-四方のたより-「朗読×演劇」としての「夕凪の街 桜の国」
一昨日、土曜日の午後は、連合い殿同伴で、谷町劇場-劇団大阪-にて観劇、「大阪女優の会」の朗読劇「夕凪の街、桜の国」である。
数日前に送られてきた河東けいさんからの封書には、彼女自身書面に記していたようにほんにどっさりと、この夏から秋にかけての、彼女が関わる公演の案内が入っていた。
その第一弾が「夕凪の-」だったのだが、これに食指が動かされたのは、こうの史代原作の漫画世界を舞台にという珍しさと、演出に遊劇体のキタモトマサヤという取合せが、なにがしか新鮮な期待を抱かせてくれたからだ。
むろん、こうの史代の原作漫画を知る由もないのだが、偶々、木曜日-8/7-の深夜0時から、07年に映画化された「夕凪の-」の放映があったので、これ幸いと観たのだが、成程、かなしくもうつくしく、やさしさにあふれた佳品と賞され、世界各国でも翻訳出版されているという原作の世界は、映画からもじゅうぶん偲ばれた。
さて、朗読劇とした舞台のほう、キタモト演出は、鏡花世界に対した時とおなじく、原作漫画の語り口を、おそらくいっさいの改変もせずそのままに、舞台へと転生を試みていたようである。原則としてそのスタイルやよしではあるが、如何せん、私には18名という多彩な出演者の顔ぶれ、これは質量ともにいささか嵩張りすぎたかと思われ、演出の自在さを大きく制限したのではなかったか。
場面の展開のなかで、コロスとしての個性なき群れであろうと、キャラクターを担うべき場合であろうと、おそらく演出者が掲げたとみられる、「朗読×演劇」たる形象の可能性を思えば、全体としては総勢12.3名あたりの出演者でじゅうぶんであったろう、いやむしろそのあたりがベストであったろう。それを許さないお家の事情-制作上の-との苦心の格闘は、さぞ演出泣かせではなかったかと推察される舞台だった。
終演後、出演していた条あけみとひさしぶりに言葉を交わしあえたのは収穫、もちろん、河東けいさんにも労いの握手を交わしてから、その場を辞した。
<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>
「梅が香の巻」-19
門で押さるる壬生の念仏
東風かぜに糞のいきれを吹まはし 芭蕉
糞-こえ-
次男曰く、春三句目、二ノ折入だが跨りは芭蕉の二句続だという点に注意したい。
壬生なら、吹き回すのは念仏ばかりではあるまい、というところに笑いがある。「門で押さるる」と云い「糞のいきれ」と云えば、汗ばむ暖気も、湿気をもつあたりの空気も伝って、花じまいどき、風も東から南に変わる時季の肌触りをあらためて感じとらせる。「吹まはし」はその風向きの変化をも含にした、上手の云回しだろう。
春の農事が一通りすむと農家は小閑期になるから、寺詣で=遊山が行われるが、壬生の念仏法会はちょうどその仕舞の時期にあたっている。晩春の京には欠かせぬ行事だ。これが終れば人皆再び暮しで忙しくなる、と云いたげな作りだが、それにしても「糞のいきれ」とは。和歌・連歌ではとうてい考えられなかった興の取出しである、と。
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