福永武彦「意中の画家たち」からの引用.
美術出版社刊 岡鹿之助画集中の今泉篤男の解説にこのような文章がある.
「この画家の手法には,他の人と違った独特のやり方がある.... 全体に白に近い色で下塗りをしておいて,画布の僅かな一部分から描き出し,その一部分が完成するとやがて傍らの他の部分に移る.従って画布のある部分はすっかり出来上がっていても,他の部分は下塗り以外は何にも描いてないということになる」.
(福永は) かってこれを読んだ時に目を見張るほど驚いた... と続く.
詩や小説では常に一部分から出発して少しずつ先へ進んでいかなければならない.しかし幻視者の眼を働かせれば,全体は常に目に見えている.部分が実現する時には,それは最早部分ではなくなっている...
マチスと J 子の制作過程はかってこのブログに書いたことあり,多分それが普通なんだろう.福永は,絵はふつう少しずつ実現に近づいていき最後に全体が定着されるもの,いつでも好きなように弄りまわせるものだが,岡の場合は違うと言いたいらしい.
全体のバランスを予測して筆を下ろすのがふつうだが,途中まで書いたら大きすぎて余白がなくなったり,あるいは行が曲がってしまったり,ということもある.それなりに解決することもあり.破り捨てることもあり...
岡も一字ずつ書くセンスで絵を描いていたんじゃないかな.
岡の作品「遊蝶花」だが,ぼくのように右利きで机の上で描くなら,左上の部分から始めると思う.絵の具で手が汚れない...なんちゃって.
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