山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

ルンペンとして二人の唄□

2010-11-24 22:17:41 | 文化・芸術
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―日々余話― 8年ぶり、黄葉の熊野路

休日を利用して日帰りの熊野路、処々に見られた銀杏の大木の黄葉ぶりは、陽光を浴びて見事なものだった。
JR和歌山駅の東側付近にある東横インで、茶谷祐三子を乗せて、4人連れの道中となった往路、以前なら吉備インターを降りて、山間路を中辺路へと入ってゆくのだが、このたびは時間に余裕もないことから、平成19年に南紀田辺まで伸びたという阪和道路をそのまま走らせた。
近露に着いたのはもう1時近く、今春オープンなったという、食事処や特産品販売を集めた観光施設、その名も熊野古道ちかつゆを眼前にしたときは、古道を訪れる人や車の多いこととともにそのさま変わりように驚かされた。

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インド舞踊の茶谷祐三子が、この近露のはずれ、日置川上流にある小さなログハウスに居を移したのは6月、もう5ヶ月にもなろうというが、その間、イベントなどがあるたび各地を経巡っているというから、実際にはその半分も滞在していないのだろう。
そのログハウスは、日置川の岸辺に建つ民宿まんまるを経営する主人の所有といい、そこから急斜面を少しばかり登った山際にあった。

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家族3人と彼女と、遅い昼食やらしばしの語らいに時を過ごすも、付近を散策するなどの時間の余裕もなく、大塔村平瀬の稲文醸造さんへと向かう。
稲垣夫妻とは、娘が生れて5ヶ月余りの頃だったから、8年ぶりの再会、こんなにご無沙汰になろうとは思いもしなかったのだが‥、やっと訪ねることが出来た。互いに年を重ねて老いの風貌が覗く。
短い逢瀬だったが、細君は相変わらず能弁で、話はあちこち弾んで愉しかった。
山家の日暮れは早い、すっかり黄昏れた5時頃に辞し、何度も合宿に使わせてもらった懐かしの旧い校舎をあとにした。

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―表象の森― 三位一体の図像学

宗教学専攻の編集者でもあり翻訳家でもあるという中村圭志の「信じない人のための<宗教>講義」、
神をコカコーラの缶に喩えると、父、子、聖霊は、それぞれ缶の上面、底面、ぐるっと回った側面の三つに相応する、即ち三位一体。
この缶をテーブルの上に立てる、テーブルは人間世界、広い面上に救いを求める哀れな衆生がうごめいている、そこに神=コーラの缶が出現する、といったかたち。缶の底面と机との接触面がイエス・キリスト、この円い接触面は缶の底面-子なる神-として神に属するが、同時に机の面でもあるから、併せて人間界にも属し、キリストには神と人間の二重性があることに。
このように人間の歴史的世界という苦界-机の面-と神なる救済の原理-コーラの缶-との境界面にあるキリストは、たんなるシンボルでも絵物語の登場人物でもなく、歴史的人物であることによって救済のリアルな根拠が示される。キリストは人間であり、かつ神でもあった、ここに信仰の要訣がある‥、と。

―山頭火の一句― 行乞記再び -116
4月26日、曇后晴、市街行乞、宿は同前。

雲雀の唄-飼鳥-で眼が覚めた、ほがらかな気分である、しかしぎょうこつしたいほどではない、といつて毎日遊んではゐられないので-戸畑、八幡、小倉では行乞しなかつた、今日が五日ぶりで-5時間行乞、行乞相は悪くなかつた、所得も、世間師連中が取沙汰するほど悪くもなかつた。

朝のお汁で山椒の芽を鑑賞した。
花売野菜売の女群が通る、通る。
午後はまつたく春日和だつた。

このあたりを勘六といふ、面白い地名である、そして安宿の多いのには驚いた、3年ぶりに歩いてみる、料理屋などの経営難から、木賃宿の看板をぶらさげてゐるのが多い、不景気、不景気、安宿にも客が少ないのである、安宿がかたまつてゐるのは、九州では、博多の出来町、久留米の六軒屋、そしてこの勘六だらう。
遠賀川の河床はいいと思つた、青草の上で、放牧の牛がのそりのそり遊んでゐる、-旅人の眼にふさはしい。

洗濯したり、整理したり、裁縫したり、身のまはりを少しきれいにする、男やもめに蛆がわく、虱がぬくいので、のそのそ這ひだして困りますね!

夜は三杯機嫌で雲心寺の和尚を攻撃した、鮭、鮭、そして酒、酒よりも和尚はよかつた、席上ルンペン画家の話も忘れない、昆布一壜いただいた。

※表題句の□字は不明、その他に1句を記す

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Photo/遠賀川に架かる昭和9年竣工の勘六橋-老朽化で現在架替が検討されている-。

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Photo/勘六橋付近の遠賀川河床風景

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Photo/勘六橋から僅か200m余下流に架かっている沈下橋


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