それは、BANされた恨み、みたいな奴だろうか。
「なんで私は殺される事に?」そんな事例と、そこに残って居る何か、とか。
最終的に、やっぱりか或いは、ともかく農家は、施政者に殺される、感覚はある。「絵なんか描いて暮らしていけるんですか?」そう言う疑問?を最後まで引っ込めないから、だ。当人にしたら、それは物理的な問題である、農作業を続けない限りは農作物は得られない、食えない、畑は荒れて再生も出来なくなる。しかし?施政者的な視点では、需要が100万円分しかないのに、農家でなくても大概は200万円分出荷しようとしてしまう。
半分は破棄され、必要な利益は得られない。欲求というか、市場の評価にしろ、”良い作物”を要求する時、一人は80万円分得ていくが、他の人々は20万円を取り合う、様な格差に陥り、最終的には失業者を発生させる。これを打開する上で、失業する人々は他の仕事を必要とする、が。結論でこういう事は如何なる市場でも起こる、その時、「仕事を創る」その必要性が出てくる、が。
「絵なんか描いて暮らしていけるんですか?」
その声は、「仕事」という絵を描こうとする行為へ同じく、その重い視線を向けてくる。
今の感覚では、”これ”への対処が「BAN」しか無くなる感じはあって。他の業種が少なからず創造性、「付加価値」そう言うのを要求するのに、農作物の生成にはどうも”その”感覚が入ってこない。結果か、その声は物理的な事実を背にして、創作の価値に重い否定を向けちゃう、訳だ。”彼ら”に需要を求めてもそれは存在しない、所にまで、それは踏み込んでいく。
その声を止める術は、結局は銃を持ち出すしかないし、その際に起きる悲痛は、「反逆者」そう言う事にするしかない、事態は、ある。
全会一致、を言い出すと結局、”こういう声”が最後まで抵抗する事になる。結果、100%の理想、それはちょっと難しい。「それはあなたの主観でしょ?」幾ら物理的な事実を背にしても、そう言う感じで詰めて行っても、主観は逆に「要求される権利」として、何処までも守られる事には。
この結末は、妥当だろうか、或いは。
農家としての誇りは最後、権力の銃弾によって否定されてしまう。
「創作を認めない」結末として、それは妥当か、或いは。