体の軸が決まり、静止した立ち姿において大きな変化が覗えた。この習得が、静止から動きへ、動きから静止へと移っていくとき、破綻のない流れを保持しうるのかどうか、そのあたりにどれほど自覚的になれるのかが、これからの課題となるだろう。

Junkoの場合、かなり極端なほどの腰の歪みについては自身自覚しているのだが、それをどうしても矯正せねばなるまいという強い意志は未だ持たない。彼女の身体-内-知覚は、その肉体の柔軟さとともにごく素直なレベルで、いいかえれば無意識的にかなりの程度習熟しているといえる。だからというその理由だけではないだろうが、脳-意識と身体-感覚とが分裂あるいははなはだ乖離しているように私などには見える。両者をつなぐ、媒介する心的なはたらき-精神作用-を強めることが年来の課題であるはずなのだが、そこへ心が強く向かうには、身体の軸と気の流れとの相関によく気づくことではないかと思われる。

もっとも年季の入ったKomineは、Junkoとは対照的なほどに、強い精神作用が自身の身体をコントロール下に置くことができる。そうであるぶんその表象は良くも悪くも一定の硬質さをともなってしまうから、身体-内-知覚を通して自身の肉体を弛緩の方向へとどれほどDig-掘り下げる-していけるかが課題となり、その作業が呼吸を深めることへも通じ、彼女の表象の振幅をひろげよりDynamicなものとしていくはずだ。

私は四方館を創める頃より、気功や太極拳あるいはヨーガなど伝統的な東洋体育の身体技法は、自身の身体-内-知覚を深めかつ強めるものとしてよりBasicな技法であると捉えてきた。その考えから自身で太極拳の習得に励んだ時期もある。

私がそうしてきたように、BalletやDanceあるいはSportといった欧米の身体技法においても、これら東洋的な身体技法が接ぎ木され、さまざま変容してきた実際がひろく見受けられる。暗黒舞踏がButohとして世界中に受け容れられひろまりえたのも、ベースにこのSynchronism-同時性-があったゆえだろう。

いまあらためて回帰するかにみえるこの作業のめざされるべきは、表象を体現する彼女ら自身の身体-内-知覚へのはてしないDigであり、問題はその自覚の深度なのだ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-31

   なは手を下りて青麦の出来 

  どの家も東の方に窓をあけ  野坡

次男曰く、名残ノ折の裏入。続いて野坡の句で、雑の作りを以てしている。

一読、無難な景の伸しのように見えるが、両句案は同時に、不可分の付合として出来たに相違ない。

東という字は四時では春に、五色では青に配する。東の方に窓を開けて青麦の出来を眺めた、と後付に読めば、「青麦」が季移り-初夏-だということもごく自然に解釈がつく。つくが、それだけでは連句与奪の面白みは生れぬ。何を以て次句の起情を促すつもりだろう。これは巡が裏入にあたる大事なところだけに、尚更気になるが、どうやら野坡の狙いは「東」を江戸だと覚らせることにあるらしい。

「虚栗」-其角編、天和3年刊-から数えて11年目。まず尾張に旗を揚げ、京に上った俳諧師が、深川の本拠で初めて指導する新風の撰集だった。「冬の日」「猿蓑」に続く、世に云う蕉風三変である。野坡の句は、映の江戸撰者になる、という喜びと責任がことばの端々に臨く作りだろう。

ここまでくると「東の方に窓をあけ」が、翻って、名残ノ折立「東風かぜに糞のいきれを吹まはし-芭蕉-」と絶妙な軽口の応酬になっていることに気がつく。むろん野坡もそのつもりで作っている筈だ。鼻つまみの元凶-東風かぜ-は自分だと先刻合点していなければ、取回してはこんできてこんなケリはつけられない、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

なは手を下りて青麦の出来

2008-08-24 23:58:21 | 文化・芸術
Alti200638

―四方のたより― 返り咲き、お見事!

今日-8/24-、箕面市では市長選と市議選の投票日だった。

午後10時を過ぎたいま、Netでも開票速報が流されるとあって、箕面市選管のホームページを開きながら、これを綴っている。

午後8時で締め切られた投票の、地域別投票率はすでに明らかとなっており、前回49.92%に比べ、50.73%と僅かながら上がっている。そのぶん市長選への関心が高かったのではないかと推測される。

この選挙、告示が先週の日曜日-17日-だったが、実は、その前日の土曜の午後、私は市議選に立った内海辰郷君の選対会議に出席するべく急遽箕面に出向いた。格別の依頼があった訳でもなく、また友情応援といったところで役に立つなにほどのこともないのだが、昨春の谷口豊子選挙-大阪市議選-以来の経緯もあれば、知らぬ顔の半兵衛では居られなかったのだ。

選対会議には、その谷口夫妻も顔を出していた。すでに彼らの場合は、ウグイスや演説会弁士など、可能なかぎりの日程でボランティア戦士を務めることを約していた。いわば昨春とは主客を替えての選挙という訳だ。

私はといえば、そこまでやれる時間も余裕もないので、あくまでも陣中見舞といった体で、Observerとして参考までになにがしか意見を述べてみるにすぎない立場に置いた。

小さな旅から帰って翌日の20日、21日と、最終の23日、両三度選挙事務所を見舞ったものの滞在時間はそれぞれ2~3時間ほど、内海選挙の現況を一応見届けるといったほどのことで、どこまでも戦力外の付合いに終始した。

箕面市議を5期20年、議長をも務めたことのある内海辰郷は、4年前市長選に転じて一敗地に塗れ、在野に下っていた。このたびの選挙はその後の4年の空白を経て、市議返り咲きの闘いである。

数ヶ月前から彼はひたすら歩きつづけた、数千軒の家々をひとつひとつ訪ね歩いてきた、という。

「停滞する市政に活! 5期20年、いまふたたび立つ! ウツミタツクニ」
「生まれ変わって、立つ!  ウツミタツクニ、ウツミタツクニ」
「雨にも負けず、風にも負けず、夏の暑さにも負けない、ウツミ、ウツミタツクニ」
「賢治の心で、ウツミタツクニ、我が街、みのおの立て直し、ウツミ、ウツミタツクニ」
「あなたの思い、あなたの願い、市民の目線に立つ! ウツミタツクニ」
「地域の思い、地域の願い、地域の目線に立つ! ウツミタツクニ」

選管による開票速報では、先に開票されている市長選の最終得票が午後10時47分付確定。現職の藤沢市長が敗れ、中央官僚出身の倉田哲郎が当選、34歳は全国最年少首長の誕生となる。

ついいましがた、私の携帯が鳴った。谷口夫君からの一報だ。最終得票はまだだが、11時30分現在、内海候補の得票は2000、当確である。
25議席に32人の立候補、事前予想では1200票前後が当落ラインと云われた選挙戦である。

このぶんなら上位当選まちがいなし、よかった、よかった。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-30

  法印の湯治を送る花ざかり 

   なは手を下りて青麦の出来  野坡

次男曰く、二句一意の人情に景の付である。

一読、湯治を見送りがてらの其人の所感と読みたくなるが、それでは三句同一人物、はこびが輪廻になる。「なは手を下-ヲ-りて」は縄手-畷-の下はと軽く読んでおけばよい。誰某がわざわざ畦道から下りて見るわけではない。とは云っても、「下りて」が読みを躓かせることは免れがたく、その決着を野坡は季移りに求めているらしい。

青麦は今では兼三春の季だが、古くは「毛吹草」「増山の弁」「糸屑」-元禄7年成-など、初夏に扱っている。評釈はいずれも春四句続と読んでいるが、そうではないのだろう。

「-花-盛」とあれば「-畷を-下りて」と承けて晩春・初夏の季節の移りを匂わせ、法印が湯治から戻ってくる頃には「青麦の出来」も穂に出る、と云っているように読める。ならば含は衣替の候までには撰集の目処もつける、ということだ、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

法印の湯治を送る花ざかり

2008-08-23 23:28:48 | 文化・芸術
080819756

―温故一葉― カナディアンファームのみなさまへ

前略
昨日、当方の忘れ物、宅配便にて受け取りましてございます。
大変お手数をかけ、また早々にお手配いただき、誠に恐縮の至りにて、心よりお礼申し上げます。

それにしても、手作りの壮大な木の家の数々、大自然に調和した偉容ともいいうる風景には感嘆しきり、驚きと溜め息とがとめどなく、心洗われ胸躍る、またと味わえぬ滞在の三時間弱、まことに貴重な時間を過ごさせていただきました。

ふとTVの番組で見かけ、ネットのサイトを訪ねれば、さまざま想像の羽はひろがり、折しも穂高や上高地方面へ小旅行の計画を立てていたところ、これ幸い、是非にも立ち寄るべしと、足を伸ばして復路をとったのでしたが、其方カナディアンファームは、幼な児にとっても、親たち大人にとっても、まこと快き別天地、心の解放区でありました。

すでに四半世紀の歳月をかけて今日の偉容を呈するに至ったこの解放区が、人々の輪の、ますますのひろがりとともに、多くの人々の心のふるさととして、ホットな火を灯しつづけられることを、遠く大阪の市街地、殺伐としたコンクリートジャングルより、心込め祈念しております。

どうもありがとうございました。
 2008. 08. 21 / 林田 鉄・純子拝

旅の3日目、多分はせやん王国カナディアンファームのレストランでだったろう、幼な児が小さなポシェットを置き忘れた。車が高速に入ったところで気がついたから、いまさら引き返すわけにも行かず、高価なものでなくごくありきたりのキャラクターものなのだが、向こう様も処分に困るだろうと、電話を掛けてご足労ながら着払いで自宅宛送付を依頼した。

翌日には早々に宅配便で届いた、とそんな次第で上記の如く一枚の礼状となった。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-29

   又このはるも済ぬ牢人 

  法印の湯治を送る花ざかり  芭蕉

次男曰く、春三句続。名残ノ折の表十一句目、本来は月の定座だが花の座としている-定座は裏五句目-。

ここまでくると、この両吟興行の狙いがようやくみえる。野坡が表替と居直ったのも、芭蕉が、女房の親子を振舞えと助け船を出したのも、どうやら合意のうえのようだ。

「又このはるも済ぬ牢人」、じつは野坡自身の詫言だと考えればよい。先生から撰集の役目を仰せつかりながらいまだに新風工夫の目処が立たぬ、と嘆いている。それに対する芭蕉の答は、法印の花見湯治の留守居でもしていればよい-留守居には留守居の花見がある-、だ。焦ることはない、と慰めている。

これは、花の座に「花の下」-連・俳宗匠の名誉号-をうまくひっかけて、そのうちきみにも「花ざかり」がくるということを含にした、鼓舞激励のことばらしい。下五を「花時分」と作るわけにはゆかぬだろう。

とはいえ無着、無住の俳諧師が、仮にも己を「法印」になぞらえて笑いのたねにしたとも思えない。句には誰ぞの俤がありそうだが、とするとこの「牢人」は、さしづめ修行時代の宗因か。

西山宗因が京に上り主家再興のために尽力しながら、かたわら公儀「花の下」里村家に出入して連歌師となる修行を積んだのは、寛永10年から正保初年にかけての約十年間である。

「先師常に曰く、上に宗因なくむば、我々が徘徊、今以て貞徳が涎をねぶるべし」という去来抄のことばも思合せて、そう考える、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

又このはるも済ぬ牢人

2008-08-22 21:35:14 | 文化・芸術
080818699

-四方のたより- 記憶に残る小さな旅

17日未明の出立から19日夜の帰宅まで2泊3日、ささやかながら久しぶりにいい旅だった。
家族に加えて道連れをひとり得たのが旅の全体を賑やかなものにしてくれた。お蔭で子どもはずいぶんHighな状態で3日間を過ごしたようだった。

初日、早立ちの所為で生じたゆとりの時間を仮眠にあてるか行程を増やすか、伊吹SAで一休みしながら相談、少しキツイことになるが、道連れのアッちゃんがまだ一度も訪れたことがないという白川郷へ足を伸ばすことになった。

白川郷着はまだ7時半頃だった。世界遺産となった所為だろう、以前来た時の印象とはちがってずいぶん整備されており、人もまばらな早朝の郷を一時間余り散策。

東海北陸道をとってかえして郡上の美並町へ。眠気に襲われ、この走行が一番きつかった。美並ふるさと館の円空仏たちは、概ね初期の作品群とされ50数体を数えるが、慈愛に満ちた微笑みを浮かべる「康申」像の実物はやはり一見に値する。

つづく円空行脚は、高山市国府町の清峯寺。着いてから電話をすると堂守さんが駆けつけてくれ、施錠された堂を開けてくれる。十一面千手観世音菩薩を中央に、向かって左に聖観世音菩薩、右に竜頭観世音菩薩の三体のみだが、なるほど円空晩年の作は完成度も高く、意外に等身大近くもあり、その大きさに驚かされた。

行脚の仕上げは丹生町の千光寺。真言宗袈裟山千光寺は山腹のほど高きところにあり、飛弾八景と数えられ、正面に御嶽山を眺望する絶景ポイントがある。円空仏寺宝館には60余体の大小木仏が並ぶ。生憎と「両面宿儺」像は東京国立博物館にお出かけあって対面かなわずだったが、左右一対の門柱の如く大木を剥き出しのままに荒々しく鉈で削っただけの二体は迫力満点だ。

平湯トンネルを抜ければ奥飛騨温泉郷、その最奥部、新穂高温泉にある宿泊地のペンション着は午後5時を過ぎていた。このたびはこのペンションに連泊。

二日目は、上高地でゆったりと終日を過ごす。先ずは車で新平湯へ行き、駐車場に置いて、上高地行の直行バスへと乗換える。自然保護のため乗鞍高原スカイラインや上高地はマイカー乗入れ禁止となっており、この手段をとるしかない。

大正池の入口で降りて歩き出した上高地散策はまずまずの天候に恵まれ、前方に聳え立つ穂高連峰がくっきりと際立つ。標高1500mの涼風はさすがに心地よく、梓川の流れに沿って河童橋を経て明神池まで歩き、今度は対岸側を戻ってくる。10㎞足らずのコースだが、立ち止まっては景に見とれ、休み休みののんびりウォーキングだから4時間近くもかかったか。

それにしても夏の上高地は人出もまた凄い。若者もかなり見かけるが、なんといっても中高年層が主力。なかには80歳を越えようかと見うけられる年配の人もちらほら、その老人らが私などよりよほどしっかりとした足取りで歩いているのだ。こちらは前日の長い運転とこの日のウォーキングで、腰は張るわ足は痛むわ、宿へ帰ると連合い殿のなかなか巧い指圧の厄介になるというなんとも情けない始末だった。

三日目、このまま素直に復路をとるのは能がないとばかり、松本へ出てさらに東進、諏訪湖岸を走り、八ヶ岳山麓の此処は蓼科高源の外れあたりか、ハセヤン王国とも呼ばれるカナディアンファームへと立ち寄る。

ほとんど廃材ばかりでなる手作りの木の家々が、森の木立の中あちらこちら、とりどりの個性を見せる異空間。
此処はまるで異形なる非日常の世界、建物であれ遊具であれ、ものみな常識破りの歪曲された線と面で構成され、懐かしさと温もりの香があたり一面匂いたつかのごとく満ちている。大人も子どももこの世界に足を踏み入れるや否や、世俗の塵芥はものみな遠のき、意識下の抑圧された心は解き放たれ、それぞれ想い想いのお伽の国の物語を紡ぎ出していく、そんな別天地だ。

昼食をかねたほぼ3時間の短い滞在に、積りに積った心の垢取りはどれほどであったうか。自身測りようもないが、小さな旅も終りに近づけば、帰路に立たねばならぬ。諏訪インターから中央道を走りはじめた頃、夕立ならぬゲリラ雨に襲われたが、一刻早ければ森の中の別天地でズブ濡れの憂き目に会ったろう、すでに車の中で幸い、これも天の配剤か。

全走行距離は1,176㎞。ただひとつ、昨今のガソリン高騰がなんとも腹立たしい。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-28

  はつ午に女房のおやこ振舞て 

   又このはるも済ぬ牢人  野坡

済-すま-ぬ

次男曰く、開運祈願の甲斐もない牢人暮しを付けて二句一意とした作りだが、打越-ひろうた金で表がへする-以下三句を同一人物と読むとはこびは滞る。其人の身分を見替えた付である。句体は芸のない遣句のようにみえるが、次句の才覚に助を求める含に作意がある。

「又このはるも済ぬ」は、次を花の座と見定めているからこそ云えることだ。今年はせめて他人の花見を喜びにしよう、という思付には笑いが生れる。振舞うたのは日頃苦労をかける女房への償いには違いないが、振舞=表替も縁起かつぎである、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。