あきじの気まぐれ日記Ⅱ

「あきじ」が日頃、撮影した鉄道・バス・船など
様々な写真などを紹介して行きたいと思います。

軍艦島へ行ってきました!上陸編

2011年10月12日 | 旅行
今日は上陸後のことについてUPします。

まずは簡単に軍艦島について説明。
軍艦島とは、長崎半島から西に約4.5km、高島から南西に2.5km、
長崎港から南西に約19kmの沖合いに位置する「端島」の通称であります。
端島は南北に約480m、東西に約160m、周囲約1,200m、
面積約6,300㎡という小さな海底炭鉱の島で、岸壁が島全体を囲い、
高層鉄筋アパートが立ち並ぶその外観が軍艦「土佐」に似ていることから
「軍艦島」と呼ばれるようになったそうです。
1890年(明治23年)から三菱の経営によって主として
製鉄用原料炭を供給してきましたが、国のエネルギー転換政策によって
1974年(昭和49年)1月15日に閉山、同年4月20日に無人島になりました。
炭鉱閉山後の「端島」ですが、2009年(平成21年)1月5日に、
「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成資産の一つとして
世界遺産暫定リストに掲載されました。
2009年(平成21年)4月19日に上陸解禁となりました。

長崎港から40分、軍艦島に到着。いよいよ上陸です。
上陸後、入口で長崎港で受取った長崎市端島見学施設利用券を同行していた誘導員に
渡します。
やまさ海運の場合、往路の船内でグループ分けしていたのですが、
そのグループごとでの見学となります。(ネックストラップのカードの色で識別)

見学場所も決められており、島内に3ヶ所の見学広場があります。
それぞれコンクリート舗装された見学通路で結ばれており、見学広場でガイドによる
説明があります。


ガイドの説明を聴き入るツアー参加者

肥前端島灯台と貯水槽跡です。
ライフラインは電気は海底ケーブルを敷かれていましたが、水道は船で運ばれてきて
貯水槽に蓄えていました。その後、海底送水管が敷かれて送水されるようになりました。
灯台は2代目で現在も活躍中。

貯水槽と同じく高台に建つのは職員住宅(幹部用)跡です。
この建物だけに風呂がありました。

第二竪坑坑口桟橋跡
炭坑マンは写真にある階段を降りて、そこからエレベーターで海底の炭田へと
向かったそうです。
採掘作業は海面下1,000メートル以上の地点まで及び、
作業環境は気温30℃・湿度95%という過酷なものだったそうです。 

「端島」の沖に浮かぶ三ツ瀬
この海底まで坑道が延びていて採掘していたそうです。

総合事務所跡
鉱山の中枢であっレンガ造りの建物です。
ここには炭鉱マンたちのための共同浴場がありました。
それも海水を沸かしたもので、上がり湯のみ真水でした。
浴槽は常に真っ黒だったそうです。


当時は建物が建ち並んでいたそうですが、そのほとんどが崩壊し、瓦礫が散乱。

30号棟・31号棟アパート
手前の30号棟アパートは、鉱員社宅で1916年(大正5年)に建てられた日本最古の
7階建て鉄筋コンクリート造の高層アパートといわれているそうです。
左奥の31号棟アパートの地下には共同浴場があり、
1階には郵便局や理髪店が設置されていました。

島にはプールもありました。
1958年(昭和33年)に完成。25mプールと幼児用プールがありました。
それまでは小中学校に有ったそうです。
ちなみに海水を使っていました。

天川の護岸
島の拡張に伴う護岸づくりは、石炭と赤土を混ぜた
天川(あまかわ)と呼ばれる接着剤を用いた石積み工法により、
盛んに行なわれていたそうで、島の至る所に残っています。

正面に写る骨組みは巻揚げ櫓(入気口)です。

貯炭ベルトコンベヤー支柱
精選された石炭はベルトコンベヤーによって貯炭場に蓄えられ、
運搬船に積み込まれていました。

船に戻ると、別の会社が運航する船2隻が到着し、沖合いで
我々が出港するのを待っていました。

軍艦島コンシェルジュ(株式会社ユニバーサルワーカーズ)が運航する
クルーズ船「はやて2」です。元は長崎港の交通船の様です。

シーマン商会が運航するクルーズ船「さるく」

つづく