あかない日記

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儒学者 山鹿素行

2021-10-23 | 人物忌

 


    新宿区弁天町1番地の宗参寺

 

10月23日は 儒学者 山鹿素行がなくなった日

 

山鹿 素行(やまが そこう)は

号・素行  名・高興(たかおき)
字・子敬(しけい) 通称・甚五左衛門。

江戸時代前期の儒学者、軍学者で

山鹿流兵法及び古学派の祖である。

その思想は忠臣蔵の大石内蔵助ら赤穂藩士、
幕末の吉田松陰、
陸軍大将・乃木希典ら
後の武士社会に大きな影響を与えている。


1622(元和8)年 
 陸奥国会津(現・会津若松市)にて
 浪人・山鹿貞以の子として生まれる。
1628(寛永5)年 6歳で江戸に出る。
1630(寛永7)年 
 9歳のとき大学頭を務めていた
 林羅山(1583-1657)の
 門下に入り朱子学を学ぶ。

1636(寛永13)年
 15歳からは小幡景憲(1572-1663)
 北条氏長(1609-1670)の下で
 甲州流の軍学を、
廣田坦斎らに神道を、
 それ以外にも歌学など様々な学問を学ぶ。
1653(承応2)年 
 築城中であった赤穂城の縄張りについて
 助言したともいわれ、これにより
 二の丸門周辺の手直しが
 なされたという説があり、
 発掘調査ではその痕跡の
 可能性がある遺構が発見されている。
1662(寛文2)年 
 朱子学に疑問を持つようになり、
 新しい学問体系を研究する。

1665(寛文5)年 
 天地からなる自然は、
 人間の意識から独立した存在であり、
 一定の法則性をもって
 自己運動していると考えた。

 この考えは、門人によって編集され
 「山鹿語類」などに示されている。
1666(寛文6)年 
 朱子学を批判したことから
 播磨赤穂藩・浅野家へお預けの身に。
1675(延宝3)年
 許されて江戸へ戻り、
 その後の10年間は積德堂で軍学を教えた。

1685(貞享2)年 死去 64歳。

名言:「世の乱れは、言葉の乱れである」
   「天地これ師なり、事物これ師なり」
   「常の勝敗は、現在なり」

 

(参考:ウキペディア他)