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あげちうのブロマガ

万人向けという無理

阿弥陀如来の像がある。


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「これが神です」

そう、同意を求め言う人を前に、何を考えるか。

「神とは何か?」は、RPGなどを企画する時、不意に考える話、だ。最近は特に混沌が加速している、かもしれない。映画でも「シーサイドスクワット」など、いわゆる悪役、アメコミの領域では「ディラン」と呼ばれる、本来なら倒される人々が主役を張っていたり。そこには理解と共に、混沌もある。

「悪役」とは、何だろう。
彼らは何故、そんな邪悪な事を考えるのか。

その理由が、結論で言えば前出の問いへの返答、その中の一部にある、のだと、不意には思う。”それ”が事実だとする、しかし。人の個性として、その造形が「良い」か否かは個人差があるし、”それ”から感じる者も千差万別、だろう。多くはまあ、そこまでは考えない、「そうですか、これが神の像なんですね」それはともかく。皮肉な言い方をすれば、求めているのは「それがどれだけ自分にとって有益か?」だ。そして、この時のこの像は、或いはそれが示す物は多く、多くの人々にとっては何の益も齎さない。

”物理法則その物だから”だ。

この辺、前々から有るがアッラーでもヤハウェでも、ともかくイエス・キリストが「神」と呼んだ存在に通じているなら”全て”同じモノ、ではある、数学的に?言うなら(0±0)、ここに帰結する、”それ”を、時代の人々が”その主観で”イメージした姿に過ぎない。とは言え?その「神を見た人々」こそが、結論では神に選ばれた人々、でもあり。そのイメージは無視出来ない、だからこそ、それはそれとして安定し残るのだろう、けども。

ともかくそのイメージに対して、跪く人もいれば、銃を向ける人も居る訳だ。

そこは、人の個性では、ある。

しかし、”それ”は、この世界の、「物理法則その物」であって。

”それ”に敵意を向ける事が、そもそも根元的に間違っている、そうであれば、そう。目の前に石があり、それが自分の望む物じゃ無かった事に腹を立てる、様な馬鹿な様ではあり。ともかく石なら?自分の期待するモノをそこに掘り出す事は出来るだろう、それを可能にする技術が無い?なら諦めるなり他を探すなり。

”普通”は、そう。

そして「ディラン」悪役、とは。”これ”が極端に成っていく、そんな人々ではある訳だ、現実否定、その阿弥陀如来がその姿である事がどうにも我慢出来ない。「馬鹿なの?」しかし、人に個性が有る時、それはどうしようもない、何かの現実でもある。

理解は、出来ない。

ともかく”それ”が、石ころの様に「存在に無頓着」な時、そこには、「そう言う人々も入ってくる」訳だ、その余地はある。

世界その物理は、「石の様に無頓着である」事が求められる。
じゃないと「全て」を受け入れる事は出来ない、その状態じゃないと、世界は”継続する可能性”を持てない。
しかし同時に、「阿弥陀如来のデザインが気に入らない」その、不満もある訳だ。

悪とは、彼らの事、ではある。

それは、「馬鹿なの?」その感覚の先で、人類への挑戦を始める。

「正義」それを語るなら、彼らは敵である。
そしてそれは必ず発生し、無視出来ない支持がそこに有る。

そして物語の需要、「価値」的には、”それ”を排除する方が、正しい。

ここから先は思考停止、かもしれない。

「何故彼らはそんな邪を考えたのか、実行出来てしまったのか?」物語的には”考えてもしょうがない”のだ、それにどう対処するべきか?問題にすべきはそこからだ。世界を護るその為には、阿弥陀如来はその姿で良いし、違うそれは、世界の否定でさえ有る。

如何なるモノも、万人が「良い」とは言わないのである。

”それ”を目指しても、徒労だ。



使用イメージ
https://seiga.nicovideo.jp/seiga/im6921369
https://publicdomainq.net/airport-building-0057761/

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