阿賀野市ブログ応援隊

個人・サークル・行事・歴史・頑張っている人などの阿賀野市の情報と、人生の楽しみ(?)をお伝えします。

「大地主・市島邸の物語 15」 資料展の書類3

2024年04月16日 | 大地主・市島邸の物語

次回に続きます。

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「大地主・市島邸の物語 14」資料展の書類2

2024年03月30日 | 大地主・市島邸の物語

次回に続きます

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「大地主・市島邸の物語 13」 2023年資料展の書類、投稿開始

2024年03月20日 | 大地主・市島邸の物語

いよいよ去年、水原公民館の資料展で発表した書類の投稿です。資料展発表後に入手した資料で文章を補正・追記しています。先に投稿した記事と多少相違している部分があるかもしれません。これは「絶対に正解」という資料がないので、いくつかの情報がある・・と考えてください。添付の画像は可能な限り、印刷した用紙をスキャナーするのでなく、画像を直接投稿するよう努力します。150ページくらいになると思います。最後までお付き合い願います。

次回に続きます。

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「大地主・市島邸の物語 12」 水原町の瓢湖造成について

2024年03月05日 | 大地主・市島邸の物語

何故、市島家は水原に来た! 瓢湖造成に関わった?

 慶長3年(1598年)、溝口秀勝(ひでかつ)が新発田藩主として新発田に来た頃、藩内には信濃川・阿賀野川・中ノ口川・加治川などの大きな川があり、それが沼や潟(福島潟・紫雲寺潟・鳥屋野潟など)をつくり、低湿地帯が多く雨が降ればたちまち氾濫して一面泥の海になる状態。領地の大部分が、茫獏たる芦萩の生え茂った沼沢の湿地との記録もある。また長い戦乱(新発田重家と上杉景勝との戦い)の後で田畑は荒れ、6万石といってもそれほど収量はなかった。歴代の藩主は阿賀野川・加治川の改修、島見前潟の干拓など治水と新田の開発に努めた

 この耕地改善の地に、水原が含まれる。溝口秀勝の部下には速水左近の如き治水干拓に有能な家臣があり、逐次良圃美田の増加を見るに至った。水原の地も溝口秀勝の支配地になり、家臣・永井(長井?)源助が水原城代になった。前城主・水原常陸介親憲(52歳)は上杉景勝に従い、溝口秀勝が新発田藩主になる年の1598年1月に水原を去り、会津に渡って水原城に城主はいなかった。(下)水原代官所の室内に展示している水原常陸介親憲の姿図。水原城主・水原満家が月岡温泉と新発田市五十公野の中間にある法正橋で上杉軍として戦い、戦死。城に跡継ぎがいなかったので、上杉景勝(上杉謙信の相続人)が部下の大関親憲(40歳)を城主として命令。約12年間、水原町で城主となった。「参考」上杉景勝は会津城(鶴ヶ城)120万石になった。水原常陸介親憲は福島市・福島城の城主、5,500石になった。

  親憲は川中島の戦いで逸話が残っています。

 

 新発田に溝口秀勝が来てから27年後の1625年、水原地区が大干ばつに遭う。田に入れる用水が無い状態になり、水稲の米が収穫できない。そこで翌年、新発田藩2代目・溝口宣直が外城八幡宮の道路向かいの荒地(湿地)に縄引きして、内側の土や泥を掘り上げて水田の用水溜池を築いた(下図を参照)。約12年の歳月を要し12町9反余(36,270坪)の外城大堤(現在の瓢湖)を1639年に完成させた。 その45年後の1684年、水原城が廃城に。1352年から332年間で幕。

瓢湖を造成したのは、徳川時代の新発田藩 ! 約12年間、瓢湖の造成工事。この時、戦闘要員でなく事務方・用具方など城の内部作業を担当していたと思われる市島の先祖は、何度か新発田から工事現場の瓢湖に来ていると考えられる。当然、工事担当者や地元の農家との交渉もあっただろう。顔見知りや親しい関係を築いた者もいたと考えられる。瓢湖完成から48年後に下記の水原大火が発生(水原城廃城から4年後)。火災から数年後に市島は新発田市五十公野から転居している。当時の水原地区は新発田地区より農地が優良だった。そのため、幕府は新発田藩から水原の土地を寄付させ幕府領にしている。土地感や知り合いがいれば転居先の候補になったと考えられる。

元禄元年(1688年)3月、水原元禄の大火。水原の街並み、残らず焼失。残ったのは長楽寺、庄屋・嘉右衛門斗りの由

 元禄3年(1690年)この頃、水原東組・西組が上地「新発田藩の土地を幕府に寄付させる」となり幕府直轄となる。但し中組は依然として新発田領。境は入り組んでいた。

 元禄8年(1695年)質流れによる田畑の所有権を認めた。農地の売買は認めていないが、質流れで田を入手できた。

(下)1695年9月の水原家並図。下の図には載っていないが、この図面の右側に新発田市五十公野から転居してきた市島の家が記載されている(職業は田作り。31歳) 後日、市島家が載っている部分もブログ投稿します。 青い矢印先が、荒地・湿地から造成した瓢湖。溜池なので、干ばつ時の用水確保に役立った。茶色い矢印先は道路。

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「大地主・市島邸の物語 11」 浄念寺との関係

2024年02月26日 | 大地主・市島邸の物語

市島宗家市島春城は、新発田市五十公野の浄念寺にある

 浄念寺→ 文明5年(1473年開基・大和国「奈良県」広瀬郡細川氏祐慶、越前国「福井県」足羽郡広瀬村に一字を創建して、浄念寺と号す。その後、慶長3年(1598年)5月 第5世住職祐白の代、現今の地(新発田市)に移りて堂宇を建立す。この堂は明治32年(1899)2月の火災に焼失焼失から87年後の、昭和62年(1987年)新しい寺を新築した。

 この浄念寺は、藩主・溝口氏の転居と共に移動し、福井県→石川県→新発田市と移動してきたようです。よほど寺と溝口氏の交流・信頼があったと考えます。この時代、藩主が移動すると寺や住職も移動したようです。移動前の寺・墓地などは誰が管理したのでしょうか。新しい住職が転任して寺を管理したのでしょうか。

市島宗家の菩提寺は、新発田市五十公野の浄念寺。浄土宗大谷派。(下図参照)

市島徳次郎(3代目)の7子・「ふみ」は、新発田市五十公野・浄念寺の住職、専順に嫁す。市島宗家は、この時、浄念寺と親戚になりました。

 浄念寺の位置図

 ← 浄念寺

(上)昭和62年(1987年)8月1日、浄念寺が再建された。 寺が焼失した前後、日清戦争・日露戦争・福島潟を高額で購入など様々な理由で、金持ちの市島家は寺の再建費支出まで余裕がなかった・・かもしれません。

 「上記」詳しく書くと、 明治27年(1894年)8月~明治28年4月まで日清戦争 → 明治30年(1897年)に市島徳次郎(湖月)は貴族院議員を退任。市島邸内に冠婚葬祭などの公式行事の本屋敷として湖月閣を造営完成 → 明治32年(1899年)2月に浄念寺が火災で焼失 → 同年3月、耕地整理法施行。市島宗家、株式投資に対する資金転換のため赤字経営 → 明治37年(1904年)日露戦争が始まる → 明治40年(1907年)日露戦争後の恐慌が起る。水原郷(阿賀野市)が凶作、減収は平均25%以上 → 明治44年(1911年)市島徳次郎の・佐藤伊左衛門(水原町下条町の佐藤家に養子に行った)が死亡し、子が相続。その負債整理のために佐藤家が所有していた福島潟を兄・市島徳次郎が多額の金額で購入 → 寺の改築は他の檀家との関係もあり、ポンと市島宗家は改築費用を捻出できなかった可能性があります。  

 

 

 

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「大地主・市島邸の物語 10」 新発田藩の領地説明図1833

2024年02月16日 | 大地主・市島邸の物語

新発田藩の領地説明図(天保4年・1833年) 着色しているのが新発田藩の土地

最初の新発田藩の時は、図右下の赤い矢印先「赤色斜線部分」のおおよそ阿賀野市地区も新発田藩領。その後、幕府領になり、水原代官所が設置・管理した。新発田藩は、新潟市中央区沼垂・鳥屋野潟、旧亀田町、旧横越村、旧新津市、旧小須戸町、旧加茂市、旧中之口村、少し離れて三条市と旧与板町の中間部分など広大な土地が領地でした。新発田城は領地の右端に置かれました。図面の色の違いは、管理地区の違いです。それにしても新発田藩は、広大な土地を支配していました。溝口家が豊臣秀吉に信頼されていたからでしょう。そして、徳川の時代になり、外様大名になっても同じ土地を支配。徳川家からも信頼されていたと考えます。  藩主・溝口家は最初に新発田市五十公野に住居。城が完成してから新発田市の街中に転居。市島家も最初に五十公野に住居。藩主・溝口家と近い関係だったから五十公野に住居したと考えられます。市島家は侍の身分だったけれど、戦闘要員でなく事務方のような仕事をしていたのだろうと推測します。

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「大地主・市島邸の物語 9」 新発田城主・溝口と市島 2

2024年02月02日 | 大地主・市島邸の物語

市島家の話をするには、どうしても新発田藩主・溝口家の話をしなければいけません。

 石川県から移住してきた溝口家は、最初は新発田市五十公野城に住みました。五十公野城の裏は山で、防御に良いこと。そして戦いで負けた新発田城は、そのまま使用できなかったこと。 溝口秀勝は入封すると、領内にある中世の遺城のうち、重家の居城であった新発田城跡を築城の地として選んだ。地形・水運・防御そして他の地域より城下町として発達していたから。ただ、当時の城郭は狭小で防備が十分でなく、城下町も未整備な状態だった。 最初に住んだ五十公野城と新発田城の距離は約7㎞。溝口秀勝は城が完成すると新発田城に転居。しかし、市島家は五十公野に住んだまま。五十公野から新発田城に通ったようです。市島家の墓は図面右下にある五十公野集落内にある浄念寺に現在もあります。分家の角市、市島春城の墓も浄念寺にあります。

 新発田城を建築する普請には「何れの村々も人別に罷り出、皆々打寄り一普請仕るべく候」と領民が総動員された。建物は慶長8年(1603年)には西川門(西ノ門)が造られている。秀勝の時代を城の土木工事の時代とすれば、2代・宣勝(のぶかつ)の時代(1610年に初代が亡くなり、藩主になる)は建物の建築が進展した時代と言える。二ノ丸御殿が成就し、また大手門の普請が開始された。築城の進展と並行して、城下町の建設も進んだ。市街は入封以前は、上町・中町の地域であったが、その後下町、新町、寺町などの建設が進んだ。

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「大地主・市島邸の物語 8」 新発田城主・溝口と市島家 1

2024年01月27日 | 大地主・市島邸の物語

石川県から新発田市に移住してきた城主・溝口秀勝と市島家 1

慶長3年(1598年)石川県加賀市の大聖寺城から新発田市に城主として移住してきた49歳の溝口秀勝(慶長15年、1610年9月28日没 61歳。移住して11年後)。 市島家は弥惣右衛門と子・治兵衛(と、その家族?)も移住してきた。

 新発田に移住した溝口家について、詳しい本があります。(下)の「シリーズ藩物 新発田藩」です。

 この本は(株)現代書館が2008年8月に初版を発行。著者の鈴木康さんは、昭和25年生、新潟県旧荒川町生・新発田市職員・新発田郷土研究会理事・編著書に「城下町新発田400年のあゆみ」「城下町しばた」、その他「新発田郷土史」への起稿数編(初版発行時のデータ)。関心のある方は購入してお読みください。新発田市の歴史図書館2階で閲覧できます。 この本の一部抜粋・略記・追記して新発田藩について紹介します。

 天正15年(1587年)5月 上杉景勝(30歳)、水原城を攻め落とす。 10月25日、7ヶ年の抗争の末に新発田城が落城し、新発田氏が滅亡する(新発田の乱の終結)、城主・新発田重家(39歳)が自害。

 豊臣秀吉が天下を統一(1590年)した後の慶長3年(1598年)正月、上杉景勝(41歳)は会津へ移封され「阿賀野市旧水原町の水原城主・水原常陸介親憲も会津へ同行し、福島県の福島城主(5,500石)になる」。その後、石田三成(37歳)が検地を行う為に越後を預り、4月2日に代わって越前(福井県)北ノ庄の堀秀治(21歳)が越後国主となり、春日山城(新潟県上越市)へ来た。この時、豊臣秀吉の家臣として手柄を立てた溝口秀勝(49歳)が堀氏の与力(戦に協力する)大名として6万石を与えられ新発田に来た。それは徳川家康が江戸に幕府を開く5年前のことである。 新発田への移封に際して豊臣秀吉は溝口氏に家臣は上級者から最下級者の者まで全部引き連れて新発田に移る事、さらに検地帳面に登録した百姓は一切連れて行ってはいけないと命じた。ただ、百姓の分家や2・3男は一緒に移住した可能性がある。溝口氏の連れて来た家臣は名簿を見ると、2千石から100石前後まで96人の士分の名前がある。この士分96人のなかに市島の先祖がいると思われる。その下の取次(物資を調達などを行う、いわゆる軍属のことか?)中間・小者等の卒分の名前はない。しかし大聖寺藩主時代の天正17年(1589年)、京東山大仏殿普請手伝いに際し、3分の2軍役役令で割り当てられた人数が1,400人であるので、家臣総数は2,100人となる。移封にあたって、奉公人は一人残さず召し連れていくことを秀吉から命じられているので、2千人を超す家臣が従ったと考えてよい。いずれも、今日の栄光を生み出すのに、ともに苦労した功臣であった。そして仮に妻と子を2人とすれば、総勢8千人を超える大移動であったと考えられる。 市島家の先祖も、嫌でも大聖寺から新発田に移住しなければならなかった。

投稿日時 <input id="entry-created-time" class="flatpickr-input" type="text" value="2024-01-27 18:00:00" /> 現在日時をセット
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 溝口秀勝の移封によって、その菩提寺の大麟寺も移って来た。この寺は秀勝が大聖寺時代、宗廟として草創したもので、秀勝没後は、その法号をとって「浄見寺」と改名した。今の宝光寺の祖である。また瑞雲寺、託明寺も従ってきたという。そのほかに、御用商人・大工頭・鋳物師・塗師頭等の御用職人も移住した。大変な人数の移動であった。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、溝口氏は豊臣方でなく徳川方についた。勝った方についたので、徳川幕府時代でも溝口氏は新発田藩主を継続できた。しかし、外様大名である。

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「大地主・市島邸の物語 7」 石川県大聖寺城主・溝口秀勝と市島家

2024年01月21日 | 大地主・市島邸の物語

石川県加賀市・大聖寺(だいしょうじ)城主の溝口秀勝と市島家

大聖寺城(だいしょうじじょう)は、加賀国江沼郡大聖寺(現・石川県加賀市大聖寺錦町)の標高70m程の錦城山に立地。

 本丸を中心に6つの郭が連なる連郭式城郭。東西約45m、南北約17mの本丸には高さ約4mの鉤形の土塁があった。1615年に廃城。  

 天正11年(1583年)の賊の岳の戦いで柴田勝家が敗れた後は、丹波長秀の与力として溝口秀勝が大聖寺城主として、4万4千石で置かれた。この時に(市島)弥惣右衛門も随従して加賀に入国。財力にまかせて、引き続き溝口家の御用達をつとめた。 11月14日、溝口秀勝は従五位下・伯耆守に叙任され、豊臣秀吉から偏諱を受けて秀勝と改名(それまでは元服後の金右衛門)。朝鮮派兵の際は肥前国(びぜんのくに。佐賀県と長崎県にあたる)名古屋城を守備した。

 天正13年(1585年)4月、溝口秀勝が仕えた丹波長秀が病没(一説には自害)し、その長男・長重が家督を継いで北ノ庄城主となるが、閏8月、息子の長重は豊臣秀吉により削封された。この時、豊臣秀吉は丹波の家人の有力な者を自分の家臣に取り立てたが、この際、溝口家も秀吉から改めて朱印状を受け、大名として独立した。 

 丹波氏のあと越前を領した堀秀征の与力として、引き続き溝口秀勝が大聖寺城主として配属された。 その後、天正15年(1587年)九州島津氏征伐、天正18年(1590年)小田原北条氏征伐に参陣、文禄・慶長の二度にわたる朝鮮出兵で武功を重ね、内政面では天正16年(1588年)近世史成立の重要指標である刀狩りを行って、その領内の兵農分離を推し進めた。

 慶長3年(1598年)、上杉景勝の会津移封の後に越後国主として入国した堀秀治は与力大名となり、溝口秀勝も随伴、越後蒲原に6万石を与えられ、新発田市に来た。この時、(市島)弥惣右衛門も一家で随伴転居して来た。住所は新発田市五十公野に置いた。

 

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「大地主・市島邸の物語 6」 福井県の高浜城主・溝口秀勝と市島家

2024年01月18日 | 大地主・市島邸の物語

市島家が高浜に転居した時の城主・溝口秀勝の話

 高浜城は若狭では珍しい平山城。海に突き出した半島に築かれた。

高浜城(福井県高浜町)は1634年に廃城。 

 兵庫県丹波市市島町から福井県高浜町に移住した市島家。  天正6年(1579年)に若狭国大飯郡高浜城の城主・溝口秀勝(32歳。ウイキペディアでは1581年)は、天文17年(1548年)に、溝口勝政の長男として尾張国中島郡西溝口村(現・愛知県稲沢市西溝口町)に生まれた。代々この地の地侍層。幼少期より丹波長秀に仕えたが、天正9年(1581年※1579年の説有り)に織田信長から才能を見出され、直臣として若狭国の高浜城、5,000石を与えられた。市島家の弥惣右衛門はこの年(?)溝口秀勝の家士(かし。家に仕える侍。家臣。もしかして奉公人?)になった。 弥惣右衛門は兵庫県市島町に住んでいた時、鹿集(かたかり)城の吉見氏に豪族として属し、財力を持ち御用達の仕事をしていた。高浜町は市島町の隣国であり、商い等で双方の交流があったはず。財力があれば、高浜町にも知り合いが多くいたはず。そのような関係から、高浜城に転居してきた溝口秀勝には使い勝手の良い人間で、取次側用人となり、帯刀になり、侍の位になったと考えられる。

 天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が謀反を起こした本能寺の変で織田信長が死去した後は、丹波長秀が豊臣秀吉方についたことにより、溝口秀勝もその下で柴田勝家攻めに功をたて、天正11年(1583年)賊ヶ岳の戦いの後、越前国北ノ庄城に入封した丹波長秀の与力として、加賀国江沼郡の大聖寺城(現・石川県加賀市大聖寺町)4万4千石を与えられた。溝口秀勝34歳。 この戦いにも弥惣右衛門は同行、溝口秀勝の信用を得る。続いて越中の佐々成政攻めの際は、前田利家の下で奮戦し、また秀吉の親征に従い勝利した。

 

 

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「大地主・市島邸の物語 5」 目次(工事中)

2024年01月17日 | 大地主・市島邸の物語

「大地主・市島邸の物語」のブログ、 ブログの目次(工事中)

「大地主・市島邸の物語 1」 初めに

「大地主・市島邸の物語 2」 水原町にいた時代の住宅地図(市島家、角市、天朝山公園など)

「大地主・市島邸の物語 3」 新発田市天王(市島邸)に転居した頃の住宅配置図

「大地主・市島邸の物語 4」 市島家の移住順の図(兵庫県丹波市・福井県高浜町・石川県加賀市・新潟県新発田市)と

               市島家発祥の地の説明

「大地主・市島邸の物語 5」 目次(工事中)

「大地主・市島邸の物語 6」 福井県の高浜城主・溝口秀勝と市島家

「大地主・市島邸の物語 7」 石川県大聖寺城主・溝口秀勝と市島家

「大地主・市島邸の物語 8」 新発田城主・溝口と市島家 1

「大地主・市島邸の物語 9」 新発田城主・溝口と市島家 2 新発田城と五十公野城の位置図

「大地主・市島邸の物語 10」 新発田藩の領地説明図 1833年

「大地主・市島邸の物語 11」 浄念寺との関係

「大地主・市島邸の物語 12」 水原町の瓢湖造成について

「大地主・市島邸の物語 13」 2023年資料展の書類、投稿開始

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「大地主・市島邸の物語 4」 市島家の移住順の図と、発祥の地を説明

2024年01月15日 | 大地主・市島邸の物語

市島家の移住順の図 ①~④ 兵庫県丹波市→福井県高浜町→石川県加賀市→新潟県新発田市

 

① 市島家、発祥の地(兵庫県市島町)の説明

「改定 家廟之紙碑」昭和46年発行 財団法人継志会が発行。 この本は市島宗家の分家・市島成一(明治32年生、1899年生・京都帝国大学法学部卒・東京高裁検察庁検事長・財団法人継志会理事長)が、昭和16年・1941年、41歳の時に自費出版した冊子を改定し、昭和46年・1971年、71歳の時に再度出版(非売品)。昭和16年当時は、市島宗家の分家・角市の市島春城(早稲田大学初代図書館長。80歳)が市島成一から相談を受けて昔話をし、冊子の序文を書いています。成一は昭和14年に岡山県の裁判所に勤務。兵庫県の市島町にも出向いて調査しているので、前記の本の記載が100%正確とは言えないけれど、かなりの確率で正確に近い・・かなと考えます。 以下、本の内容を略記して紹介します。

 市島家、発祥の地丹波国氷上郡吉見町字上田小字市島(現・丹波市市島町。 国鉄福知線市島駅の所在地)である。丹波は昔から未開地の代表とされているくらい辺鄙な土地であるが、氷上郡一帯は都が大和にさだめられ、皇化が山陰に霑うに及んで次第に重要な所となり又、出雲文化東漸の要衛に当たっていたので、比較的早くから開け人煙も繁く、上古、彦座主父子の下向をはじめ皇族の往来も多く、崇神帝の即位10年(120年)には四道将軍として丹波道主命を派遣されて以来次第に開花に向かった。 この地は水清く地味も豊かで、五穀豊穣のため中古以降、後一条・後陽成・光格御歴代の大嘗会には、主基田が設けられ、或いは皇室の直轄、貴族の所領となり、また仏教の興隆と共に、この地方の名山秀麗が多くの傑僧の修行の地ともなった。その後、群雄割拠の時代に入るや興亡盛衰幾変転、暫くは帰趨を知らぬ状態が続いた。

 元来この地は承久3年(1221年)以来、源範頼の次男・吉見資重が氷上郡鹿集城に拠り、その子孫が長くこの辺りを支配していたが、天正10年(1582年)時の城主・吉見式部則重は明智光秀と戦い、利あらず陣歿し遂に落城、城兵ことごとく討死したと伝えられる「※天正6年・1578年という説有り」。市島家の遠祖・弥惣右衛門は氷上郡上田の豪族として吉見氏に属し、その支邑市島に住んでいた。当時すでに相当な財力を擁し、吉見氏の御用達・所謂仕立屋を勤めていたものの如く、市島春城は、その随筆中に吉見氏が亡んだ年にこの地を離れたと記しているが、家史葛陵仲氏伝や氷上郡吉見村史などから恐らく、「この地方の度重なる兵火動乱に耐えかねて、弥惣右衛門は吉見氏の滅亡前の永禄の末(1565~1568年頃※1578年?)丹波に近い隣国・若狭に移り、たまたま高浜城主・辺見駿河守昌経の嗣となって入国(1581年。※1579年という説有り)した溝口秀勝候の家士となり、やがて取次側用人となる機会を得たもの」と推測される。 氷上郡を離れるにあたり、郷土を忘れかねて、地名市島をもって姓としたと考えられる。 ※西暦はウイキペディアや各ホームページで西暦年が違う

 もしかしたら旧姓は「吉見」だったかもしれない。溝口家へ投ずる場合に旧姓を避けた可能性がある。

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「大地主・市島邸の物語 3」 新発田市に転居した頃の住宅配置図

2024年01月12日 | 大地主・市島邸の物語

市島家が新発田市天王に転居した頃の、市島邸の建物配置図。

(下)現在の市島邸に転居した時は、現在の市島邸の南側半分が宅地で、地目は宅地。北側半分は農地で、その後に宅地に地目変更した。 新潟地方法務局新発田支局の和紙図(明治23年6月作成)で確認

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「大地主・市島邸の物語 2」 水原町にいた時代の住宅地図

2024年01月09日 | 大地主・市島邸の物語

大地主・市島家(宗家)が水原町にいた時代の住宅地図

(下)市島家が新発田市から最初に転居した時の住宅位置。 戊辰戦争前に住んでいた住宅位置。別宅として新築・転居した天朝山公園。市島春城の生家(角市)の住宅位置。前原一誠が角市から借家していた住宅位置。市島宗家・徳次郎(8代)の妻の実家(大地主・佐藤家、和泉屋)の住宅位置。水原町編年史をまとめた元・水原町町長、佐藤貞太郎の家の位置。これらの建物位置を記憶していた方が、これから投稿する「水原公民館で発表した片桐さんの資料」を理解するのに役立ちます。

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「大地主・市島邸の物語 1」初めに

2024年01月08日 | 大地主・市島邸の物語

「大地主・市島家が水原にいた時代 ~ 天王・市島邸」の研究発表

2023年9月27日(水)~10月1日(日) 阿賀野市山口町1 水原公民館で研究発表が行われた。

 (下)上記資料展の展示ポスター

調査・発表は、 阿賀野市在住の片桐正英さん。 午前9時~午後5時「最終日は午後2時」 入場無料。

市島宗家は、江戸末期に新潟県一の大地主。 戸主・市島徳次郎(8代)は、第四銀行の初代頭取。水原町に初代頭取がいました。

明治初期に市島家は新発田市(旧豊浦町)天王に転居。最盛期、福島潟の所有権を持ちました。

会場にはA4版で作成した文・図・写真をA3版に拡大カラーコピーしたもの、133ページを展示発表。

新潟市北区・水の駅「ビュー福島潟」の展示図面(水原13人衆の福島潟干拓部分の説明図)や、新発田市の市島邸で展示されている図面や像など多数の写真を添付して説明。会期中、73名が来場。2日、3日と同じ人が連日、数人が閲覧されました。

上の写真は2023年9月26日撮影。27日の展示前の写真です。市島家は浦賀に黒船が来航した時、抗戦する為の大砲作りの経費を水原代官所と江戸幕府に依頼されて出費しています。又、江戸城(現在の皇居)の増築資金も出費しています。市島家は旧水原町にいた普通の大地主でなく、江戸幕府にも協力依頼されていた特別な地主でした。この市島家は水原町生まれの人でなく、新発田市(新発田藩)から転居してきた人。でも、戊辰戦争後に新発田市(旧豊浦町天王)に転居したためか、旧水原町の人は「市島邸」に関心がありません。それは何故か? 

この疑問から片桐さんの調査が始まりました。片桐さんの調査の大部分は水原町役場が発行した「水原町編年史」が主で、そこに他の資料で調査したことが添付されています。ただ、新発田市に転居した後の資料が少なく、「水原町にいた時代」として発表。資料展発表後、運良く資料展来訪者の協力で、新発田市に転居後の「市島徳厚伝」という最後の地主を調査した非売品の本と、市島邸を財団法人継志会が管理運営していた時代に書かれた「改定 家廟の紙碑」という非売品の本を入手・読むことが出来ました。2冊を読むことで、新発田市に移住後の市島家の姿を詳しく知ることが出来ました。ただ、前記の2冊、市島家のことを書いているのに、内容が大きく違います。どちらの記述を採用すべきか? そこに時代背景を考慮。又、同じ時代を生きた新発田市出身の「大倉喜八郎」の経歴も記載。市島家のことが詳しく理解できるようになったのですが、その分、初めて読む人には難しく理解しにくくなりました。そこで水原公民館で発表した資料に最低限の事実を追加して当ブログで発表することにしました。     次回に続きます。

 

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