本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

本能寺の変研究者の軍記物依存判定法

2020年06月28日 | 歴史捜査レポート
 拙著『本能寺の変 431年目の真実』に高いご評価をいただきありがとうございます。
 この本の中で本能寺の変研究者が軍記物依存症に陥っていることを書きました。(第1章 誰の手で定説は作られたか-定説を固めた高柳光寿神話)
 おそらく軍記物に書かれていることを史実として使っていない本能寺の変研究本は一冊もない(拙著を除いて)ともいえる状況です。史料の信憑性に慎重な歴史学者でさえ、こと本能寺の変については軍記物を使ってしまっています。
 出典がきちんと書かれていれば『明智軍記』『川角太閤記』『甫庵信長記』などの軍記物を参照していることがわかるのですが、出典も示さずに軍記物に書かれていることを史実として書いてしまっている研究本がたくさんありますし、テレビ番組や講演会で軍記物の話を史実のように語っている研究者がたくさんいます。おそらく、テレビ番組で有名な学者はほとんどです。(東京大学教授でも)

 研究者がこのような状況ですから、インターネット上では軍記物の話が氾濫しています。
 >>> そのうんちく間違ってます!

 そこで、研究本が軍記物依存であるかどうかを見分ける簡単な方法をお知らせします。
 次の話や言葉がひとつでも出てきたら軍記物依存です。
・信長は光秀を苛め抜いた。(本当はいじめるどころか相互信頼)【惟任退治記に秀吉が書き、軍記物がそれに合わせたエピソードをこぞって創作】
・光秀は信長を怨んでいた。(怨むどころか感謝)【同上】
・光秀は天下が欲しかった。(秀吉が作ったフェイク)【惟任退治記に秀吉が書き、軍記物がこぞって踏襲】
・光秀は「敵は本能寺にあり」と言った。(芝居の受け狙い)【明智軍記の創作】
・光秀は前日の夜、初めて重臣たちに謀反の決意を打ち明けた。(少なくとも斎藤利三は十日ほど前には知っていた)【甫庵信長記の創作】
・山崎の合戦は天王山の取り合いが勝負を分けた。(その事実はない)【甫庵太閤記の創作】
・光秀は小栗栖の竹やぶで土民の鑓で刺殺された。(小栗栖ではない、醍醐か山科のあたり)【明智軍記が創作】
・辞世「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」(詠んでいない)【明智軍記が創作】
・明智左馬助光春 (正しくは明智弥平次秀満)【明智軍記が創作】
・森蘭丸 (正しくは森乱丸)【惟任退治記に秀吉が書かせ、軍記物が踏襲】
・光秀は鉄砲の名手で、その腕を買われて朝倉義景に仕えた。(朝倉義景には仕えていない。国衆の黒坂備中守に仕えた)【明智軍記が創作】
・光秀は朝倉義景に仕えていて、上洛前に信長に仕えた。(信長に仕えたのは比叡山焼き討ちのあと)【明智軍記の記述を基に高柳光壽教授が誇張】
・光秀は明智城落城の際に逃れて朝倉義景に仕えた。(明智城落城はない)【明智軍記が創作】
・信長の正室・帰蝶(濃姫)は光秀の従妹 (その史実はない)【明智軍記が創作し司馬遼太郎が誇張】
・光秀の叔父・光安、父・光綱、祖父・光継  (正しくは、叔父はいない、父は光兼、祖父は光重)【明智軍記が創作】
・光秀は愛宕百韻で「時は今 あめが下知る 五月かな」と詠んだ。 (正しくは「下なる 五月かな」)【惟任退治記に秀吉が書かせ、軍記物が踏襲】

 Yahoo知恵袋や2チャンネルに「本能寺の変」「明智光秀」「織田信長」などについて質問を書いたり、回答を書いたりする方々には、まず初めにこのページを読んでいただきたいと思います。

 2020NHK大河も軍記物オンパレードになりそうなので、注意してご覧ください。

 明智光秀の系譜・生涯の約300年の歴史を『光秀からの遺言』で書き、12月25日発売の『明智家の末裔たち』で光秀後の子孫400年の歴史を書いたので、明智家の発祥から現代までの700年の歴史を書き上げたことになります。私の完結編です。歴史はずっとつながっていることをご理解いただければ幸いです。
販売開始しました。>

 どの軍記物がどの話を創作したのかは拙著『「本能寺の変」は変だ!435年目の再審請求』の付録に表にして書いてあります。
>>> amazonのページ

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 枚方の蔦屋書店さんの企画で「人生のエンドロールに載せたい一冊」
 私は『光秀からの遺言』を選びました。
 >>> 読者書評

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宝島社から出版した『歴史捜査・明智光秀と織田信長』の読者書評です。
 2ページ4ページで項目ごとにバランスよくサクサク纏められてて読みやすく、網羅性も高い。他社発行の著書へのいざないもスムーズなのは宝島社の度量の深さ。これで1,300円は安い。宝島社、なかなかやる!
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 小和田哲男さんが豊臣秀吉について極めて真面目に書いています。一読の価値大いにあります。
 >>> 中公新書『豊臣秀吉』のページ

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 下の6行はNHKから発表された2020大河「麒麟が来る」に書かれている解説。これが滅茶苦茶、光秀の原点を狂わしている。よって来年一年の話が大きく曲がると見られます。所詮ドラマなので、お好きにどうぞ!ですが、視聴者が史実だと思って見てしまうので怖い!!「これはフィクションです」とテロップを流してくれると良いのですが!

 若きころ、下剋上の代名詞・美濃の斎藤道三を主君として勇猛果敢に戦場をかけぬけ、その教えを胸に、やがて織田信長の盟友となり、多くの群雄と天下をめぐって争う智将・明智光秀。
「麒麟がくる」では謎めいた光秀の前半生に光を当て、彼の生涯を中心に、戦国の英傑たちの運命の行く末を描きます。


 上の6行のどこが変かというと、光秀は美濃守護の土岐氏の重臣として斎藤道三と長年死闘を繰り返していた人物なのです。道三に仕えるわけがありません。結局、主君は道三に毒殺されたので、道三は主君どころか主君の敵(かたき)です。ですから、光秀は道三討ちの斎藤義龍軍に土岐一族と共に加勢して、みごとに仇を打ちました。
 NHKのストーリーは軍記物(小説)の「明智軍記」の創作を、司馬遼太郎がふくらませて「国盗り物語」に書いて広まり、歴史学者の誰も正そうとしていないので、そのまま通説となってしまっているものです。光秀の立ち位置が正反対になってしまっていますから、これは重症です。詳しくは『光秀からの遺言』をお読みください。史実に基づいた光秀の系譜・前半生が書かれています。


 
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 謎とされてきた光秀の前半生・系譜・享年などに決着がつきます。「斎藤道三に仕えた」なんてありえない。「道三と死に物狂いで戦った」のですから。
 定説では、明智光秀は弘治2年に斎藤道三が息子の義龍に討たれた戦いで道三に加担して落城し、越前に落ち延びて朝倉義景に仕えた。その後、永禄9年に織田信長に仕え、信長と義昭の間を取り持って上洛させた。ということになっています。
 ところが私の歴史捜査では、弘治2年光秀は義龍に加勢して道三を討ち、その後、越前の朝倉家を頼り、舟寄の黒坂備中守に仕えて10年間長崎称念寺のそばに居住しました。永禄8年に近江で足利義昭に加勢したのち、義昭らと越前に戻り、東大味(現在、明智神社のあるところ)に居住しました。そして、永禄11年に義昭らと上洛しました。その間、信長には仕えていません。細川藤孝に仕えて、幕府の足軽衆だったのです。
 このことは9月出版の新刊にも書いたことですが、光秀は永禄8年に近江で足利義昭の加勢として戦っています。それを示す史料の情報がようやく脚光を浴びました。2014年に発見されたものですが、今まで無視されてきたのは定説に合わないからでしょうか。実はこの史料とは別の史料もあるのですが、従来元亀3年の史料だと誤った年代比定が行われていたために気づかれないままだったものです。まさに「436年後の発見!」です。
 ともかく、新刊に書いた光秀の前半生が裏付け強化されたことは大変結構なことです。
 >>> 「明智光秀の動静を示す最古の史料発見」記事

 >>> 熊本県立美術館「ガラシャ展」
 >>> 『本能寺の変 431年目の真実』エピローグ

 舟寄館から長崎称念寺の林を遠望


 東大味の明智神社

 >>> YouTube「光秀プロジェクト始動」動画 謀反人か英雄か、それとも
 >>> 河出書房新社特設サイト「光秀からの遺言」
 >>> 河出書房新社特設サイト内「明智光秀全史料年表」

 9月27日河出書房新社より発売『光秀からの遺言 436年後の発見』
 >>> 河出書房新社のページ

光秀からの遺言: 本能寺の変436年後の発見
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河出書房新社

【東京新聞2018年7月21日10面記事】
 歴史を捜査する手法は仮説推論法(アブダクション)という手法です。歴史学者の方々の論説を見てると、残念なことに、この手法を理解している歴史学者がいないのではないかと思わざるを得なかったのですが、その手法を理解し、駆使している学者の存在を東京新聞の記事で初めて知りました。どうやら理解していないのは日本中世史の正統派の方々の特殊性のように見受けられます。あるいは古代史でも事情は同じなのかもしれませんが。
 >>> 邪馬台国の会:東京新聞の記事
 邪馬台国の研究者の安本美典氏です。
 記事の中で次のように語っています。安本氏は仮説検証法と書いていますが、仮説推論法と同じものです。
 私は仮説検証法という方法を取ります。かつては絶対正しいという公理(前提)を設けて定理に進み議論を展開していたのですが、現代では仮説の前提は絶対に正しいものではなくてもよく、その前提から矛盾のない大きな大系がどれだけできるかによって、価値が決まることになりました。
 「ある一部分の事実だけをとりあげて、マスコミ報道に持ち込むという方法をとりません。それは宣伝であって、証明にはなりません」とも語っています。
 まことに同感です。

 私が歴史捜査と名付けた仮説推論法について、本能寺の変を例に以下に解説いたします。
 従来の本能寺の変研究は光秀が謀反に及んだ動機論に終始し、謀反の実行プロセスの解明は行われてこなかった。当日起きた出来事はすべて偶然で片付けられている。光秀が信長や信忠を討てたのは信長が油断して、あの日の京都に軍事空白が生じたからであり、光秀は「偶然・幸運」にもこの機会を得て、謀反を思い立った。そのため準備も不十分で「無策・無謀」な行為だったため、味方もないまま中国大返しを行った秀吉に敗れて滅亡したという理解である。これを、仮に「偶発説」と名付けておく。
 現代に起きている犯罪を考えてみていただきたい。動機があれば犯罪が成立するわけではない。成功させる見込みが立たずに実行に至らないケースの方がはるかに多いはずだ。
 つまり、光秀が謀反の実行に踏み切ったということは謀反成功の見込みが立って、謀反の実行計画が立案できたのだ。この計画がいかなるもので、どのように実行されたのかを解明しなければ本能寺の変を解明したことにはならない。現代の犯罪捜査が動機の解明だけでは立件に至らないのと全く同じだ。
歴史の真実を信憑性ある史料の記述から復元する実証主義史学の基本姿勢は肯定すべきものである。しかし、歴史の真実について確定的な事実を直接的に書き残した史料が存在しないケースは多々ある。書かれていない史実を推理して埋める必要がある。この事情は現代に起きている犯罪でも同じだ。確定的な証拠のない事件も多い。最高裁は確定的な証拠がなく、状況証拠のみで有罪と判断する基準を次のように設定している。
「被告人が犯人とすると矛盾なく説明することができ、かつ被告人が犯人でないとすると矛盾なく説明することができない」。
この手法を歴史に適用した実証的手法を私は歴史捜査と名付けた。具体的には論理学で用いられる仮説推論法(アブダクション)という手法だ。
仮説推論法は、関連する証拠を最もよく説明する仮説を選択する推論法である。仮説推論法は観察された事実の集合(証拠群)から出発し、それらの事実についての最も辻褄の合う、ないしは最良の説明へと推論する。
私は25件の証拠から、9個の疑問を抽出し、その疑問のすべてに辻褄の合う答として、「信長による家康討ちの計画が立案されて進行していた」という答を出した。
 私の出した答だけを見れば「ありえない」と誰もが叫ぶ。私自身、出てきた答に初めはそう思ったのだから、読者がそう思うのは当然である。しかし、これは憶測で出した答ではない。憶測とは不確かな根拠をもとに推測することだ。私の出した答は25件の具体的かつ確かな証拠から推論したものである。逆に偶発説には何も根拠がない。どの証拠をもってして偶然と立証するのか妥当な説明を見たことがない。
また、光秀の謀反の動機を野望とする説の根拠はこの説の提唱者の「信長は天下が欲しかった、秀吉も天下が欲しかった、光秀も天下が欲しかったのである」という主観的な説明だけしか存在しない(高柳光壽著『明智光秀』吉川弘文館)。これが実証的であろうはずがない。それこそ憶測としか言えない。怨恨とする説も同様だ。光秀が信長を恨んでいたとする明確な証拠が存在しない。また、恨んでいたから謀反を起こすという推論の妥当な説明もない。
 私の推論は『織田信長 435年目の真実』幻冬舎文庫・二〇一八年四月発行の第七章に詳述したのでお読みいただけると幸いである。その推論に誤りがあるのであればご指摘いただきたい。
 なお、信長が家康討ちを光秀に命じたとする兵の証言を以って信長が家康討ちを企てた決定的な証拠だとしているわけではない。光秀が兵に対して、このような命令を下したというのではなく、兵が勝手にそう思っただけだからだ。兵の証言が本当のことだったと仮定する(仮説を立てる)と、他の証言の辻褄が合うことを検証できたことを決め手としているのだ。
 仮説推論法や蓋然性ということを理解せずに答だけ読んだ読者は残念だが「奇説」と叫び続けるしかないであろう。
 また、「家康黒幕説」というレッテルを貼っている読者がいるようだが、どう浅読みしてみても明らかに光秀が主犯で家康は従犯だ。従犯の黒幕はあり得ない。どうやら誤解というよりも、何か裏の意図があるようだ。家康黒幕説だと主張している人にその理由を質問してみて、その論理性を確認していただきたい。
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 >>> もはや本能寺の変に謎は存在しない!
 >>> 『本能寺の変 431年目の真実』読者書評


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2 コメント

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反論、というわけでは無いのですが。 (KKK)
2020-07-11 13:54:18
しかし軍記物といっても、その内容が全て史実に反しているというわけでは無いとは思われますが……

その辺りを判別する基準は一体どうなっていらっしゃるのでしょうか?
返信する
本文に説明追記します (明智憲三郎)
2020-07-13 14:44:11
本文に説明追記しますが、軍記物は小説・物語です。そのようなものに真実が書かれているとしたら、それは小説家が史実をきちんと勉強したからにほかなりません。したがって、軍記物ではなく、元の史料を証拠として使用すべきで、軍記物を証拠にすべきではありません。
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