山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

からつゆからから尾のないとかげ

2005-06-29 11:14:13 | 文化・芸術
osaka-050625
「闇に咲く花」公演チラシ

<四方の風だより>

<劇団大阪の「闇に咲く花-愛敬稲荷神社物語」を観て>

先週の土曜日(6/25)、劇団大阪の春の演劇まつり参加公演、
「闇に咲く花-愛敬稲荷神社物語」を観に出かけた。
井上ひさしの戯曲、演出は熊本一。
3月の自立演劇連名合同公演「グランド・ゼロ」の演出で関わりあったばかりだし、
出演者にもその時の馴染みもかなりいるようだし、重い腰をあげての観劇となった。
会場の谷町劇場は、劇団大阪の稽古場でもある。
午後7時開演の10分前に会場に滑り込んだのだが、予約席の確保をしておくべきだったか、
満員の様子で席待ちの羽目になったものの、10名余りの待ち客も、俄か仕込の客席になんとか押し込んでくれた。しかしその所為で開演が10分ばかり遅れた模様。
途中10分の休憩をはさんだ二幕で、終演はすでに9時45分頃になっていたから、幕間込みで約2時間半。
小さな座布団が敷かれているとはいえパイプ椅子での長丁場は些か辛いものだ。おまけに狭い小屋なのだから足を伸ばしたりするほどのゆとりはない。同じ姿勢をとりつづけるのはこの年になるとそれだけで疲れを溜め込むような気分にさせられるし、実際、身体に凝りが残ったような感触。


泣き言はこれくらいにして、さて舞台のほう。
まず、この劇団は、装置・美術がスタッフもしっかりしていて、いつも丹念な作り物をすることで定評があるが、狭い空間をよく工夫して、舞台となる稲荷神社の社殿を中心に据え、上手に鳥居、下手に水場、太い杉の木立などを配し、狭さを感じさせず、下町の小さなお稲荷さんの風情をほどよく醸しだしている。
このあたりの芸当は、劇団としても自信に満ちた取組みだろう。
私がとくに感心したのは上手の鳥居が大小二つ、これは会場入口にもあたるのだが、まず戸口で小さな鳥居をくぐり抜け、次に少し大きくなった鳥居と配されていたこと。
狭いながらも贅を尽した舞台美術である。
その装置・美術の完成度に比べれは、肝心の芝居の流れ、演技陣のアンサンブルは数段劣るといわざるを得ない。
戯作の人井上ひさしの昭和庶民伝三部作のその弐にあたるというこの芝居、当然喜劇仕立てだが、大戦という時局に翻弄された人々の悲しい運命が影を落とし、まだ爪あと生々しい戦後の混乱のなかで起こる悲喜こもごもの物語。
神主役の斉藤誠と5人のお面工房のご婦人たちのコミカルなやりとりは概ねよくこなれてはいるものの、緻密に細部を見てゆくとかなりの荒さが目立つもの。狭い小屋なればこそ神経の行き届いた細やかさが欲しい。
狂言回しのごとき役割の巡査役・清原正次の軽妙さは芝居全体に調味料よろしく風味を効かせたものとなって、成功といえるだろう。
問題は、芝居の本筋、悲劇の要となる人物、神主の息子役の上田啓輔。この役、グァムで戦死と伝えられていたものの、占領軍に捕虜となり、釈放されて突然の帰国となる。
ところが、戦中時、グァムの現地人と野球の遊びをした際に投げたボールで偶々一人の少年を負傷させた事件があった。この偶然的な事故を故意による傷害事件と解され、C級戦犯としてGHQによって再度グァムへと送還され、死刑に処されるという設定。
史実としてあったとは到底考えられないが、ありそうな話としてずいぶんと念のいった筋立てで、この息子、戦犯として追われていることを知った途端、ショックで健忘症となったり、狂気の淵を彷徨ったりするのだが、その心の患いにおける演技も、また記憶を取り戻してからの演技も、主観に寄り過ぎたものにしかなっていない観念的演技という典型なのが残念。彼にはまだまだ具体的な手だて、手がかりの材がなさすぎる。芝居をぶち壊しているというほどの破綻こそないが、もっとも大事な役どころだけにこの未熟さはあるべき位置からはほど遠く、他に適当な役者は居ないのかといいたくなる。


序でに、井上ひさしの劇宇宙について一言。
井上ひさしは日本ペンクラブの現会長である。戯作の人は小説に戯曲に多作の人でもある。
小説「吉里吉里人」に代表されるごとく寓意の作家と見える井上ひさし、寓意に満ちた世界がラディカルで抱腹絶倒の劇宇宙を現出するとするなら、この場合、昭和庶民伝三部作の二に挙げられるこの作品は、昭和庶民伝と総称される必然からか、場面や人物の設定が敗戦後の混乱期から抽出された特定のもの-末端の小さなひとつの神社-に見かけ上のことだがリアルな存在にならざるをえない。そこに幾重にも、いかにもありそうな物語としての仕掛け、見かけ上のリアルな虚構化が施されてゆく。だが、その要請は、寓意としての虚構がもちうるダイナミズム、ラディカルな表現へと止揚する力を削いだものとしてしまうのではないか。
この劇宇宙から、嘗ての大日本帝国の植民地主義的な侵略戦争の肥大化を、大君の赤子の民として支え続けてきた人心の拠りどころとなってきた全国津々浦々の神社の存在に相関を見ることは容易なことだし、いまなお騒ぎ立てられる靖国問題へとフィードバックさせていくこともごく自然な道筋ではあるのだが、そのぶんどうしても寓意としてのラディカリズムからは遠ざかっていくのである。


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