秀吉がねつ造し、軍記物に汚染された戦国史を今一度洗濯いたし申候
【2010年5月2日初稿、2014年6月3日追記】
現代に伝わる本能寺の変の通説の元ネタを作ったのは、あの羽柴(豊臣)秀吉であることは拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』に書いた通りですが、本ブログでもあらためて書きました。愛宕百韻の光秀発句も秀吉が改竄したものであり、信長が苛烈・冷酷な性格というのも秀吉が演出したものです。
★ 通説を作った羽柴秀吉『惟任退治記』
★ 織田信長:苛烈・冷酷説を斬る!
★ 本能寺の変についての典型的な通説紹介
このことは秀吉が書かせた『惟任退治記』を読めば一目瞭然です。私のような歴史研究素人が何ヶ月か調べている中で見開き十頁程度のこの本にたどり着き、一読して発見できたのです。
それを今までの本能寺の変研究者が全く気付かなかったのは不思議ですし、奇怪なことと言えます。この本の存在を知らない本能寺の変研究者などいないはずです。存在はよく知られているのに内容についてまともに言及したものがないのです。
まるで意図的に『惟任退治記』は本能寺の変研究から無視されてきたように思えます。
それは単なる私の考えすぎではないのです。秀吉が犯さざるべき聖域であった時代がおよそ80年間ありました。明治政府樹立(1868年)後から太平洋戦争敗戦(1945年)までです。この時代は豊臣秀吉が国策として軍神に祀り上げられていました。日本の帝国主義にとって中国征服を目指して朝鮮へ出兵した秀吉はまことに都合のよい国家シンボルだったのです。(詳しくお知りになりたい方は藤田達生『秀吉神話をくつがえす』をお読みください)
秀吉の英雄としてのイメージは歌舞伎や人形浄瑠璃となって庶民に広まった『絵本太閤記』によって作られて浸透していました。これを壊すような史実は軍国日本には必要なかったのです。秀吉の事跡を調べ上げて史実を明らかにすることは、おそらくタブーだったのでしょう。『惟任退治記』の内容を明らかにすれば、秀吉が信長を慕っていたというイメージはたちどころに崩れます。なにしろ、信長は安土城で美女三千人を囲って夜な夜な楽しみにふけっていたとか、本能寺の変の夜も美女達をもてあそび、自分の死を知るとことごとくその女性たちを刺し殺した、と書いているのですから。
★ 織田信長:苛烈・冷酷説を斬る!
おそらく、このような理由で『惟任退治記』の内容には触れないという不文律が成立していたのでしょう。太平洋戦争敗戦から既に60年以上たっていますが、その不文律の後遺症が本能寺の変研究の世界にあるのでしょうか?
★ 愛宕百韻:桑田忠親・金子拓両博士の怪
結局、私のように全くしがらみのない素人でないと発見できなかったわけです。土岐氏と並んで『惟任退治記』という重要なキーワードを見逃してきた本能寺の変研究。その代わりに軍記物の記述に振り回されてきた本能寺の変研究。これでは真実に到達できなかったのは当然といえば当然です。
★ 土岐氏を知らずして本能寺の変は!
この話と同様に置き去りにされているのが千利休と関白秀次の切腹事件です。いずれも二人の個人的理由で起きた事件とされています。私は秀吉の朝鮮出兵にかかわっているとみています。フロイスの日本史を読むと秀吉の朝鮮出兵には日本国内にかなりの動揺と反対があったことがわかります。こういった史実が明らかになるのは中国征服を進めた軍国日本にとっては絶対に避けねばならないことでした。第一次朝鮮出兵の直前に切腹した千利休や第二次朝鮮出兵の直前に切腹した関白秀次がそういった反対勢力の中心にいたのではないか。そのような疑問をもたれることすら避けたかったに違いありません。あくまでも個人的理由での切腹だったとしたかったわけです。いずれ二人の切腹の真相も斬ってみたいと思います。
★ 日本と朝鮮半島2000年
【以下、2014年6月3日追記】
2013年12月出版の『本能寺の変 431年目の真実』で上記の謎解きを行いましたので、お読みいただけると幸いです。
>>> もはや本能寺の変に謎は存在しない!利休・秀次切腹事件にも!
>>> 三鬼清一郎氏の現代史学への提案
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>>> 「本能寺の変 431年目の真実」読者書評
>>> 「本能寺の変の真実」決定版出版のお知らせ
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』プロローグ
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』目次
>>> もはや本能寺の変に謎は存在しない!
>>> 本能寺の変当日に発生した謎が解けるか
【2010年5月2日初稿、2014年6月3日追記】
現代に伝わる本能寺の変の通説の元ネタを作ったのは、あの羽柴(豊臣)秀吉であることは拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』に書いた通りですが、本ブログでもあらためて書きました。愛宕百韻の光秀発句も秀吉が改竄したものであり、信長が苛烈・冷酷な性格というのも秀吉が演出したものです。
★ 通説を作った羽柴秀吉『惟任退治記』
★ 織田信長:苛烈・冷酷説を斬る!
★ 本能寺の変についての典型的な通説紹介
このことは秀吉が書かせた『惟任退治記』を読めば一目瞭然です。私のような歴史研究素人が何ヶ月か調べている中で見開き十頁程度のこの本にたどり着き、一読して発見できたのです。
それを今までの本能寺の変研究者が全く気付かなかったのは不思議ですし、奇怪なことと言えます。この本の存在を知らない本能寺の変研究者などいないはずです。存在はよく知られているのに内容についてまともに言及したものがないのです。
まるで意図的に『惟任退治記』は本能寺の変研究から無視されてきたように思えます。
それは単なる私の考えすぎではないのです。秀吉が犯さざるべき聖域であった時代がおよそ80年間ありました。明治政府樹立(1868年)後から太平洋戦争敗戦(1945年)までです。この時代は豊臣秀吉が国策として軍神に祀り上げられていました。日本の帝国主義にとって中国征服を目指して朝鮮へ出兵した秀吉はまことに都合のよい国家シンボルだったのです。(詳しくお知りになりたい方は藤田達生『秀吉神話をくつがえす』をお読みください)
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秀吉の英雄としてのイメージは歌舞伎や人形浄瑠璃となって庶民に広まった『絵本太閤記』によって作られて浸透していました。これを壊すような史実は軍国日本には必要なかったのです。秀吉の事跡を調べ上げて史実を明らかにすることは、おそらくタブーだったのでしょう。『惟任退治記』の内容を明らかにすれば、秀吉が信長を慕っていたというイメージはたちどころに崩れます。なにしろ、信長は安土城で美女三千人を囲って夜な夜な楽しみにふけっていたとか、本能寺の変の夜も美女達をもてあそび、自分の死を知るとことごとくその女性たちを刺し殺した、と書いているのですから。
★ 織田信長:苛烈・冷酷説を斬る!
おそらく、このような理由で『惟任退治記』の内容には触れないという不文律が成立していたのでしょう。太平洋戦争敗戦から既に60年以上たっていますが、その不文律の後遺症が本能寺の変研究の世界にあるのでしょうか?
★ 愛宕百韻:桑田忠親・金子拓両博士の怪
結局、私のように全くしがらみのない素人でないと発見できなかったわけです。土岐氏と並んで『惟任退治記』という重要なキーワードを見逃してきた本能寺の変研究。その代わりに軍記物の記述に振り回されてきた本能寺の変研究。これでは真実に到達できなかったのは当然といえば当然です。
★ 土岐氏を知らずして本能寺の変は!
この話と同様に置き去りにされているのが千利休と関白秀次の切腹事件です。いずれも二人の個人的理由で起きた事件とされています。私は秀吉の朝鮮出兵にかかわっているとみています。フロイスの日本史を読むと秀吉の朝鮮出兵には日本国内にかなりの動揺と反対があったことがわかります。こういった史実が明らかになるのは中国征服を進めた軍国日本にとっては絶対に避けねばならないことでした。第一次朝鮮出兵の直前に切腹した千利休や第二次朝鮮出兵の直前に切腹した関白秀次がそういった反対勢力の中心にいたのではないか。そのような疑問をもたれることすら避けたかったに違いありません。あくまでも個人的理由での切腹だったとしたかったわけです。いずれ二人の切腹の真相も斬ってみたいと思います。
★ 日本と朝鮮半島2000年
【以下、2014年6月3日追記】
2013年12月出版の『本能寺の変 431年目の真実』で上記の謎解きを行いましたので、お読みいただけると幸いです。
>>> もはや本能寺の変に謎は存在しない!利休・秀次切腹事件にも!
>>> 三鬼清一郎氏の現代史学への提案
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【文庫】 本能寺の変 431年目の真実 | |
明智 憲三郎 | |
文芸社 |
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>>> 『本能寺の変 431年目の真実』プロローグ
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』目次
>>> もはや本能寺の変に謎は存在しない!
>>> 本能寺の変当日に発生した謎が解けるか
光秀を討った豊臣秀吉は、明智サイドから見れば憎い相手です。
しかし、主人殺しり汚名は歴史からは消えません。
とは申せ、秀吉も織田家を乗っ取り、家康も豊臣家を奪い掠めています。
やはり、歴史の勝者が屁理屈を駆使して正統さを残すもののようです。
iinaとしては、光秀の主筋に当たっていた足利義昭陰謀説に傾きます。義昭も、
最後は秀吉の御伽衆に加えられ61歳で天寿をまっとうしました。