北白川宮能久親王の馬上銅像
10月28日は
幕末・明治の皇族 陸軍軍人の
北白川宮能久親王
(よしひさしんのう)が亡くなった日
能久親王は
1847(弘化4)年
伏見宮国家親王の第9皇子として誕生
1858(安政5)年
上野寛永寺の門跡
(皇族・貴族が勤める特定の寺社や
その住職)となる。
その後 徳川慶喜の助命嘆願や
蜂起した彰義隊に擁立されるなど
幕府寄りの立場をとり
ついには 奥羽列藩同盟の盟主に
担ぎ出されたため 同盟崩壊後
謹慎・蟄居の憂き目となる。
明治維新後
1870(M3)年
還俗(げんぞく)して伏見宮に復帰
軍籍に就く。
1872(M5)年
北白川宮家を相続
後にドイツ留学を果たした。
なお 留学先のプロイセンでは
貴族の未亡人と婚約し
帰国後 強い反対をうけあきらめる。
結果謹慎
1884 (M17) 年 陸軍大将
1895 (M28) 年
近衛師団長(当時陸軍中将)として
ドイツより割譲された
台湾の征討任務で台湾に渡るが
10月28日現地で病にて亡くなる。 49歳
征討作戦中の死であったことから
外地で皇族が戦没した初めての例となる。
(死後陸軍大将に特進)。
なお その子もパリで客死し
孫は昭和15年モンゴルで
砲兵少佐として戦死している。
銅像は 北の丸公園内の
国立近代美術館工芸館
(旧近衛師団司令部)近くに建つ。
建立されたのは 没後の
1903年(明治36)で
製作は新海竹太郎
芸術的にも高く評価されている。
新海竹太郎は北白川宮が
台湾にあった当時近衛騎兵として
仕えていたとも。
鋳造は陸軍砲兵工廠。
建立当時は 北の丸内に駐屯していた
近衛歩兵第一・第二連隊正門前
(現在地より東方約60m)にあったが
1963年 北の丸公園整備計画に従って
現在の位置に移されている。