【社説】:[復帰50年・知事たちの県政運営]「自治・自立」いまだ道半ば
『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【社説】:[復帰50年・知事たちの県政運営]「自治・自立」いまだ道半ば
復帰後、沖縄に8人の知事が誕生した。初代の屋良朝苗から平良幸市、西銘順治、大田昌秀、稲嶺恵一、仲井真弘多、翁長雄志、玉城デニーの各氏へ続く。
保守対革新、自公対「オール沖縄」。戦いの構図こそ変わったが、どの選挙でも「基地」「経済」が大きな争点となった。沖縄県知事の仕事が他府県と異なるのは、県政に占める基地問題の比重があまりにも高いこと、沖縄振興を進める上で国との関係が絶えず問われ続けてきたことだ。
米軍統治下の沖縄は、知事に当たる行政主席を選挙で選べず、高等弁務官が任命するなど選任方法は時々で変わった。「沖縄の自治は神話である」。キャラウェー高等弁務官の発言が象徴している。
異民族支配に反発し、自治権拡大を求めた沖縄住民が直接選挙を勝ち取ったのは、1968年の主席公選。保守と革新が真っ向からぶつかる対立の構図は、この時に出来上がったものだ。運動を主導し、選挙で勝ち抜いた屋良氏はB52墜落やゼネスト回避など、基地を巡るさまざまな問題に直面した。
眉間の縦じわは、屋良氏が置かれた政治的立場の難しさを物語った。那覇で開かれた復帰式典で「言い知れぬ感激と、ひとしおの感慨」を表明しながらも「復帰の内容を見ますと、必ずしも私どもの切なる願望が入れられたとは言えない」と述べた。
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2期続いた革新県政にピリオドを打ったのが、西銘氏だ。当選した1978年は県政の大きな転換点となった。
革新県政が拒否してきた自衛官募集業務の開始や、米軍の県道104号越え実弾砲撃演習を容認する姿勢を鮮明にしたのだ。
一方で、沖縄の基地負担軽減を直訴する訪米も始めた。県知事として初めて、米軍普天間飛行場の返還を要請するなど、硬軟織り交ぜた対応を示した。
西銘氏の4選を阻止し、当選したのが第4代の大田氏だ。鉄血勤皇隊として沖縄戦を経験し、学者としても沖縄戦にこだわり続けた。戦後50年の節目には糸満市摩文仁に平和の礎を建設した。
自治も自立も米軍基地の撤去が必要との信念から、2015年までに全ての基地を返還する「基地返還アクションプログラム」を打ち出した。政府も、橋本龍太郎首相が非公式に会談を重ね耳を傾けた。
大田県政は、沖縄の将来像を描いた「国際都市形成構想」を1996年に決定。一国二制度的な規制緩和を盛り込み、基地返還と振興を連動させた長期ビジョンを打ち出した。
県内政治の争点が大きく変わったのは、普天間飛行場の返還合意以降だ。大田氏が県内移設を拒否した途端、国は手のひらを返して県とのパイプを遮断した。基地を容認するかどうかを国がリトマス試験紙にする手法は、沖縄県政が常に直面する壁だ。
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保守政治家でありながら辺野古新基地建設に反対し、政治勢力「オール沖縄」を生んだのは第7代の翁長氏。
「自国民に人権も民主主義も保障できない国が、どうして世界の国々と価値観を共有できるのか」。沖縄の自己決定権がないがしろにされていると問い、保革を超えた支持を集めた。
1879年の琉球処分から、地方自治を踏みにじられる歴史は変わらない。沖縄の自立こそ日本の自立を意味する-。そう訴え闘い続け、在任中の2018年に死去した。
歴代知事たちの足跡を振り返って気付くのは、政治的立場や手法は違っても「沖縄の自治・自立」という共通の課題に向き合ってきたことだ。復帰50年を迎える今も、その実現は道半ばである。
(写図説明)主席候補討論会前に談笑する西銘順治氏(右)と屋良朝苗氏=1968年11月
元稿:沖縄タイムス社 朝刊 主要ニュース 社説・解説・コラム 【社説】 2022年05月14日 07:44:00 これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。
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