市島宗家と市島春城の墓は、新発田市五十公野の浄念寺にある
浄念寺→ 文明5年(1473年)開基・大和国「奈良県」広瀬郡細川氏祐慶、越前国「福井県」足羽郡広瀬村に一字を創建して、浄念寺と号す。その後、慶長3年(1598年)5月 第5世住職祐白の代、現今の地(新発田市)に移りて堂宇を建立す。この堂は明治32年(1899)2月の火災に焼失。焼失から87年後の、昭和62年(1987年)新しい寺を新築した。
この浄念寺は、藩主・溝口氏の転居と共に移動し、福井県→石川県→新発田市と移動してきたようです。よほど寺と溝口氏の交流・信頼があったと考えます。この時代、藩主が移動すると寺や住職も移動したようです。移動前の寺・墓地などは誰が管理したのでしょうか。新しい住職が転任して寺を管理したのでしょうか。
市島宗家の菩提寺は、新発田市五十公野の浄念寺。浄土宗大谷派。(下図参照)
※市島徳次郎(3代目)の7子・「ふみ」は、新発田市五十公野・浄念寺の住職、専順に嫁す。市島宗家は、この時、浄念寺と親戚になりました。
浄念寺の位置図
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(上)昭和62年(1987年)8月1日、浄念寺が再建された。 ※寺が焼失した前後、日清戦争・日露戦争・福島潟を高額で購入など様々な理由で、金持ちの市島家は寺の再建費支出まで余裕がなかった・・かもしれません。
「上記」詳しく書くと、 明治27年(1894年)8月~明治28年4月まで日清戦争 → 明治30年(1897年)に市島徳次郎(湖月)は貴族院議員を退任。市島邸内に冠婚葬祭などの公式行事の本屋敷として湖月閣を造営完成 → 明治32年(1899年)2月に浄念寺が火災で焼失 → 同年3月、耕地整理法施行。市島宗家、株式投資に対する資金転換のため赤字経営 → 明治37年(1904年)日露戦争が始まる → 明治40年(1907年)日露戦争後の恐慌が起る。水原郷(阿賀野市)が凶作、減収は平均25%以上 → 明治44年(1911年)市島徳次郎の弟・佐藤伊左衛門(水原町下条町の佐藤家に養子に行った)が死亡し、子が相続。その負債整理のために佐藤家が所有していた福島潟を兄・市島徳次郎が多額の金額で購入 → 寺の改築は他の檀家との関係もあり、ポンと市島宗家は改築費用を捻出できなかった可能性があります。