医師日記

「美」にまつわる独り言です
水沼雅斉(みずぬま まさなり)

信仰の美風と遺伝子9

2006年08月25日 08時32分40秒 | Weblog
 一方アジアにはまったく異なる体系の仏教があり、そして日本には日本独自の神道もあります。

 アブラハムの信徒からすれば、この多神教あるいは絶対神が存在しない東洋の思想は、まったく認められません。

 ムスリムは、「釈尊は人間であり神ではない」といいます。確かに・・・。

 仏教は神を論ずるのではなく、いかに生きるべきかを説く、個人の解脱、つまりは人間に対する哲学であると僕は考えております。

 神道に関しては前に、イザナキとイザナミそして天照大神やスサノオ、伊勢神宮や氷川神社などについて少し触れました。

 僕は学校では教えてもらえませんでしたが、日本の歴史の始まりや神話、言及すれば戦争の話、戦後の政治だって事実を学校で教えてもいいのではないのかと思いますが・・・。

 始まりがあやふやでは、個人の史観も育ちません。

 都心にあれほど広大な敷地を持つ、明治神宮がどなたを祀られた神社なのか、知っている日本国民あるいは東京の小学生が一体どれほどの割合か・・・。

 確かに特定の「宗教」に肩入れするのは問題ですが、日本国民の「信仰」心を絶やすことのほうが問題は多いと思います。

 後述しますが、「宗教」と「信仰」は似て非なるものだと僕は思っております。

 神道には微妙な問題をはらむことは自覚しておりますが、解釈は別にして歴史の事実は事実として感情的にならずに、また隠し立てしたりすることもなく、「その時代にはそのように考えられていたのだ」とそのまま伝えればいいんじゃないかなあ・・・

 それに関してどのように受け止めるかは個人、あるいは両親に委ねればよいのではないでしょうか?

 少なくても記紀(古事記と日本書紀)を学校で子供たちに紹介することくらいはしてもいい、しなくてはならないのではないでしょうか?

 神道や記紀の記載にまで、わが国の戦争における国家全体主義に対しての、国内マスメディアと教育者の、また隣国の特殊なアレルギーを目くじらを立てて持ち込む必要もないと個人的には思います。

 南米チチカカ湖で、トトラという葦を編んだ、わずか厚さ3cmの浮島の上で湖上生活を営む、人口たったの2,500人しかいないウル族の小学校でも、まずは民族の成り立ちに関して大人が子供たちに誇りを持って神話から教えるそうです。


 そして日本には信仰心があります。

 以前にも書いたように山は征服の対象ではなく、拝んであがめる文化です。

 自然や動物は人間のためにあるのではなく、それらを慈しんで、共生することを説く信仰心です。

 仏教や神道などの多神教は、万物に精霊が宿ることを信仰する「アニミズム」(精霊信仰)や呪師(じゅし、ずし、のろんじ)を介して霊と交信する「シャーマニズム」などの原始宗教にカテゴライズされ、一神教文化から見れば遅れていて野蛮だと認識されることもありますが、僕は決してそうは思いません。

 インディアンもインカ人も、イヌイットのエスキモーやケルト人に北欧人だって・・・。

 みんな平和主義者でおとなしい民族じゃないのかな・・・。

 契約する絶対神はいません・・・確かに系統立てられてはいないし、単に自然現象に対して恐れていただけで非科学的かもしれませんが、アニミズムはこの地球が単なる人間と神だけの契約ではなく、霊感をもって人間が自分以外の生命や自然に対して謙虚につつましやかに生きることを教えてくれます。

 ちなみに漫画の「アニメ」はanimation、絵に生気を与えるということですから、この霊をあらわすanimismとつながりのある言葉だと思います。

 そして多神教の僕たち日本人は不謹慎な分(良し悪しだと思いますが)、固執もしないので、科学に対してもそれはそれとしてわりと抵抗心なく受け入れることができます。

 違う宗教に対しても比較的寛容に共存することが可能です。

 ナショナリズムは時にセンチで暴走しやすい傾向もありますが、歴史と伝統および信仰心は大切に子供たちに継承することもその国のオトナの責任ではないでしょうか?

 振り返ってみて、世界的な戦争や植民地主義にしたって、コーカソイド社会が作り出したものが多く、あるいはキリスト教+ユダヤ教社会対イスラム教社会といった攻撃的な一神教宗教における対立軸が昨今の社会不安を作り出していると感じます。

 これからはそういう対立軸に対して、仏教や東洋の思想や信仰が自ずとクローズアップされてくるのではないでしょうか?


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