絵が違う。
年商一千億円の売り上げがあるその大企業は、しかし現状は利益性が低く、借金が膨らんでる状況だ。
結論で既に、「このままでは経営破たんします」それは答えが出ていて、対処を求められてる状況。
対して、年商50億円の中小企業は、高い利益性をキープし、似たような業態ながら、急成長中である。
とは言え、その前者の会社が破綻する時、業界へのダメージは深刻で…この会社は前々から大企業の方へ、”その”改善を要求していた、様な事態。
だから、か。前者の会社は後者の会社を毛嫌いし、業界から締め出す様な事をしていて…結果で、後者の会社は知名度が殆ど、無い。
「それでも利益が出ている」と言う事が、事態を大きく変えつつはある。
「大賀さん」の前では、この話は結論が出ていて、前者は後者の言う事を聞かねばならない、事態には有る…訳だが。
形而下は今も、年商1000億円の大企業と、50億円の中小企業でしかない訳だ。
理念的には、”ここ”で、「大賀さん」の決定に従って大企業は止まり、軌道修正する時、その先の破綻は回避し得る可能性がある、訳だが。
感情論の方向は今も、「ウチは年商一千億円の大企業だぞ?!」そこに有り、決定に従う様な感覚には”全く”成れない。
相手の会社を「社会的に排除すべきゴミだ」とまで言い切ってしまった手前、それに従うと言うのは、苦痛以前の状況は有って、そして今もまだ、以前の影響力、そう言うのは残ってる。(自社の)理念と正義に賭けて、あのゴミに負ける訳には行かない。
まだ、戦える。
「大賀さん」では、結果は出ていても、人間のその時の理解は或いは、そこに有る。
今の”戦争”は、その先に有る訳だ。
今の状況で止まれば、損害は「辛い」程度の軽微?で済む。止まらなければ、或いはその一千億円の大企業が倒産する、所まで進む。しかし?結果論だ。その時、その破綻した経営をその50億円の企業が引き継ぐ様な形に、乗っ取る様な形に成れば、損害は軽微で、そしてむしろ、大改革の末に、利益性の高い事態へ発展する、かもしれない。
「大賀さん」とは、あくまでも、紛争解決機構、ゲーム機に過ぎない。
最終的な決定はその先の、(0±0)、大衆、神、そこにこそ依存される。
ともかく「自分は」今、創作での利益性、”それ”は止められている。
それもまた神のみぞ知る、と言うモノで有る時、耐えるしかない…のだけど。
「経営者がもう変わってるのだ。貴方は経営破たんした人だろう、黙っててくれないか」
それは今も、とある個人の主観的把握に過ぎない。