山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

巌に花の咲かんが如し

2005-06-30 11:21:44 | 文化・芸術
N-040828-088-1
   「In Nakahara Yosirou Koten」

風姿花伝にまねぶ-<17>

物学(ものまね)条々-鬼

 是、殊更大和の物也。一大事也。凡、怨霊・憑物などの鬼は、面白き便りあれば、易し。
 あひしらひを目がけて、こまかに足手を使ひて、物頭を本にして働けば、面白き便りあり。
 真の冥途の鬼、よく学べば、恐ろしき間、面白き所更なし。
 まことは、あまりの大事のわざなれば、これを面白くする者、稀なるか。
 先、本意は、強く恐ろしかるべし。強きと恐ろしきは、面白き心には変れり。
 抑、鬼の物まね、大なる大事あり。よくせんにつけて面白かるまじき道理あり。
 恐ろしき所、本意なり。恐ろしき心と面白きとは、黒白の違ひ也。
 されば、鬼の面白き所あらん為手は、極めたる上手と申すべきか。
 さりながら、それも、鬼ばかりをよくせん者は、殊更、花を知らぬ為手なるべし。
 されば、若き為手の鬼は、よくしたりと見ゆれども、更に面白からず。
 鬼ばかりをよくせん者は、鬼も面白かるまじき道理あるべきか。委しく習ふべし。
 たゞ、鬼の面白からむたしなみ、巌に花の咲かんが如し。


物まね条々の最後の抄は<鬼>である。
先に、神と鬼の区別を述べたて、神は「舞懸り」と結んで、鬼についての語り口は俄かに冴えてくる。
冒頭、鬼の芸は、古くからの観阿弥・世阿弥たち大和申楽の十八番ともいうべき出し物であり、もっとも大事の芸だという。
「恐ろしき心と面白きは、黒白の違ひ」というように、相矛盾する「恐ろしき」と「面白き」をいかに統合し止揚するかが、世阿弥にとっての難題であった。
すでに「力動風鬼」と「砕動風鬼」の対照的な概念がこれまでに登場している。
世阿弥は晩年になるにしたがって、「形は鬼なれ共、心は人なるがゆへに」と、
手足を細やかに使う「砕動風」へと工夫を重ねてゆくが、観客から好まれ喝采を浴びるのはいつまでも大仰な「力動風」であったろう。
観客に迎合するのみの「鬼ばかりをよくせん者」が氾濫するなかで、世阿弥はそれらを「花を知らぬ為手」と断じ、「鬼の幽玄」の位をめざして殊更にこだわっていく。
「別紙口伝」には、「怒れる風体似せん時は、柔かなる心を忘るべからず。これ、いかに怒るとも、荒かるまじき手立なり。怒れるに柔かなる心をもつ事、珍しき理なり」という。
「怒れる風体」に「柔かなる心」を、「恐ろしき心」に「面白き」を。
互いに相反する二面がひそかに支え合い、高次のレベルで調和されるとすれば、その芸境は不可思議な格調を有しているにちがいない。
「鬼の面白からむたしなみ、巌に花の咲かんが如し」とは、まさに鬼の幽玄体といえるだろう。


――参照「風姿花伝-古典を読む-」馬場あき子著、岩波現代文庫

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿