「In Nakahara Yoshurou Koten」
風姿花伝にまねぶ-<16>
物学(ものまね)条々-神
およそ、此物まねは、鬼懸り也。
何となく怒れる装ひあれば、神体によりて、鬼懸りにならんも、苦しかるまじ。
但、はたと変れる本意あり。神は舞懸りの風情によろし。鬼は更に舞懸りの便りあるまじ。
神をば、いかにも神体によろしきやうに出で立ちて、気高く、
殊更、出物にならでは、神といふ事はあるまじければ、
衣裳を飾りて、衣紋を繕ひてすべし。
脇能の主人公は神、切能の主人公は鬼というのが通常とされている能の世界ではあるが、
日本の古代や中世では、神と鬼は対照されつつも、この世ならぬものとして通じ合っていると考えられていた。
紀貫之の古今集の序には「目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ」るのも和歌の力だという件りがあるが、この謂いにもそのことは伺えるだろう。
また、「ちはやふる神」、邪悪なるものを撃退する荒ぶる神とは、より鬼的な威力に満ちた存在であったろう。
したがって世阿弥は「此物まねは、鬼懸り也」とまずはじめる。
神と鬼に、「何となく怒れる装ひ」と共通するものがあり、演ずる神の性格によっては、鬼の風体となることも差し支えないだろう、という。
では、神と鬼を隔てるものは何か、如何に演じ分けられるべきか?
それを述べるのが、但、以下である。
神と鬼のあいだには「はたと変はれる本意」がなければならない。
その工夫の要とは、「神は舞懸りの風情によろし。鬼は更に舞懸りの便りあるまじ」と対照されるところであり、神を演ずる場合、たとえ性格によって「怒れる装ひ」があるとしても、あくまで舞としての風情のうえに、とでもいおうか。
鬼神系の能面に「小ベシミ」というのがあるが、「申楽談義」によれば、
「鵜飼」の後シテとして登場する閻魔大王に、世阿弥ははじめてこの小ベシミを用いたとされる。
その狙いは、殺生禁断の川で漁をした猟師の罪科を、生前の善行によって救ってやろうとする、人の情の通う閻魔大王であれば、従来もっと猛々しい面を着けるべきところを、より抑制された「小ベシミ」を用いたところに、世阿弥の工夫があるのだろう。
所謂、先の「修羅」の項でも出てきた「砕動風鬼」へと繋がる心であろうかと思われる。
――参照「風姿花伝-古典を読む-」馬場あき子著、岩波現代文庫
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