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山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

あはれさの謎にもとけし郭公

2008-02-19 12:51:53 | 文化・芸術
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―今月の購入本―

中上健次「紀州-木の国・根の国物語」小学館文庫
小説ではない、故郷新宮を起点に熊野古道ゆかりの町や村を廻る叙事的エッセイ。初出は77~78年の朝日ジャーナル連載と一部他。

安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」ちくま学芸文庫
著者による芭蕉七部集評釈ものの決定版完本、講談社学術文庫上下本の「芭蕉連句評釈」を底本に一部訂正加筆され05年初版刊行。

S.カウフマン「自己組織化と進化の論理」ちくま学芸文庫
訳は理論物理学者米沢富美子。要素還元論だけでは説明できない多くの複雑系に共通するキーワードは自己組織化であると、生態系、生命体、経済システム、技術系分野など、個々の要素の働きや相互作用が全く異なるシステムに共通するメカニズムを読み解く、99年日本経済新聞社初訳刊行の文庫版。

吉本隆明「情況への発言-1」洋泉社
吉本自身が主宰した雑誌「試行」の巻頭を飾った「情況への発言」を3巻に分けて全集成したその1で、1962年~75年を掲載。

乗越たかお「コンテンポラリー・ダンス徹底ガイド」作品社
第二次大戦後からのダンス界の流れを大掴みに渉猟しつつ、近時のContemporary Danceに活躍するダンサーたちの顔ぶれを紹介。

広河隆一編集「DAYS JAPAN -アイヌの誇り-2008/02」ディズジャパン
パレスチナ難民発生60年を振り返る広河隆一の写真と文、アジアに蔓延するHIV感染状況などを掲載。

他にARTISTS JAPAN 52-土田麦僊、53-東郷青児、54-福田平八郎、55-村上華岳

―図書館からの借本―

S.ジジェク「快楽の転移」青土社
ラカン派の精神分析的手法で、芸術や思想における「女性」の立場の不定性を検証して権力と性的なるものの相関を明らかにし、現代の欲望のダイナミズムを解き明かす。95年刊。

J.ダイアモンド「銃・病原菌・鉄-上」草思社
著者は進化生物学者。はるか昔、最後の氷河期が終わった13000年前から、同じような条件でスタートしたはずの人類が、今では一部の人種が圧倒的優位を誇っているのはなぜか。著者の答は、地形や動植物相を含めた環境であり、本書のタイトルは、ヨーロッパ人が他民族と接触したときに武器になったものを表している。

鎌田茂雄「韓国古寺巡礼-百済編」NHK出版
鎌田茂雄「韓国古寺巡礼-新羅編」NHK出版

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-27

   烏賊はゑびすの国のうらかた  
  あはれさの謎にもとけし郭公   野水

次男曰く、「しらしらと砕けしは人の骨か何」、「烏賊はゑびすの国のうらかた」を合せの謎掛けと見て、「郭公」-杜鵑、時鳥に同じ-と解く、と付けている。その心は、王昭君だと云いたいらしい。

「あしびきの山がくれなるほととぎす聴く人もなき音をのみぞ啼く-実方中将」は、「和漢朗詠集」の「王昭君」題に、白楽天ほかの詩聯七首-内四首は大江朝綱の律詩四聯-とともに見えるものだ。謎掛けの発端をつくった杜国の「しらしらと」が朗詠集満尾の歌の翻転なら、「ゑびすの国のうらかた」と続けられて、同じ集に「身ハ化シテ早ク胡ノ朽骨ナリ、家ハ留リテ空シク漢ノ荒門トナル」-紀長谷雄-、「胡角一声霜後ノ夢、漢宮万里月前ノ腸」-大江朝綱-という人口に膾炙した対句のあったことを、思い出さぬ筈がない。

前漢の元帝の世に、講話のため匈奴王単于の許に贈られて、呻吟、胡地に怨死した宮女の話は、「あはれ」なる主題の代表的なものとして平安朝以降、詩・舞曲・今様・歌留多などに取入れられている。
その「和漢朗詠集」の「王昭君」題に、杜鵑の歌があったと思い出したのは、まずは自然な成行だったと思うが、さらに季詞の連想が働いたかも知れない。烏賊とほととぎす-初夏-を寄合の詞と見る理由は充分にある。二ノ折九句目、冬を挟んだ雑数句のはこびのなかに夏の句の一つも加えたいと思えば、ここよりほかにないことは誰の目にも瞭かだ-二句後に月の定座を控えている-。

野水の「郭公」は謎解きだけで生まれたものでもないようだ。とはいえ「和漢朗詠集」の「王昭君」がなければ、前二句の合せを「あはれ」と眺める興も浮かぶまい。発端-杜国-の作りを見咎めて、謎解きのたねも同じ「朗詠」に求めた気転が俳である。怪しげなイカの骨をとつぜん持ち込まれても手の出し様はないが、確かな出所がわかれば買える、と野水は云っている。うまい躱-かわ-し様だ。

作りは「あはれさの」で切れるとも、「あはれさの謎」と続くとも読め、これは留字の「郭公」が連句特有の投込として遣われていることとも併せて、兼用と見ておく。「あはれさの謎にもとけし-ことよ-、郭公-のあはれさは-」。「も」は強意の係助詞。「し」は助動詞「き」の連体形だが、終止に用いて詠嘆の語法としたものである。

尤も、古文の表記は通例、清濁の別を設けていないから、「謎にもとけし」は「とけじ」と、打消しの推量に読めぬこともない。ないが、この巻には先に、「たそやとばしるかさの山茶花」と、わざわざ濁点を付けた例-脇句-が出ていた。ならば、濁点の有無で意味が真反対になるような文脈のかなめは、表記どおりに読むしかなかろう。


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烏賊はゑびすの国のうらかた

2008-02-18 16:22:02 | 文化・芸術
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―表象の森― 長い冬

16日(土)の深夜というより昨日の未明というべきだが、この一週間ほどALTI Fes.絡みで少々疲れ気味の神経は読書に向かうほどの気力もなく、なんとなくTVのチャンネルを回していて、眼に飛び込んできたのが「スーパーチャンプル」とかいうStreet Danceを紹介している番組で、まだどこか幼さを残した雰囲気の少女二人組の激しくも達者な動きだった。どうやら「中学高校ストリートダンス選手権」なるイベントの一齣だったらしい。
番組はこの決勝戦の模様をオンエアしていたようで、出場していたのは3組のグループだが、私が観たのはその最後の組で、中学3年生と1年生の少女のコンビだったのだが、まだ大人へと育ちきっていない成長期にある彼女らの、その身体のキレ、動きの緩急のありかたは見事なもので、ちょっと惹き込まれるような感じでつい見入ってしまったのである。
勝敗の結果は、この少女たちが他の2組を圧倒して優勝、チャンピオンに輝いた彼女らは感激のあまり泣きじゃくるほどだった。
中京テレビ制作というこの番組は、これまでにも深夜の退屈しのぎのひとときを偶に眼にすることがあり、hip-hop系のStreet Danceが今の若い子らにどれほど滲透しているかについては相応に承知しているつもりだし、持て余すほどのエネルギー発散の対象としてはこういったsubcultureが恰好のものだろう。

思えば若い子らの表現型subcultureは80年代以降ずいぶんと大きく変わってきたようである。
いまやその最たるものが、お笑いであり、Street Danceのようだ。彼らは自己実現の方法として、かたや芸人をめざし、かたやhip-hopのDancerをめざす。
その流れはまだまだ続く、10年、15年くらいは大きく変転しそうにはない。

偶々、その日の午後、劇団「犯罪友の会」の武田一度君と電話で、演劇にとっても舞踊にとっても「冬の時代はまだまだつづく」と語り合っていた。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-26
  しらしらと砕けしは人の骨か何  
   烏賊はゑびすの国のうらかた   重五

次男曰く、うらかた-占形、占状、占方-の本義は卜兆のことだが、占の方法・人・材料などについても遣う。

古くは唐に亀卜、日本に太占-ふとまに-の法があった。夷国では烏賊-イカ-の灼兆を以て占ったかもしれぬ、ひとつ考えてみてくれ、というのが作意である。尾張のように海沿いの国なら、畑からイカの甲ぐらい出てきても不思議はない。ごく平凡で日常的なものを、野晒しよりも珍しげに取り上げてみせた思わせぶりが味噌で、もちろん、イカの骨を焙って卜兆にした故事など、何処にもないだろうと承知の上で作っている。

句はこびを売買に喩えれば、「人の骨か何」という貴方任せの謎を、吝-しわ-く仕入れて、色よく化粧して売るようなものである。真贋はお客さんが自分の目で確かめてくれ、謎が解けたら私にも教えて欲しい、とつけこまれれば買う方は悪い気はしない。この好心のくすぐり方は骨董屋の知惠だが、連句にも役立つ。互に気にかかる謎を間にして、売手・買手が顔を寄せ合う図は、おかしさとあわれがある。

句姿は幇間、埒もない遣句だが、しこりかけた座をうまくほぐしている。手柄はつね「人の骨か何」と作った前句の誘い方の軽さにもある、と。


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しらしらと砕けしは人の骨か何

2008-02-17 16:39:40 | 文化・芸術
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―表象の森- ALTIの競演<第三夜>辛口評

ALTI BUYOH FESTIVAL 2008 in Kyoto <辛口評>

-第3夜- 2/11 MON

◇Road ~みちの空~  -24’50”  -MOVE ON -大阪
  構成・振付:竹林典子
  出演:竹林典子、小平奈美子、山口香奈、家弓明子、竹中智子、戸島美季、北野万里子
Message
 Road 長く長く続く 終りのない道 時に流され 時に立ち止まる いつしか見つける myroad
私達は、いつからここにいるのだろうか?
遠い過去 巡る巡る 過去からの記憶 とてもあたたかい とても懐かしい あなたは誰? 私は誰?
ふと瞳を上げて空を見つめる 見えないもの 聞こえないもの 見えますか? 目を閉じて心で見つめると そこにいる私 ただ素直にありのまま受け入れる 大切な私がそこにいたから
Roadは続く 私の道を見つけて そらに向かって歩き出そう

<寸評> このグループを観るのは’06年につづいて2度目。
prologueを5人ではじめ、solo、solo、duo、soloとつなげ、lastに7人全員が思い思いの明日を胸に抱きつつこれからの長いroadを歩み出していくといったimageを、此所の舞台機構である段差を使って抒情あふれる絵にしている、と一応はいえよう。
Sceneごとに舞台の段差を変えていく演出はよく計算されており称揚すべきところだが、その反面少々煩わしいといわざるを得ない。これだけの機構があるなら一度それを駆使してやってみたかったというなら、それはそれでよしとしよう。だが、舞台の転換のための動きがつなぎとして生まれ冗長に堕してしまう落とし穴もあるのだから、演出上の必要最低限にして、こういう試みはこれっきりにして貰いたいものだ。

身体の使い方、動きのありようには好感のもてる素直さとのびやかさがある。だが動きの単位は小節ほどに短く、動きと動きのつなぎ方もたんに数珠繋ぎのものでしかなく、所謂切り貼り細工だ。もう少し息の長い動きの展開、動きの紡ぎ出しを可能にしていく研鑽を望みたいものである。

◇老犬と話す    -15’30”  -若松美黄 -埼玉
  演出・振付・作曲:若松美黄
  出演:若松美黄
Message
 愛犬のバロン君、18歳、肝臓に腫瘍、月に一度は病院通い。白内障が進んだか、段差にふらつく。このところ裏庭に狸が出てくる。「バロン見張ってないと狸が、裏口のサンダルを持って行くよ」。まだ逞しく吠えるが、痩せてきた。来春には千の風になるのかも?
物価高騰の年金生活。ダメ政府、ダメ企業!と怒る私も不器用な人生。
夕焼けだよ。散歩に行こうか? バロンと共有した18年か~。そんなひと時のダンス。

寸評> ほんとに犬と話しちゃったよ! というのが第一感、イヤ、驚きました。
戦後の現代舞踊を牽引してきた一方の雄たる73歳の身体が、遊び心もふんだんに、愛する老犬と語り合い、日常のあるがままの心象に身を泳がせていくさまは、虚心坦懐に胸打たれるものがありました。
されど、後進の身として願わくば、その短いsceneの重ねのなかで、若松舞踊における動きの骨法を、展開の論理を、ほんの少しなりとも覗き見たかったのだけれど、それはsoloゆえなのか、しかと覗えぬままに終ってしまいました。

◇Share   -22’00”  -n-chord -京都
  構成・演出・振付:蒲田直美
  出演:蒲田直美、長田直子
Message
  二歳になる双子の女の子が話してる。 「半分こ」「順番・交代-かわりばんこ-」「どうぞ~」‥‥
友達になるために最初に覚えたコト‥‥?
大人になって当たり前のコトだった。‥‥でもホントウに出来ているのかな???

<寸評> 舞台中央に小さな白いBox、イスともつかぬ、かといってオブジェというにはありきたりにすぎる。
左右に向かい合った二人の少女の手のみが、一条の光に照りだされて、動く‥‥それがprologue。
やがて少女たちは、反目し、諍いを繰り返し、離反、傷ついた孤独のなかで彷徨い、欠けた心を求め合う。
lsatにまたprologueのsceneに戻るが、むろんそれは成長した少女たちの姿なのだろう。

三夜の演目すべてにわたって共通にいえることだが、劇的構成の起承転結に照らせば、起があり承があっても転がないことだ、あるいは序がり急があるとしても、効果的な破がないということである。
20分の作品をいくつかの場面で構成するとすれば、主調音に対する反-主調音、「転」とも「破」ともなる場面を要請されようが、それがない、あったとしても弱くて成り果せていない。

それともう一つ、このグループなどには声を強めていわなければならないが、動きはimageの奴隷じゃないということ。先にImageありきで動きを引っ張り出そうとしても、そんなの大概つまらない。動いてみたその動きそのもののなかに偶然にも孕まれた、言葉になど言い尽くせぬimageを見出さなきゃ、固有の表現なんて、身体表現の可能性なんてないということだ。

◇白い夜   -20’40”   -河合美智子 -兵庫
  振付:河合美智子  音楽:O.Gplijof
  出演:張緑睿、宮澤由紀子、河合美智子
Message
 愛する人、何が起きたの? 私の目はたえず泣いている 
滅びたものを見下ろす高い崖の上で 時は過去を掬おうとむなしくめぐる
私には今日の自分がわかる でも、明日は何者になっているんだろう。

<寸評> ゆったりとしたBalladeとup-tempoな曲調が小刻みな交替を繰り返しながら、男と女2人のTrioが関係のvariationを繰りひろげていく。
Modern Danceを標榜するこの作者の振付は、動きを空間の軌跡へと展開していこうとする意志が明瞭にある。猫も杓子もの如きContemporary趨勢の現況にあって、この傾向は稀少に値するといえるだろう。

私がこの作者の作品を観るのはこれが三度目だが、そのたびに惜しいと思わされることは、形成されるひとつ一つの場面がかなり短いもので、次から次へと小刻みな展開に終始することだ。どんどん目先が変わるのだから退屈する暇もない代わりに、ざっくりとした強い印象を残さない。
おそらく作者の心の内では、流れるように繋がれる個々のsceneそれぞれに、意味づけなりimageが貼り付いているのだろうが、それが全体としてしっかり構築されてこないのである。20分余を起承転結の4場面、序破急なら3場面と、大掴みに捉える巨視的な作品への把握が必須と思われるのだが、今回もまたその壁を越え出ることは成し得なかったようだ。

◇I1 neige    -15’30”-   -MIKAバレエスタジオ -京都
  構成・演出・振付:丸山陽司
  出演:喜多智美、児島頼子、前田あずさ、平尾美由紀、秋山莉乃、伊藤宥香、西野実祐
Message
 かねてより、「雪」を表現してみたいと思っていました。
雪に縁遠い街で生まれ育った為か、雪を見ると胸が躍ります。
この作品に難しい意味はありません。ただ、「雪」そのものをイメージしました。

<寸評> 作者がMessageにいうとおり、「雪」なるものをimageとして追い、そのvariationを、Ballet-technicを駆使し、ひたすらsceneを重ねた習作といえる。
それにしてもDancerたちすべてToe-shoesを着用しなかったのは、どうした訳だったのだろう。Balletにしてはテンポの速い動きが次から次へと重ねられ、機敏で強靱な身体の切り返しが求められる動きの連続だったからかとも思ったのだが、それが決して功を奏していたとはみえない。ならばむしろ定法どおりToe-shoesを着け、その制約からくる動きの緩急を活かして振付けていったほうが、よい結果を獲たのではなかったか。

◇百ねずみ   -17’30”-  -セレノグラフィカ -京都
  構成・振付:隈地茉歩  演出concept:岩村源太
  出演:阿比留修一、隈地茉歩
Message
 深川ねずみ。利休ねずみ。銀ねず、白ねず、小町ねずみ。
この色に、百通りの名を付けるほど、日本人は恐ろしい。

<寸評> 三夜全体の演目のトリを務めたこのグループに対するコンテンポラリー・ダンス世界の認知のほどはすでに中堅の位置を占めているとみえる。
意表を衝いた新聞紙の多用、このモノとして存在のきわだつオブジェの効果は、この場合にかぎらず、底知れぬものがあるといえよう。
嘗て私もまた新聞紙を大いなるオブジェと化すまでに多量に用い、舞台全面を紙の海とも山とも化し、これを表象の場としたことがあるが、それはコンセプシャルアート華やかなりし’72年、すでに36年も昔のことだ。再びこのモノ、この手を使ったのはある演劇の舞台、ここでは演者たちの取り巻く世界を果てしなき荒野と化すに充分な効果をもたらしたが、これとて’83年のことだった。
ことほどさように、舞台に現前するオブジェとしてのモノは、繰り返し再生産され、新たな表象の世界に復活する。

さてこの作品だが、モノとしての新聞、オブジェの功用に惹かれて場面をつぎつぎと重ね、その存在が舞台全面を支配するまでに到ったとき、事の始まりよりすでに15分を過ぎていたか、壮大なる序章ともいうべき世界を現出せしめたが、そこへ架橋すべき身体の表象世界は未だ見ぬ課題として残されたまま、なかば無為に、なかば突然に、作品はそこで閉じられた、というしかない。
この試行による成功と失敗が、このグループの今後の作品にどのように係わるか、そこを見てみたいという期待はのこる。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-25

   冬がれわけてひとり唐苣   
  しらしらと砕けしは人の骨か何  杜国

次男曰く、朧化の狙い-「ひとり」-について思案をめぐらせた末、前句を「無理にもぬるゝ」人のあしらい-人物の二句続-と見定めれば、当然ここは場の付である。

「砕けしは人の骨か何」に「しらしらと」と冠したのは、先の「しばし」と同様、裁ち入れて証としたことを覚らせる暗示的手法だが、同じ「しらしら」でも梅花を手折る風流のすさび-和歌-と、白骨を拾う風狂-俳諧-とでは違う、と杜国は云いたいらしい。「雪月花」の真は、白尽しの花に迷う白頭翁ではなく、野晒しだと云いたいのだろう。そう読みほぐすと、この句にはもうひとつの作意が現れてくる。

「野ざらしを心に風のしむ身哉」、芭蕉が江戸を立ったのは同年-貞享元1684)年-8月だった。「紀行」の執筆は翌2年4月の帰江後のことだが、句はむろん行く先々で披露されていた筈で、杜国の作りは甚深なるもてなしでもある。場景を以て諷した、この付の狙い気付くと、戻って、荷兮-笠ぬぎて-・野水-冬がれわけて-二句一意の粋狂までも、なにやら「野ざらし」の俳諧師その人の姿に見えてくるから連句とは不思議なものだ。

俳の工夫は「人の骨か何」と謎のたねをのこしたところにあり、仮に「しらしらと砕けしは人の骨ばかり」「人のされかうべ」とでも作れば、珍客馳走の興など忽ち吹っ飛んでしまう。三句、只のしらけになる。「何」は次句に趣向一新をもとめるためのくつろぎの手立てには違いないが、はたらきはそればかりではない。

「唐苣」が「蕪菜-かぶら-」でも「清白-すずしろ-」でも、「独活-うど-の芽」でも一向に差し支えないような読み方をすれば、「ひとり」を朧化した面白さにも気付かず、ひいては人物の付と場景の付の見分けもつかなくなる、と。


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冬がれわけてひとり唐苣

2008-02-16 16:51:10 | 文化・芸術
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―表象の森- ALTIの競演<第二夜>辛口評

ALTI BUYOH FESTIVAL 2008 in Kyoto <辛口評>

-第2夜- 2/10 SUN

◇The Wheel of life, remade  -18’30”  -Oginos and Core -兵庫
  構成・演出・振付・音楽・照明:荻野佳代子-祐史
  出演:米田桃子、有井まりの、平屋有彩、有井はるか
Message
 そこにみえるのは私、知らないのはわたし‥‥
私はわたしではないのかな?

<寸評> Dancerとしての少女がふたり、そしてDancerとは未だ云えぬ幼女がふたり。
場面はAとBの二部構成。Aでは中央にイスが一つ、背景にはHorizontが使われ、少女の動きはシルエットが中心にはじまる、そこへ幼女ふたりが登場、上手から下手へ、また下手から上手へと歩くといった、別なる風景が挿入され、少女のシルエットの動きと交互に進行していく。Bではイスが二つとなり、背景は大黒幕へ変わる。音楽は電子音のnoise的音の連続。幼女たちと少女たちの交互に紡がれてゆく風景の積み重ねは、私には、過去と未来あるいはその反転とも見受けられたが、ミニマリズムを標榜する作者の意図はそのあたりにはないのかもしれない。
2年前のこのグループの作品には、7人の少女らが出演していた。これを照合してみるとこんどの作品の少女ふたりとは違い、7人はすっかり姿を消してしまったとみえる。たしか年長組が14歳だったというから、彼女らは高校生となるのを機にグループから離れたことになる。この事実は悲惨にすぎる。
素材としての少女の身体性をもって、作者の意図する表現の方法論が必ずしもmiss matchとはかぎるまいが、成長過程にある少女らの内面は、主体性をもってこれを選び取ろうとするとは到底思えない。悲惨な事実の問題の根は、グループが拠点とする三田という地の不利ばかりではあるまい。

◇月時計    -15’00”  -藍木二朗 -東京
  構成・演出・振付:藍木二朗
  出演:藍木二朗
Message
 月への祈りは遊び時。はるかなものになるための。
月への祈りは遊び時。それは月光で育つ時軸のはなことば。
月への祈りは眠り時。そして夜の子供がめざめる。
月への祈りは眠り時。子供は踊る、あの秘文字の楽譜を。

<寸評> ‘93年からSolo活動をはじめたというこの人は、mimeを主力とした表現者だ。その動きはどこまでも柔らかくしなやか、時にすばやく時にゆったり、流れるようにかろやかで、見せる芸としては達者なものである。
構成もまたsimpleそのもの、prologueとepilogueは舞台中央の仄かなサス明かりのなかで、身をくるませるようにして微かに動く。それは胎児のめざめとも、なにと知れぬ生物の呼吸とも云えようか。
問題は始めと終わり、閉じられたその円環性にあるとも云えるのだが、本領発揮であるべき10分余りのMovementの世界が、その動きの流れるような延々とした連なりとはうらはらに、imageの増幅が、造型性のふくらみや衝迫が一向に表れず、ひたすら卓抜な身体芸として賞翫するしかなく、円環のうちに閉じられるのもまた陳腐な見え透いたものと堕してしまうのだ。

◇象形図     -栗太郎とアルテンジャンズ -兵庫
  舞踏:栗太郎  三味線:重森三果  照明:大沢安彦
Message
 はじめからこわれているもの 
誰も居ない家‥‥魂すら消え去って 壁にはられた古いお札がゆれている 
台所の欠けた飯碗の中でアリの死骸が舞う カマドのうしろから病気の稲妻が立ち上がる

<寸評> 事情のほどはいっさいあきらかにされなかったが、出演者側の理由でこの日突然の出演中止となった。
この人の作品に格別の期待や思い入れがあった訳ではないが、結果として5作品の配列が些か冗長感を強め、不満の残る一夜となった。

◇まほろば -Complex’08-  -12’30”  -FUUKI DANCE VISION -京都
  振付・構成・美術・衣裳・出演:冬樹  映像:竹田雅宣
Message
 景色を見るように、風を感じるように、小鳥の鳴き声に耳をすますように
あなたの時間を私たちに下さい。砂のように時は流れ、風のように過ぎ去ってゆく。人の魂は時の集合体である。

<寸評> 結論から云えば、これは板の上にのせるべきではなかった。
背景のHorizontに映し出された映像はすべて冬樹の旧作のエッセンスによる編集、群舞などのショットの数々。その前を下手から上手へと、橋掛かりに登場する演者よろしく、そろりそろり思わせぶりな動きとともに歩いていく。背景の映像とこの登場の仕方の合成はモンタージュでもなんでもない、冬樹という私のただの履歴書であり、夢の跡形を追うしかない老いさらばえた者の現実の似姿である。
冬樹ダンス・ビジョンとして彼がものしてきた旧作の数々を直接知る訳ではないが、そのかれの前身たる出自を知る者としては、Messageとは別にパンフに、「動きが空間を創る」とか「動きを洗う」という言葉を弄し、ラバンや神澤の名を列ねるという尊大且つ軽薄な言挙げをしつつ、このていたらくとは言語道断、何をか言わんやである。
映像の消えたそのあとに、Soloらしき動きをする場面、これまた見るべきほどのこともなく、恣意的なままに時間だけが過ぎゆく。
見せられた世界は、ひたすら冬樹の私小説としかいいようなく終始した。

◇大原音日記 春の歌  -19’00”  -京都 DANCE EXCHANGE -京都
  構成・演出・振付:片岡重臣、植木明日香 振付adviser:山田珠実
  出演:乾光男、植木明日香、片岡重臣、北川道裕、藤井幹明、吉田輝男 演奏:青井彰、片岡重臣
Message
 大原音日記「春の歌」は片岡の亡き母靖子が2003年2月に本ホールで踊った人生最後となる舞台「春の歌」を題材に構成され、その後片岡が京都大原の自宅で母を偲びながら作曲した曲を中心に大原の春を表現しています。

<寸評> 身体表現には素人の中年男性というよりすでに初老男性と云うべき5人と、Ballet Dancerの女性ひとりで演じられたこの作品も、私小説的に発想された世界には違いないが、その構成は客観的なフィルターを通され、些か稚拙とはいえ一応の作品化がなされていた。
50年、60年と長い人生を経てきた個別の垢がこびりついた習慣的身体は、各々バラバラに固有の癖をもつ制度的なものであり、それをそのままに活かした開放的な表現を試みるならば、回転などのハレエテクニックを基礎にした振付はMiss match以外のなにものでもない。
彼ら自身がいきいきと開放的に、楽しく愉快に表現に遊ぶ動きの領域というものは別なところにあるのだ。明瞭にその視点をもって可能な動きの選択からはじめるべきだ。

◇Yurari    -15’00”  -舞うDance~Heidi S.Durning-京都
  構成・演出・振付:Heidi S.Durning  映像:八巻真哉
  出演:Heidi S.Durning  演奏:野中久美子-能管-
Message
春、竹が風にゆられ桜の花びらが風の中をゆらゆら優しく散っていく。
静けさ、美しい無、時間が止まる中ゆっくり思い浮かべる。 現実? それとも夢?

<寸評> この人の舞を観るのは’06年に次いで二度目。
下手に橋掛かり風の思い入れで段差を利用した能舞台の空間を作った。Horizontに映し出された映像は、自然風景の実写だろうか、雲の動きや地上の景色が超高速度で撮られたものか、焦点をぼかしたりさまざまな工夫で、カオスの世界のように揺らぐ。
音は前回のnoiseの強い電子音とはうってかわって能管だから、舞の世界と溶けあいつ、時に緊張を生み出す。
だが、この人の舞や所作、佇まいといったものに、初見の時に覗えた新鮮さはずいぶん遠くなった感がした。2年の間にこの舞手は、非常に繊細・微妙なところで大きく変容したのではないだろうか、それもよくないほうへと。
「舞うDance」というambivalentな要素を孕むnamingが、奇妙なbalanceを期待させるのにも係わらず、この日の彼女は、動けばどこまでも舞の人であり、あるいは能の居曲の如くそこに在りつづける人であった。
「舞うDance」から、Danceは何処かへ消え去り、隠されてしまった。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-24

  笠ぬぎて無理にもぬるゝ北時雨   
   冬がれわけてひとり唐苣    野水

唐苣-トウチサ-南欧原産、アカザ科の越年草。夏菜の代表的なもので、解熱・消炎などの働きがあり、唐苣の粥は暑気あたりの良薬と云われる

次男曰く、句は、冬枯れを分けてひとり夏菜をちるちも、冬枯れをよそに夏菜ばかりが青々しているとも読め、其の人・其の場いずれの付にも解される作りで、どちらに読んでも、「無理にぬるゝ」を見咎めた滑稽の工夫だとはわかる。

わかるが、唐苣は畑に栽培するもので、野生ではない。野山は枯れても畑の青物にはむしろこと欠かぬ季節に、唐苣ばかりが畑にある、というのは有りそうで実際は無理な話だ。「語の理解より云えば。両解いづれも通ずれど、気味より云へば、ひとり唐苣の冬枯れ分けて存せりとする方を勝れりとすべし」-露伴-と、大方がまず考えたがるだろう云回しにちょっとした仕掛けがある。

ならば、「ひとり」下七文字の頭に表したのは、両義の間をとつおいつさせるための、意識的な朧化-ろうか-だと見てよい。結局は、ひとり冬枯れを分けて夏菜を欠き取る風狂の方に分がある、と覚らされることになるだろう、と。


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笠ぬぎて無理にもぬるゝ北時雨

2008-02-15 14:11:19 | 文化・芸術
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―表象の森- ALTIの競演<第一夜>辛口評

ALTI BUYOH FESTIVAL 2008 in Kyoto <辛口評>

 アルティ・ブヨウ・フェスティバルの公募公演シリーズの三日間が無事終了し、私としては三度目の辛口評に挑む。
映画では監督、演劇では演出が、その作品を全体的視野で統轄するのを担うが、Modern Dance やContemporaryの世界では、なにゆえ構成・演出・振付と三題噺のようにみな列記したがるのか、以前から大きな疑問、というよりNonの思いを抱いてきた。嘗て舞踊劇とも訳されたバレエの世界ならいざ知らず、Modern Dance やContemporaryにあって、構成と演出の境界はいかほど明瞭に意識され、その仕事の領分を別しているだろうか。
私らの場合、動きのその殆どが踊り手の即興によるものであるから、構成上の一部決め事をした所為で、私を構成としたが、なにやらご大層に、一人をして構成・演出・振付と並べ飾り立てるのは犬の遠吠えにも似て、実体のない影法師のようなものだ。
だいたい、振付それ自身において、構成を孕みうるし、したがって演出をも規制し決定づけていくものだ。何人かの分業ではなく、一人の作業ですんでいるなら、振付の一言で万事すむ筈なのだが、どうしてこうなってしまったのか、不思議といえば不思議、奇怪至極なことではある。
今回出演予定の18演目の内、第二夜の一つが出演者の事情で休演となり、結果として17演目となってしまったが、これら一つ一つを評するにあたって、私自身今は踊る人でなくとも舞踊家に違いなかろうから、実践の徒として自身の舞踊の論理、方法論というべきものを当然有しており、明確にその拠って立つところから裁断するのを旨とした。したがって前2回に比べても、さらに辛口の度を増したかも知れぬが、そこはご容赦願いたいと思う。
   2006.02.15  四方館 林田鉄

-第1夜- 2/09 SAT 

◇KASANE Ⅱ-襲- TorioによるImprovisation Dance -21’30” -四方館-SHIHOHKAN--大阪
 構成:林田鉄
 出演:小嶺由貴、末永純子、岡林綾 演奏:杉谷昌彦 衣裳:法月紀江
Message
 春ならば桜萌黄や裏山吹や、秋ならば萩重や女郎花など、襲-かさね-の色はこの国特有の美学だが、その美意識は蕉風俳諧の即妙の詞芸にも通じていよう。
このTrioによるDance Performanceは、三者の動きの、その絶えざる変容と重畳がとりどりの襲となって、森羅万象あるいは生々流転の心象曼荼羅を象る綴れ織りとも化そう。

<寸評> 自分たちの演目だから評という訳にはいかぬ。いわば後口上よろしくといった体で。
即興-Improvisation-というものは、つねに一回かぎり、けっして再現することができないのは自明のこと。ならば鑑賞に値する作品として成立するのかしないのかといえば、それが為される一回々々において成り立つ、たとえいかなる変容があろうとも。
この作品、21分余りを前半に8分ほどと後半に6分ほどを完全に踊り手の即興に任せ、prologueにあたる3分ほどと中盤あたりに4分ほどを、一応の決め事をし、いくらかの動きも固定させた。そんな次第で私が構成者を名告ることになる。
この日のRehearsalの前、控室で私は踊り手たちに二つばかりのダメ出しをしておいた。特にその一つは受けとめる彼女らにとって具体的で共通に理解しうるものだった筈だ。
そのRehearsalでは、このダメ出しが前半の即興においては見事に攻を奏した。「KASANEⅡ」の取組みをはじめてもっともよい出来、おもしろい空間造形が現出していた。しかし、後半においてはいつもながらの暗中模索といったレベルで此方の願う世界に達しないままに終始した。それは大きな課題を残す現在の踊り手たちの限界でもあった。
さて、本番の出来だが、Rehearsalで一度巧くあたりのついたことを、即興とはいえ踊り手たちはどうしても当て込むようにその意識をはたらかせてしまいがちになる。それが些か露わにはたらいた分、Rehearsalの前半の出来に達し得なかった。残念だが、即興であるかぎりこういうことはよくある。

◇幸せのロケット花火  -21’30” -山本 裕 -東京
 構成・振付・演出:山本 裕  演奏:杉本徹
 出演:石澤沙羅、加藤真愛、佐々木由美、萩原綾、福島千賀子、高橋純一、山本裕
Message
 そして僕らは生まれてきた
NEWSはほんの他愛もないBGM
幸せの‥‥ それはほんの少しの晴れ間から打ち上げる永遠の願い

<寸評> このグループみんな若いが、Dancerとしての表現力は個々それぞれにかなりの達者揃い。細部は個性を活かした振付であり、動きの連続は溌剌とのびやかでしなやか、評家諸氏がアクセスしやすい作品と云ったのは肯ける。
だが、短いSceneの積み重ねはいかにも叙事的、悪く云えば観念で描いたimageの羅列にすぎないのが構成上の弱点だ。ましてや、動きの紡がれかた、繋がりも手持ちのTechnic Essenceのたんに見映えのする羅列にすぎず、それらのJointは身振りやactionめいたものに頼るしかなく、タネが見え透いてしまう。
よって作品の構成としては、細切れのsceneをひたすら繋ぎ合わせ時間を延ばしていくのみであった。作者は、造形の内部に潜む論理、構成力といったものへの問題意識が欠如したまま作品づくりに対しているとしか思えない。

◇The Sun Song -23’00 -red sleep -京都
 構成:red sleep 演出・振付:Peter Golightly 
 出演:Peter Golightly、伊藤文、西村淳、相模純江、那須野浄邦、三國創
Message 
詩、ライブ演奏、ビデオアート、ダンス、そしてHuman Voice。
これらを通じてThe Sun Songは「時間、人生、愛、神と私達の関係を」見直します。
これら4つは同じ物ですか?本当に美しい物ですか?
本作は基本的な転回はあれど即興を多く含み、またこの作品を通じ、時に辛く、そして時に理想主義的な立場から私達と廻りの世界の関係を見直します。

<寸評> Messageにあるように「即興を多く含み」とはまるで見受けられなかった。Peter GolightlyはSingerではあろうがDancerとは評しがたい。彼の身体とその動きは厳しい表現の錬磨を潜りぬけてきたものとは到底思えぬ。それをしもPerformerというならばそれはそれでよいのだろうが、私はその価値を認めるわけにはいかない。
Duoの相手の女性はたしかにDancerではあった。その彼女とともに動いた振りは単純至極な基本のTechnicだったし、その他の動きは舞踏的ふるまいにすぎない。
「The Sun Song」とタイトルにあるように、この舞台での表現の主力は歌にあった。その生の歌と演奏はPerformanceとして臨場する魅力はあるが、これをフォローアップするべきDance sceneは底の浅い観念ばかりが先立つ空疎なもので、演奏ばかりがきわだっていた。

◇myaku -14’40” -much in little DANCE -静岡
 構成・振付・演出:鈴木可奈子+much in little DANCE
 出演:大石文子、鈴木可奈子
Message
 めぐる、めぐる。
違う毎日、違う景色、違う空気。確実なものなんて存在しない。
けれど、その気配はめぐりめぐってワタシの内側に、積み重なっている。

<寸評> 上手と下手に階段状の段差を90度角度を変えて配し、その前にそれぞれが板付きではじまるDuo。展開はMessageの言葉がそのまま当て嵌まるように進行するが、その表現は過剰でもなければその真逆でもなく、舞台空間は緊張も孕まなければ、意想外のことも起こらない。
いまどきの高校生や大学生のGroup DanceはContemporaryであれModernであれかなりのレベルだが、この二人、それがそのままに登場してきた感があるが、如何せんDuoであるがため、そうは問屋が卸さない。実際のところは’99年にグループ結成とあるから、10年近い年季が入っている筈なのに、この程度の試行錯誤をしているようではダメだろう。ショック療法が必要だ。

◇Pleasure    -20’40” -浜口慶子舞踊研究所 -大阪
 構成・振付:浜口慶子
 出演:森本裕子、服部まい、小幡織美、中島友紀子、奥山友希子、西村和佳乃、松尾侑美、浜口慶子
Message
 Pleasure -パラレルな風景-

<寸評> 大きく3つのsceneで構成された。初めに耳慣れたピンク・フロイドの名曲が流れたのには懐かしさのあまりびっくり仰天した。懐かしさのあまりとは、’75年の神澤作品「奴等がどうなったか誰も知らない」でも使われていた所為なのだが、あとの2つのsceneとの整合をみれば、どうしてもこの曲でなければならぬとは思えず、問題は残る。
二番目のDuo、似て非なるAとBが前後にparallelなままに、これまた似て非なるparallelな動きを重ねていく。その表現の位相のずれが見どころなのだが、これがなかなか巧妙に繋がれ相応に展開していくあたり、作者ならではの飄逸味もあり、なかなか愉しめる世界になった。欲を云えば、sceneの終盤でもう少し大胆な破調があれば、ぐんと面白く豊かにもなったろう。
2のDuoから3の群舞への展開に無理はなく、むしろスムーズに過ぎると云えよう。ならばこそ初めのsceneの群舞が、曲といい踊りといい、乖離が甚だしく、全体としては構成に破綻を来しているとしか云いようのないのが問題だ。

◇飛天舞 –Dance of a flying fairy- -11’30” -Oh regina Dance Company -韓国
 構成・演出・振付:Oh regina
 出演:Choi SugMin 外11名
Message
 韓国で基も古い鐘には空を飛びながら楽器を演奏する飛天像が描いている。
飛天像を蓮の舞、飛天舞に構成し、世界平和を願う作品である。

<寸評> わが国ならさしずめ平等院鳳凰堂の内壁に舞う52体の菩薩像か、韓国古典舞踊の飛天の舞は、両の手で艶やかな細布を宙に舞わせ、あるいはシンバルの如き鐘を打ち鳴らしては、ともに身体をくるくると回転させつつ飛翔をあらわす。優雅と云えば優雅この上ないが、単純といえばまた単純この上なく、ただ見とれているしかあるまい。
Prologueの男性Solo、身体のしなやかさ、その表現力もたしかなものであり、Dancerとしての魅力はあるが、その表現とは別次の、女性陣の群舞とまるで異なる世界に棲む孤独の寂寥が漂い、違和がつきまとう。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-23

   しばし宗祇の名を付し水   
  笠ぬぎて無理にもぬるゝ北時雨   荷兮

次男曰く、旧ると降るを通用にして、雑の句を季に移した付である。前句に「しばし」とあれば、時雨-冬-は誰が考えても思い付く-「しばし時雨」と云い回した例は和歌にある-。それをわざわざ「北時雨」としたのは、前の相対付を謡曲仕立てと読み取って応じたからだろう。出所は、「山より出づる北時雨、行くへや定めなるからん」という謡曲「定家」の冒頭である。「これは北国がたより出でたる僧にて候」と、このあとワキの名告が続く。宗祇は先のほかにも文亀2(1502)年春、越後から美濃に入り、同年7月に箱根湯本で病没した-82歳-。

その宗祇に、世に名高い「世にもふるさらにしぐれのやどり哉」があることを知れば、荷兮の作意はいまさら説くまでもないようだが、工夫はむしろ上の十二文字の方にある。「手づから雨のわび笠をはりて、 世にふるもさらに宗祇のやどり哉-芭蕉」-虚栗、天和3年刊-。「手づから雨のわび笠をはりて」が面白く心にのこっていたから、そして今その人が、「笠は長途の雨にほころび」て風狂の席を共にしているから、「笠ぬぎて無理にもぬるゝ」と翻したのだ。「侘と風雅のその生にあらぬは、西行の山家をたづねて、人の拾はぬ蝕栗也」-虚栗跋-と云い放った俳諧師に対する、一拶の工夫である。美濃路ならともかく尾張名古屋で、北時雨などに常なら濡れたいと思わぬが、濡れずに治らぬ今日その場の成行が風狂の風狂たるゆえんだ、と読んでもよい。「方角や水をしらする北時雨-加慶」、加慶は荷兮の若き日の号である。北時雨は気に入った季語でもあったようだ、と。


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