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●田中正造さん没後100年

2013年09月27日 00時00分01秒 | Weblog


東京新聞の記事【田中正造 没後100年  「終焉の家」栃木・佐野 史跡指定】(http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013090402000221.html)。

 明治の三大鉱毒事件の一つ、公害の原点、に立ち向かい、常に住民サイドに立った田中正造さん。足尾銅山鉱毒事件が「私欲と奸悪」が原因の人災」であったのと、東京電力原発人災も同様。

   『●『城山三郎の昭和』読了(3/3)
   『●『松下竜一未刊行著作集4/環境権の過程』読了(8/8)
   『●『創(2010年2月号)』読了(3/3)
   『●『ぢぢ放談』読了
   『●『松下竜一未刊行著作集5/平和・反原発の方向』読了(前半)
   『●『松下竜一未刊行著作集5/平和・反原発の方向』読了(後半)
   『●尊敬する人は田中正造
   『●反原発派の声に耳をふさぎ、歴史から何も学ばない愚かさ
   『●田中正造「「私欲と奸悪」が原因の人災」
   『●「韓と恨」と日本人/『週刊金曜日』(2013年1月25日、928号)、927号についてのつぶやき
   『●「原発と司法」、「大阪イジメ問題」、「小出裕章・佐高信対談本」などについての最近のつぶやき
   『●追われゆく坑夫と脇に追いやられた原発人災
   『●『DAYS JAPAN』(2013,MAR,Vol.10,No.3)についてのつぶやき
   『●田中正造さんと自公議員を比較しても仕方のないことだけれども・・・
   『●再稼働・輸出問題に続いて、東京電力原発人災下の五輪招致騒動: 「あろうことか」、の連続

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http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013090402000221.html

田中正造 没後100年  「終焉の家」栃木・佐野 史跡指定
2013年9月4日 夕刊

 足尾鉱毒事件を告発した政治家の田中正造(一八四一~一九一三年)が亡くなって百年となる四日、出身地の栃木県佐野市は、正造が最期を迎えた家を市史跡に指定する。正造への評価がめまぐるしく変わってきた中、この家を四代にわたり守ってきた当主の庭田隆次(にわたりゅうじ)さん(79)は「見向きもされなかった時代もあったが、よく維持できた」と感慨深げだ。 (稲垣太郎)

 「田中さんは非戦論者で反足尾鉱毒。軍国主義の時代に日本が武力で他の国を取ったり、鉱毒被害の示談金をもらったりした方が楽な暮らしができると思っていた人々から嫌われ、気の毒な人だった」

 隆次さんは、生前は「嫌われ者だった」と正造に同情する。庭田家に対しても、そんな正造を「みとった家」という周囲の冷ややかな目線があり、終戦後もしばらく続いたという。

 だが、成田空港建設に反対する一九六〇年代以降の成田闘争のころから見直され始め、「亡くなった部屋を見せてほしい」と人が訪ねてくるように。平成に入ると数が増え、近年は毎年百人は訪れるという。

 正造は、鉱毒事件で活動するための資金調達に奔走していた一九一三(大正二)年八月二日、体調不良を訴え、支援者だった隆次さんの曽祖父、庭田清四郎宅に駆け込んだ。縁側から転がり込むように倒れ込んだという。庭田家は夏の農作業を放り出し、亡くなるまで三十四日間にわたり看病を続けた。

 正造が亡くなった翌年、庭田家は河川の改修工事で二百メートルほど移転したが、正造が息を引き取った八畳間を含め、佐野市下羽田(しもはねだ)町の家屋はそのまま残った。以後、四代にわたり使い続けてきた。

 隆次さんは子どものころから、祖母セトさんに正造の話をよく聞かされた。そんな歴史のある家で、隆次さんは四人の子どもを勉強させたり、家族で寝たりして「普通に使ってきた」という。

 田中正造関連で佐野市が文化財に指定するのは初めて。指定により、固定資産税減免などの恩恵を受けるが、隆次さんが何よりうれしいのは、価値が見直されたことだ。

 「曽祖父は(世間の評価に)だまされずに、『自分の家が偉人国士終焉(しゅうえん)の地になった』と喜んでいた。その家が史跡に指定されれば、曽祖父も田中さんも喜ぶだろうし、自分の喜びにもなる」と話している。

 <足尾鉱毒事件> 明治時代初期から、栃木県足尾町(現日光市)の足尾銅山開発に伴い、鉱毒水や排煙などの有害物質が周辺や渡良瀬川下流域を汚染し、農業や漁業などに被害をもたらした国内初の公害事件。栃木県選出の衆院議員田中正造が帝国議会で追及し、辞職後、明治天皇に直訴も試みた。遊水池を造って鉱毒を沈殿させる案が浮上し、対象地の谷中村(現栃木市)が強制廃村となった。
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