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「大地主・市島邸の物語 9」 新発田城主・溝口と市島 2

2024年02月02日 | 大地主・市島邸の物語

市島家の話をするには、どうしても新発田藩主・溝口家の話をしなければいけません。

 石川県から移住してきた溝口家は、最初は新発田市五十公野城に住みました。五十公野城の裏は山で、防御に良いこと。そして戦いで負けた新発田城は、そのまま使用できなかったこと。 溝口秀勝は入封すると、領内にある中世の遺城のうち、重家の居城であった新発田城跡を築城の地として選んだ。地形・水運・防御そして他の地域より城下町として発達していたから。ただ、当時の城郭は狭小で防備が十分でなく、城下町も未整備な状態だった。 最初に住んだ五十公野城と新発田城の距離は約7㎞。溝口秀勝は城が完成すると新発田城に転居。しかし、市島家は五十公野に住んだまま。五十公野から新発田城に通ったようです。市島家の墓は図面右下にある五十公野集落内にある浄念寺に現在もあります。分家の角市、市島春城の墓も浄念寺にあります。

 新発田城を建築する普請には「何れの村々も人別に罷り出、皆々打寄り一普請仕るべく候」と領民が総動員された。建物は慶長8年(1603年)には西川門(西ノ門)が造られている。秀勝の時代を城の土木工事の時代とすれば、2代・宣勝(のぶかつ)の時代(1610年に初代が亡くなり、藩主になる)は建物の建築が進展した時代と言える。二ノ丸御殿が成就し、また大手門の普請が開始された。築城の進展と並行して、城下町の建設も進んだ。市街は入封以前は、上町・中町の地域であったが、その後下町、新町、寺町などの建設が進んだ。

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