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●桜井昌司さんの〝獄中ノート〟が「…あったから、無罪をとれた。弁護士の皆さんが無罪をとれる、頑張ろうと発奮してくれたきっかけでもあった」

2023年10月02日 00時00分20秒 | Weblog

[↑ 映画『オレの記念日』フライヤー(https://oreno-kinenbi.com/wp-content/uploads/2022/08/oreno-kinenbi_flyer.pdf)]


(2023年09月03日[日])
布川冤罪事件で《潔白を勝ち取った男…冤罪被害者を支援し、濡れ衣を着せた司法の闇を世に引きずり出そうとしてい》た桜井昌司さん。逮捕から仮釈放されるまでの身体拘束は約二十九年におよび無罪となるまでに約四十四年を要した》。先日8月23日に、お亡くなりになった。とても残念で仕方がない。もっともっと冤罪被害者の支援を続けていただきたかった。冤罪被害者やそのご家族の支援、桜井さんの重要な活動でした。

   『●桜井昌司さん《冤罪被害の実態を世の中に広く訴える活動…冤罪をなくす
       ための活動とその成果は東京弁護士会人権賞の受賞に相応しいもの》
   『●金聖雄監督《冤罪被害という絶望的なテーマの中で、私が映画を作り
     ながら希望を見出していくと言う不思議な感覚を、ぜひ映画を観る…》
   『●原一男さん《桜井昌司さんは違う。「冤罪事件が私を生まれ変わらせて
     くれた、ありがたい、と思っている」と価値観を逆転させる奇跡の言葉。》

 今西憲之さんの〝弔辞〟、dot.の記事【”獄中ノート”で再審無罪に 布川事件・桜井昌司さん死去「法治国家日本を蘇らせる闘い」/今西憲之】(https://dot.asahi.com/articles/-/199886)。《茨城県利根町布川で1967年に男性が殺害された「布川事件」で、杉山卓司さん(故人)[※ブログ主注 「杉山卓男さん」の誤植?] とともに強盗殺人罪に問われ、無期懲役確定後に2011年に再審無罪を勝ち取った桜井昌司さんが、8月23日、76歳で亡くなった。筆者は週刊朝日の記者時代から、何度も桜井さんに話を聞いてきただけに、思い出はつきない》。

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https://dot.asahi.com/articles/-/199886

”獄中ノート”で再審無罪に 布川事件・桜井昌司さん死去「法治国家日本を蘇らせる闘い」
2023/08/29/ 13:10
今西憲之

     (桜井昌司さん=2022年9月/撮影・加藤夏子)

 茨城県利根町布川で1967年に男性が殺害された「布川事件」で、杉山卓司さん(故人)とともに強盗殺人罪に問われ、無期懲役確定後に2011年に再審無罪を勝ち取った桜井昌司さんが、8月23日、76歳で亡くなった。筆者は週刊朝日の記者時代から、何度も桜井さんに話を聞いてきただけに、思い出はつきない。

 

(【写真】ラジオ番組に出演した時の桜井昌司さん)

 桜井さんは、茨城県警に逮捕された1967年から約3年間、ほぼ毎日、ノートに日記を書き続けていた。留置場での日常、家族への思い、そして警察の嘘だらけの取り調べや不当なでっちあげの真相など、詳細をつづった“獄中ノート”は全17冊に及んだ。

 私がそのノートに触れたのは、2011年5月のことだった。

 桜井さんから、

「あの日記があったから、無罪をとれた。弁護士の皆さんが無罪をとれる、頑張ろうと発奮してくれたきっかけでもあった」

 と聞いた。そこで、桜井さんの冤罪(えんざい)を晴らすために闘っていた弁護団の一人、塚越豊弁護士のところにうかがい、17冊の獄中ノートを見せてもらい、コピーもいただいた。ノートの表紙には「心影」というタイトルが書かれていた。

 ノートを読み始めると、震える思いだった。茨城県警のストーリーありきの捜査、何を言ってもまったくとりあわず、絶望の淵に突き落として自白調書を作成していく様子や、奈落の底でもがき苦しみ、悔しさでいっぱいの桜井さんの思いが綴られていた。

 塚越弁護士は私にこう言った。

「一度確定した判決をひっくり返すのは非常に困難。再審が決定し、無罪になった重要なポイントの一つが桜井さんの獄中ノートを新証拠として提出できたこと。我々はノートを“宝物”と呼んでいます」

 獄中ノートの中身を紹介したいと思う。

 当初は、別件の窃盗容疑で逮捕された桜井さんだが、その後、身に覚えがない強盗殺人事件のことを厳しく追及されるようになる。調べを担当したのがノートに頻繁に登場するA刑事。当時、桜井さんはまだ20歳と若い盛り。その心理をA刑事は巧みに利用していく。

〈飯を喰わせてくれ。それから話すよ。(とA刑事にいうと)そしたら驚きだ。寿司を喰わしてくれたもんな〉(68年4月14日)


■余りにも汚い調べ方にあらためて驚いた

 A刑事はそんなアメを与えながらムチも用意する。

〈生理現象で頼んだら待てという。(中略)(おなかが)痛かったので更にお願いしたら、(中略)5分待てと来た。(中略)何でもねえのに頼むか!!〉(68年3月8日)

 まだ社会に出て間もない桜井さんはA刑事の手練手管により、狭い取調室の中で筋書きどおりに「自白を誘導されていった。 獄中ノートには、こんな記述もある。

〈公判で一つ聞いてみよう。“嘘発見器”の事を。Aさんは俺が嘘を言っていると出たと言ったが、もしあの時言った事が嘘と出たのなら、あの機械は“嘘作成器”〉(68年1月12日)

〈誰が(事件現場で)桜井昌司を見た!! と言ったんだよAさん!! 余りにも汚い調べ方にあらためて驚いた〉(68年5月13日)

 この獄中ノートの内容は、何度か刑務官らに読まれていたという。記述した翌日の取り調べで、ノートの内容をなぜかA刑事らが知っており、Aさんの心情を逆手にとって自白を求めてきたのだ。

 このため桜井さんは、獄中ノートの一部を「暗号化」するようになった。桜井さんは取材にこう苦笑しながら語っていた。

「警察、検察、刑務官とみんな一緒になって自分を犯人に仕立てようとしていることがわかったから、暗号で本心を書き残そうとした。暗号は三つのパターンがありました。でも、獄中ノートは自分で再審などにはそう大事だと思ってなかった。偶然に見つかったもので、暗号を自分でも忘れていました。それを、塚越弁護士の奥さんが解読してくださったんです」


■「うその自白」したことを悔やむ

 ノートには、「うその自白」をした桜井さんが、次第にそれを悔やみ始める記述もある。

〈私は罪を犯したから認めたのでなく、(中略)認めなくては助からぬと言われたからに他ならないのだ。(中略)権力が作った事実の為にひざまずくしかないと判断したからだ〉(68年1月10日)

〈強殺(強盗殺人)の罪をかぶれば皆んなの頭の中から私自身が犯した窃盗の事は消え去る。(中略)偽りのないあの頃の俺の心だった〉(68年4月18日)

〈嘘の供述というものを話し出した時、まさか本物の犯人にされるとは〉(68年1月19日)

 桜井さんが窃盗事件を起こしていたのは事実だった。それをネタにA刑事は、桜井さんを強盗殺人事件の犯人にしたてあげようと陥れた。桜井さんはこう言っていた。

「あの頃は若かったから、窃盗なんてちんけなことで捕まるのが格好悪いと思っていた。殺人を狭い取り調べの部屋で認めても、後で本当のことがわかりおとがめなし、と勝手に信じて認めた。A刑事は罪を認めれば死刑にならない、認めないなら死刑と言い始めた。だから、供述調書にも認めるサインをした。もう権力の言いなりになって死刑を逃れるしかないという心境になりました」

 桜井さんのノートからは、「死刑」だとA刑事から追い詰められ、絶望感に打ちひしがれていく様子がわかる。

〈やっぱり恐いんだな。死刑になる事が〉(68年1月4日)

〈警察が見事に犯人を作り出した。俺が罪を犯したのは警察の調べ机の上でだ!!(中略)よくこうも何でも悪い方へばっかりくっつけたもんだ。本当に感心する〉(68年8月14日)


■桜井さんと杉山さんに無期懲役の判決

 裁判所ではきちんと無実が判明すると信じていた桜井さんだが、法廷では、

「桜井さんや杉山さんを見た」

 というありえない目撃証言が飛び出した。寿司を出してくれたA刑事は法廷で、

「捜査や供述の過程で利益誘導や脅迫行為は一切ない」

 という証言を繰り返した。

 70年10月6日、一審の水戸地裁は桜井さんと杉山さんに無期懲役の判決を言い渡した。絶望したのか、その日の獄中ノートにはこうある。

〈もう日記を書くのは止めた……。今日で終りだ……〉

 控訴も上告も棄却され、1978年にいったん無期懲役刑が確定する。だが、それでも桜井さんはへこたれなかった。再審請求が認められ、2011年に無罪を勝ち取ったのだ。

 無罪判決確定後、桜井さんは全国で冤罪に苦しむ仲間の支援活動を続けた。得意のノドを披露してCDも出し、カンパを集めた。2015年8月から1年半続けたラジオ番組「桜井昌司の言いたい放題!人生って何だ!!」でも、DJとして冤罪などについてしゃべりまくっていた。

 2015年8月には、筆者(今西)が司会をしていたラジオ番組に出演していただき、自慢の歌も披露してもらった。

「今西さん、こうやって歌える、大きな声で歌える、自由は本当にいい。今もA刑事や検察、裁判所を恨む、腹が立つ。けどね、刑務所に入ったおかげで人の善意を学んだ。だからたくさんの弁護士、支援者が集まってくれてその善意で無罪がとれた。今、袴田事件が同じことになっている。絶対に袴田さんは無罪だ

 桜井さんが語っていた言葉が今もよみがえる。

     (筆者が司会を務めたラジオ番組に出演した時の桜井昌司さん)


■法治国家日本を蘇らせる闘いを貫く

 桜井さんは警察の捜査の違法性を訴え、国や県に損害賠償を求める訴訟も起こした。東京高裁判決は、警察と検察の取り調べについて違法性を認定。2021年にこちらも勝訴した。この訴訟の途中、2019年に直腸がんが発見された。

 近年は闘病生活が続き、直接会う機会は減っていた。それでも今年1月、誕生日のメッセージを送ると、2022年に完成した布川事件のドキュメンタリー映画「オレの記念日」(金聖雄監督)に触れ、

〈有り難うございます。かなり回復して来ましたので、今年は完治すると思います。今年は、もう私のドキュメンタリー映画が完成しまして、また面白い1年になりますが、法治国家日本を蘇らせる闘いを貫くつもりです〉

 と意欲満々だった。「闘い」半ばの死が悔やまれてならない。

 ご冥福をお祈りいたします。

     (布川事件を扱った映画「オレの記念日」に出演した
      桜井昌司さんと金聖雄監督/撮影=加藤夏子)

(AERA dot.編集部・今西憲之
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