「九条自由広場」

「昭和区九条の会」(名古屋)のブログです。会と市民の皆さんとの交流の広場です。ぜひ「コメント」をください。

「憲法9条を持つ国の経済―財界人の直言」講演を聴いて① 後藤茂昭

2009-06-30 22:01:59 | Weblog
★表題のテーマで数回に分けて品川氏の講演を掲載します。講演を記録していた後藤茂昭氏は会の学習会などで講師として平和・護憲の問題についてお話をいただいている論客であります。またピースあいちの中心的なボランティアとしても活躍してみえます。
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6月20日、講演を聴いた。講師は品川正治氏である。氏は、現在85歳である。過去に日本興亜損保の社長、会長を歴任し、1993年~97年の間、経済同友会代表副幹事を務め、現在も同会の終身幹事である。また、財団法人国際開発センター所長であるとともに全国革新懇の代表世話人でもある異色の経済人である。現在九条問題について、全国各地で講演活動を精力的に行っている。今回も2時間を超える講演を原稿なしで、淡々と諄々とお話しされ、受講生は引き込まれて聞き入っていた。

講演内容

私の戦争体験
「私は一身に二生を生きた」。1924年に生まれ、22年間は大日本帝国憲法の下、天皇の赤子として、その後は、日本国憲法の下の国民として生きた。太平洋戦争末期、私は第三高等学校(全国に第一から第八まであったナンバースクールといわれ、卒業生は東大、京大等の帝国大学へ進むエリート高等学校。第三は現在の京大教養部にあたる。)の学生であった。
在学中の1943年、戦況の悪化により、それまで大学生、専門学校生に認められていた「徴兵猶予」が廃止され、学徒動員が発令された。当時の高等学校生の中には、20歳を超えたものもかなりいて、召集された。死と直面した中で、当時の学生はみな「死ぬまでに読みたい本」を1冊決めていた。私は、カントの「実践理性批判」をドイツ語の原語で読み、読み終わった3日後に召集された。学生時代には、仲間が次々応召し、寮や料亭で寮歌「紅萌える…」や逍遥歌「琵琶湖就航の歌」を涙ながらに歌った。一番忘れられないのが、詩人三好達治のことである。当時、学校は死んでゆく学生のために、「誰の講義が一番聞きたいか」希望を取り、全国から教科に関係なく講師を招いた。その一人が三好達治である。五日間の講義が終わった時、突然、達治が教壇に突っ伏して号泣した。達治は涙ながらに「若い君たちを戦争に送って、僕にはもう詩を書けない」と言った。
 応召後間もなく中国の延安という最前線に送られた。共産党軍や国民軍の眼前であり、死ぬことが確実の戦線であった。手榴弾攻撃や白兵戦もやった。私の足には、今も爆弾の破片が入っている。ある時、隣の塹壕から「助けてくれ」という戦友の悲鳴が上がった。すぐに飛び出そうとした私に、同じ壕の戦友が馬乗りになって押さえつけ、首を横に振った。飛び出せば、撃たれて死ぬことが確実だった。しかし、このことは私の一生のトラウマとなった。戦後東京にいた私は亡くなった戦友のお母さんの訪問を受けた。息子の最後を知りたくていろいろ調べて私をつき止め、島根の山奥から、村の人たちから旅費を出してもらって上京された。私は、畳に顔をすりつけ暫く何も言えなかった。そのことは更なるトラウマになった。やっと終戦になったが、自分たちの武装解除は11月まで行われなかった。すでに国共の戦いが始まっており、双方の思惑の中で解除がなされなかったようである。

戦争体験が話されない理由
戦争経験者が寡黙である理由は次のように思われる。
1. 日本の戦争があまりにも惨めだったこと。
ニューギニア、レイテ、インパール等での死者の7割は、餓死である。体力も気力もなくし、地面にへたりこんでの戦友との別れがそのまま戦死である。それを思うと「中国戦線のことなどおこがましくて」という気がする。
2. アッツ、サイパン、硫黄島、沖縄での戦いは、最初から勝つことは考えられず、いつ玉砕するかだけの戦いだった。
3. 戦争を語る際、「どうしてあなただけ生きていられたのか」という問いがトラウマになる。
戦争は天災ではない。起こすのも止めるのも人間である。75歳まではトラウマで話せなかったが今は、「今話さないと」という気持ちである。語ることが戦闘体験者の務めだと考えている。


第10回 昭和区九条の会「世話人会」結果報告です。

2009-06-28 22:38:47 | Weblog
世話人・会員各位      昭和区九条の会事務局(731-2749)    
第10回 昭和区九条の会「世話人会」結果報告です。
(日 時) 6月26日(金)午後7時~8時45分
(会 場) 昭和区生涯センター  (参加者) 7名。
(注)太字は決定した事です。
★ミニ学習:「裁判員制度をどう考える」では、
*憲法にない義務を国民に押し付けるのは問題である。
*裁判員を受ける判断は自由にすべきである(制度が成立しないという意見も)
*取り調べの可視化など、改善すべきではないか。
*国民的議論をしてから国民投票に付したらどうか。などの意見が出ました。
(協議・報告事項)
① 「第3回昭和区平和のつどい」は10月4日(日)に開催します。
* 会場は、柳城短大体育館です。
* 第2回実行委員会は、6月30日18時30分~  鶴舞総合法律事務所。
* 方向性や講演の講師は早急にきめることを確認。

② シーゲルさんの講演会(主催・聖公会憲法プロジェクト)について
(日時)7月18日(土)14時~16時 (会場)名古屋聖マタイ教会ホール 
*7月ニユースで宣伝し、参加を宣伝する。
③ 会員へのアンケートについて
*氏名記載を条件としたためか、現在25名。7月ニユースで再度協力要請。
④ 昭和区九条の会の「総会」の時期と形式について
* 次回の世話人会で検討をする。
* 開催時期は、今年は10月下旬か、11月上旬(来年以降は7月初旬)
⑤ 街頭宣伝・・興正寺宣伝 7名参加、300枚配布(2000円カンパ有)
* 西友前宣伝は、今週土曜日(27日 午後3時~4時)です。
⑥ 来年の平和美術展の実行委員会を毎月第3水曜日・14時から行う。
「催し物案内」
*講演  7月10日18時30分~20時30分  名古屋法律事務所
「生活保護と日本国憲法」 講師:尾崎弁護士   無料・・事前申し込み
*写真展 7月11日~20日10時~20時  名古屋国際センター4階
地球の上に生きる2009  テーマ別講演もあり  有料500円
*女優たちの朗読 7月23日19時開演 名古屋芸術創造センター 2500円
「夏の雲は忘れない」 出演:岩本多代、長内美那子、山口果林、山田昌ほか
次回の世話人会は、未定・・7月ニユースでお知らせします。

不可解なNHKバッシング(1)人間動物園 ( ブログ安禅不必須山水より )

2009-06-27 21:04:32 | Weblog
★今回のNHKもんだいについて「ブログ安禅不必須山水」さんが詳細に反論している。
http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/1035164/
紹介させていただく。(ネット虫)
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NHKスペシャル「JAPANデビュー」の第一話「アジアの"一等国"」に対する『愛国主義者』の皆さんによるバッシングは、ネタの底をついたようだが、なおも続いている。
ここでは、「史実捏造」だとする4点について、検討してみたい。

1、「人間動物園」なんて酷すぎる捏造だ。

2、「日台戦争」「台日戦争」なんてありえない。

3、台湾人の多くが「漢民族」であるはずがない。

4、日本統治で「中国語」が禁じられたことはなかった。

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不可解1、「人間動物園」なんて酷すぎる捏造だ
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A 戦前日本への信念

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このNHKへの非難の背景には、どうやら、

「大東亜戦争敗戦までの帝国日本の台湾治世においては、台湾原住民を手厚く保護しその近代化を援助した。その成果として『高砂族』義勇隊への志願者も多く、ニューギニア等で戦死した義勇兵は靖国神社に祀られている」
といった戦前日本への信頼感をゆるがせにしてはならない、という強い信念があるようだ。
信念は結構なことだ。しかし、歴史というのは信念がつくるものではなく、事実がつくるものだ。

B、台湾先住民は日本を歓迎していたか?
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果たして、台湾先住民は日本の治世を喜んで迎えたのだろうか?

日本が台湾を領有したとき、台湾原住民は野蛮人という意味の「蕃」と呼ばれていた。清国の治世にすでに同化したものを「熟蕃」といい、同化してない種族を「生蕃」と呼んでいた。そうして台湾原住民を同化させることを「理蕃」といっていた。
日清戦争後、統治を清国から引き継いだ日本の台湾総督府も、同化政策を進め、これら「理蕃」の概念を踏襲した。
台湾原住民はすでに農地化できない山地に追いやられ、狩猟や採集の暮らしを営み、他人の干渉さえなければ争いは起きない状態だった。しかし、台湾の近代化を急ぐ植民地経営においては、樟脳採集や道路鉄道開発の勢いを台湾原住民のいる山地に及ぼさないわけにはいかなかった。

C、蕃人の反乱
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そこで摩擦が起きた。アメとムチの理番政策を担うのは警察組織であった。日本人巡査は各村々=蕃社に駐在し、原住民の頭目たちの上にたって、行政、教育、衛生を指導した。そして、「蕃人」の懐柔と反乱の繰り返しは、霧社事件が終結する1931年まで続いた。
→年表参照:http://web.thu.edu.tw/mike/www/class/Tainichi/data/musha-hisotry.html
霧社事件とは、日本総督府の理番政策がもっとも行き届いた模範的な村々=蕃社による反乱で、悲惨な結末を迎えたものだった。

→霧社事件 http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2029.html#id_285cf8b5

D、「高砂族」の誕生?
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実は、意外と思う人が多いと思うが、「高砂族」というのは1935年に総督府が生み出した新語なのである。

もともと台湾先住民は、高山族9族、平埔族10族といわれ、その祖先も一つではなく、言語のルーツも多様である。それを総督府は、「高砂族」という一族に括ってしまった。いまNHKを激しく罵っている人たちも、この「高砂族」という人工民族名を少しの疑いも無く信じきっている。
総督府は「高砂族」という名前を与えると共に皇民化教育を徹底した。「部族」の為から「国家」の為にと、彼らの生きる目的を切り替えさせた。
台湾原住民青少年の白紙の心に「国家」と「皇民」意識が植え込まれたのでる。

そうした結果として生まれたのが、「高砂義勇隊」であった。

(ちなみに、「高砂義勇隊」は正式の兵隊ではなく志願の軍属の身分であったという)

E, 日英博覧会に戻ると
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以上のことを踏まえて、NHKの「アジアの一等国」が紹介した1910年の日英博覧会の時点に戻ってみよう。
そのときには、まだ「高砂族」は一人もいなかった。なぜなら「高砂族」という言葉が生まれる25年も前だからである。
では日英博覧会に展示された台湾原住民パイワン族の人々はなんと呼ばれていたか、
それは、「生蕃」である。すなわち未だに同化していない未開の「蕃」。

>「右ノ外台湾生蕃ニ就テハ総督府民政長官及ヒックス間二契約締結セラレ両社ノ生蕃二十四人警部一名巡査一名監督ノ下ニ二月十六日門司ヨリ乗船シテ渡英セリ」(農商務省1912;869-872)

文明にまだ染まっていない未開の民だからこそ、博覧会で観客を集められる「余興」となったのである。

→英文wikipedia 「human zoo」
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2022.html

F, 企画は英国人
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NHKを批判する人たちの中には、
「日本は欧米に文明国であることを見せようとしたのだから、『人間動物園』のような野蛮なことをするはずがない」という人がいるが、これも事実にもとづかない「信念」にすぎない。
事実は欧米人が喜び観客を集められるからという理由で、「人間動物園」に倣ったのである。しかも、そう判断したのは総合プロデュースを日本政府から委託された、イギリス人なのであった。

>,「明年の博覧会々場ニ開設セラルペキ諸種ノ本邦余輿ヲ一手ニ経営スル為メ英国有志者ヲシテ一ノシンジケートヲ組織セシムル事」と書かれ,少なくとも3名の「英国紳士」からなるシンジケートと,交渉および事務処理役の日本人が任命されたと書いている。(外交史料館資料『日英博覧會開設一件』)
いかにすれば、ロンドンで開かれる博覧会に集客できるか、「人間動物園」のノウハウに熟知したイギリス人の企画によって、「アイヌ村」と「台湾生蕃社」が博覧会場に誕生したのである。

G、その後
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日英博覧会は、どうやら大成功だったようである。「出展」したアイヌ人と台湾原住民は、博覧会が終わると直ぐに帰国した。アイヌの古老はのちに楽しげにロンドンでの体験を家族に語ったそうである。また、台湾原住民パイワン族にもイギリス人博物学者とも交流が伝承されているそうである。

これをもってNHK批判者は、「人間動物園」ではなく「文化交流」であるというが、そもそも「人間動物園」には本人たちを直接虐げるということは含んでいない。英文wikipedia 「human zoo」にあげられた事例にしたところで、当事者本人たちは人種差別が当然だったその当時、虐げられたとは思ってやしない。
批判は外部から巻き起こり、やがてレイシズムは批判の対象になるのである。NHKの番組で紹介されたように、その子孫たちが唇を噛むのである。

問題は、「人間動物園」という概念に当てはまるかどうかと言うことである。
日本政府の農商務省公文書に拠れば、「台湾生蕃」24名は、日英博覧会の人寄せの「余興」として警部と巡査によってロンドンに連れて行かれ、会場に再現された「蕃社」の中で半年間くらし、半年間その生活生態が展示(衆目環視)された。
その事実は消えない。
→前稿 「人間動物園」、台湾先住民は出演者に過ぎないのか?
http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/1018889/

(以上)


NHKに激励の声を!!!!      ネット虫

2009-06-27 12:21:11 | Weblog
★仲間からの情報によれば、とにかく歴史歪曲の歴史修正主義の勢力が団結して、公共放送を恫喝しようとしています。組織的な闘いです。反撃に参加ください。
下記のNHKへ連絡を。
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NHKスペシャル放映問題が、大変なことになっています。

彼らの団結力と行動力はすごい。
小さな差異で分裂しがちな反戦派とは大違い・・・。

 日本の台湾統治を取り上げた、NHKスペシャル「アジアの“一等 国”」(4月5日放送)の偏向・歪曲問題で、8300人を超える視聴者らが25 日、放送法や受信契約に違反する番組で精神被害を受けたとして、NHKを相手に計約8300万円の損害賠償を求める集団訴訟を東京地裁に起こすことが分かった。

 とにかく、ここはNHKを激励しないといけません。
こういう動きを侮ると取り返しのつかないことになります。
歴史修正主義も、最初に侮ったからあれほどの勢いになったのです。
ぜひNHKに激励の声を。

応援のNHKの連絡先はここ
http://www.nhk.or.jp/css/goiken/fax.html


自民党は(戦艦)大和だと思っている。(東国原知事単独インタビュー)

2009-06-26 11:00:37 | Weblog
★東国原知事の朝日新聞との単独インタビューの骨子を読んだ。
 私は、この知事が少しは信念のしっかりした気骨のある人物かと思っていたが、だんだん権力志向の亡者に思えてきた。                    自民党がほとんど戦わずして沈没した大和であるという指摘は面白いが、地方分権を旗印にする彼が、民主党ファシズムの出現と根拠なく言い放ち、自らそれを阻止する救世主と公言するのは自滅の道であろう。(まもる)
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「ど真ん中から変えていく」東国原知事単独インタビュー2009年6月26日1時29分

 宮崎県の東国原英夫知事は25日、朝日新聞の単独インタビューに応じ、「政権与党、政府のど真ん中から変えていく」と述べ、自民党から次の総選挙に立候補することに改めて意欲を示した。

 東国原氏は「自民党は(戦艦)大和だと思っている。社会・経済情勢や国民の感情、世界の動きに臨機応変に対応できる組織体でないといけない」と指摘。次の総選挙では拮抗(きっこう)する2大政党のどちらかを国民が選択するという状況が望ましいとの見方を披露し、「今のままでは(支持率が高い)民主党が圧勝してしまう。民主党のファシズムになってしまう」と強調。「これに対抗するために自民党が生まれ変わらなければならない」と語り、自らが次期総裁候補となることで、自民党を変革するとの決意を示した。

 東国原氏はまた、「国を変えようという大きな目標に対し、知事の権限は微々たるものだった。自分はその限界を超えようということだ」とも語った。

茨城医師連会員が自民党を集団離党へ          まもる

2009-06-26 10:54:34 | Weblog
★今朝の新聞に「茨城医師連会員が自民党を集団離党へ」という記事が載っていました。さしもの医師会も自民党離れをせざるを得なくなったのかと面白く読みました。

 「茨城医師連会員が集団離党へ」
           6月25日19時15分配信 時事通信

 茨城県医師連盟の原中勝征委員長は25日、県庁内で記者会見し、自民党茨城県連医療会支部所属の党員1256人が集団離党すると発表した。同党が後期高齢者医療度の存続を支持しているのは認められないとの理由からで、離党者は同支部の党員全体の約3分の1強に当たる。
 同医師連盟は、日本医師会の政治組織「日本医師連盟」(日医連)の地方組織。次期衆院選では県内7選挙区すべてで民主党候補の推薦を決めている。 


NHKを守ろう      まもる

2009-06-25 21:04:18 | Weblog
小田村四郎元拓殖大学総長など8300人余りの原告は、とある提訴の代表人の小田村四郎氏とはウイキペデァによれば
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小田村 四郎(おだむら しろう、1923年10月17日 - )は日本の元官僚。

日本会議副会長、明成社社長、日本李登輝友の会の会長。

経歴 [編集]
学生時代は、日本学生協会の活動家として現行の高校、大学には「情意の枯渇」がはなはだしいと難じ、その刷新運動に参加した。1943年に学徒出陣。
終戦後に東京帝国大学に復学卒業。1947年大蔵省に入省し、1976年に行政管理庁事務次官、その後日本銀行監事を務めた。1995年から2003年まで拓殖大学第16代総長。
保守派の大御所的存在であり、7月13日に在日米大使館に手渡されたアメリカ合衆国下院121号決議への抗議書にも賛同者として名を連ねた。靖国神社崇敬会総代。

略歴 [編集]
1923年:東京に山口県人小田村有芳の4男として生まれる。東京府立高校を経て、
1942年:東京帝国大学法学部政治学科入学
1943年:陸軍入隊
1944年:陸軍経理学校入校、陸軍航空本部経理部
1947年:東京帝国大学法学部政治学科卒業、大蔵省入省
1962年:大蔵省(現財務省)主計局主計官
1966年:同局法規課長
1968年:同省大臣官房調査企画課長
1970年:名古屋国税局長
1972年:防衛庁経理局長
1974年:日本銀行政策委員会大蔵省代表委員 行政管理庁(現総務省)行政管理局長
1976年:行政管理事務次官
1978年:農林漁業金融公庫副総裁就任
1985年:日本銀行監事就任(~1993年(平成5年))
1991年:学校法人拓殖大学理事就任
1993年:勲二等旭日重光章
1995年:学校法人拓殖大学第16代総長就任
日本李登輝友の会・國語問題協議會会長、財団法人日本国防協会・社団法人亜東親善協会・防衛法学会各顧問、日本戦略研究フォーラム・財団法人行政管理研究センター各評議員、昭和聖徳記念財団理事を務める。

関係者 [編集]
小田村の曾祖母の兄は吉田松陰にあたる。兄は、日本学生協会のメンバーをもとに結成された社団法人国民文化研究会の理事長、亜細亜大学教授を務めた小田村寅二郎。同会出身のメンバーには、ほかにも名越二荒之助、東中野修道、占部賢志、八木秀次ら保守派の論客がいる。
血縁には台湾教育の祖として現地で慕われる「六氏先生」の一人楫取道明もおり、台湾との交流にも熱心に取り組んでいる。中国国民党評議委員の許國雄とは特に親しく交わり、その著書に前文を寄せている。李登輝友の会の会長でもある。
日本会議副会長石井公一郎(元ブリヂストンサイクル会長、明成社初代社長)とは、学徒出陣以来の盟友。

おもな著書 [編集]
『憲法と自衛権』(日本戦略研究センター 1984年)
『情勢の変化に対応する安全保障政策の抜本的見直し』(同上 1987年)
『占領後遺症の克服』(国民文化研究会 1995年)
『こんな憲法にいつまで我慢できますか 亡国の民とならないために』(大原康男他共著 明成社 2003年)ISBN 4-944219-25-3
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という人物で日本のウルトラ保守のドンです。
著作からも分かるように強烈な改憲論者で戦後改憲勢力を復活拡大することを使命としているようです。また彼は台湾の保守勢力も血縁関係がありね台湾統治時代を夢見る老人です。
 だから台湾統治の植民地政策の誤りや残酷さを指摘されると怒り狂うのでしょう。

★NHKも保守ですが、たまに良心的な番組を放映したため、狂犬に噛みつかれたようです。
 NHKが恐れをなしてこれ以上臆病にならないように我々視聴者は監視し応援すべきでしょう

NHKを提訴        落石

2009-06-25 21:00:04 | Weblog
NHKのニュースです。

戦前から戦中の日本による台湾統治を取り上げたNHKの番組について、
大学教授などが「内容が事実に反し、一方的な取材によるものだ」などとして、
NHKに総額8300万円余りの賠償を求める訴えを起こしました。

この番組は、NHKが、ことし4月に放送したNHKスペシャル
「シリーズ・JAPANデビュー第1回アジアの“一等国”」で、
戦前から戦中の日本による台湾統治を取り上げました。

訴えによりますと、小田村四郎元拓殖大学総長など8300人余りの原告は、
番組は、事実に反しているうえ、一方的ないわゆる「やらせ」取材で、
日本が台湾の人たちに対し弾圧だけをしたかのように伝えているとしています。

訴えについて、NHKは「訴状を受け取っていませんのでコメントできません。
番組の内容には問題がなかったと考えています」としています。

また、また安倍さんたちの顔が登場してきました。
みなさん、この裁判、どう思いますか?
                   


米国の元捕虜に謝罪した藤崎駐米大使          天木ブログより

2009-06-24 09:18:43 | Weblog
★久しぶりに天木ブログを読んでなるほどと思った。見出しのように藤崎駐米大使が米兵捕虜団体の会合に出席して、日本政府として68年目にはじめて謝罪したというのである。読み始めて「ああそれは遅きに失するが、まあ良いことだ」と感心していたら、問題はもっと根深かく大問題であった。紹介したい。(まもる)
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米国の元捕虜に謝罪した藤崎駐米大使
 
  6月22日の毎日新聞に極めて重大な記事がスクープされていた。見逃すには大きすぎる記事だ。
  5月30日に日本の駐米大使藤崎一郎氏が、米兵捕虜団体の会合に出席して、日本政府として68年目にはじめて謝罪したという。

 フィリピン・バターン半島で米兵捕虜ら一万人以上を約100キロ無理して歩かせ、約800人以上の犠牲者をだした、いわゆる「バターン死の行進」。その事についての謝罪だという。
 悪い事をしたなら謝罪する、それは如何なる意味でも正しいことだ。この謝罪が、藤崎大使の元米捕虜兵に対する個人的謝罪であればそれを評価する。
 しかし私が驚いたのは、藤崎大使が、「日本政府の立場を伝える」と発言して謝罪したことだ。「95年の村山談話の範囲内」で謝罪したと述べていることだ。
 あの村山談話は、その経緯からいっても、談話の内容から言っても、日本のアジア侵略の責任を謝罪する事を一義的目的としてつくられたものだ。
 村上談話はいつから米国に対する戦争責任の謝罪の根拠に拡大されたのか。

 それよりもなによりも、日本政府は、米国に戦争をして迷惑をかけた事を謝罪する決定を、いつしたのか。その決定は国民に知らされているのか。報道されているのか。

 戦争責任を謝罪するならば、サンフランシスコ講和条約に締結した49カ国に等しく謝罪すべきではないのか。文句を言われたら謝罪する。言われなければ何もしない。国によって謝罪をしたり、しなかったりすることが正しいことなのか。
 そもそも藤崎大使の謝罪は戦争責任の謝罪なのか。それとも戦争中に行なわれた残虐な行為についての被害者に対する謝罪なのか。

 戦争中の残酷な行為であれば、「バターン死の進行」だけに限らない。おびただしい残酷な行為がで行なわれてきた。戦争は人間を狂気に追いやる。だから戦争は許されないのだ。
 犠牲者は米国軍人だけではない。アジア人はもとより英国人やオランダ人なども含まれる。
 それに、およそ戦争中は、どの国も多かれ少なかれ敵国民に残酷な行為を行なう。米国は日本の非戦闘国民に対して無差別爆撃を繰り返した。なにより原爆投下を行なった。米国政府はそれを決して謝罪しない。日本は謝罪を求めない。

 もっと言えばあの村山談話を、田母神前航空幕僚長や皇国史観に立つ連中は決して認めようとしない。アジアへの侵略は認めない。
 その彼らは、アジアに謝罪する村山談話は否定するが、日本政府が米国に謝罪することは認めるのか。どうなんだ。

 このブログを読んだなら日本政府や藤崎大使に謝罪の真意をただしたらどうだ。
 
 賢明な読者ならもう理解しているだろう。私が言いたい事は、今回の藤崎大使の元米捕虜兵に対する謝罪なるものが、実に多くの問題を内包しているということだ。
 それらの問題を考えた末での謝罪とはとても思えない。少なくとも米国に対する謝罪について、国会でもメディアでも、それをまともに議論した事を私は寡聞にして知らない。
 よもや、揺らぎつつある日米同盟をつなぎとめるために、米国政府や元米国捕虜兵の機嫌をとろうとして謝罪したのではないだろうな。

 今度の謝罪決定は閣議決定などを経てなされたものではなく、対米従属に走る外務官僚が決めた謝罪ではないだろうな。

 藤崎大使と私は外務省の同期生だ。同期生のよしみで言う。おい、藤崎、この謝罪は日本政府の公式決定を経た日本の政策なのか。そうであれば、元米軍捕虜に対してだけではなく、何故オバマ大統領に行なわないのか。米国民に向かって行なわないのか。

 このまま見過ごしてしまうにはあまりにも重大な毎日新聞のスクープである。

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記者が行く:沖縄戦、ガマに響く軍歌 83歳女性、苦悩語る 

2009-06-23 21:53:11 | Weblog
★毎日新聞の関西版に記者が沖縄戦の「白梅学徒隊」で救護経験をした女性訪問記事を載せていました紹介します。(まもる)

記者が行く:沖縄戦、ガマに響く軍歌 83歳女性、苦悩語る 
6月23日17時1分配信 毎日新聞

 ◇沖縄戦の「白梅学徒隊」で救護した女性に聞く

 23日は「沖縄慰霊の日」。取材エリアである尼崎市の特別養護老人ホーム「園田苑」に、「白梅学徒隊」の一員として兵士の救護に当たった経験をもつ女性(83)が入所していると聞き、訪ねてみた。女性は淡々とした話しぶりながら「戦争がこびりついて、(頭から)離れない」と、64年間続く苦悩を語った。
 白梅隊は、沖縄県立第二高等女学校の生徒らで結成された隊。「ひめゆり学徒隊」(第一高女などで構成)などと同様、陸軍病院や野戦病院に動員された。
 白梅隊の仕事は、野戦病院での兵士の救護だった。一日にどれくらいの兵士が運ばれてきたかは「分からない」。それほどひっきりなしに、傷病兵が病院に運ばれてきた。中には幼い子供の写真を握りしめたまま亡くなった兵士もいた。「子供が生まれる前に沖縄に来て、写真でしか自分の子供を見てなかったと思う」
 戦禍が野戦病院に及ぶと、女性はガマ(洞くつ)へ移動。白梅隊も個別行動になり、散り散りになった。「みんな元気かなあ」。ガマで友人と話をしていたある日、友人の一人が爆弾の破片を胸に受け、出血多量で亡くなった。女性も右太ももを負傷、傷跡は今も残る。
 今も女性の脳裏をかすめるのは、ある日ガマに響き渡った陸軍中尉の軍歌だという。やたらと大きく、太い声にガマ中が「何事か」と騒然としたが、歌がやむと、切腹した中尉の遺体が転がっていた。「死ぬときに歌を歌う人を初めて見た」。以来、沖縄戦のことを思い出すたび、女性の耳には中尉の軍歌がよみがえる、という。
 女性は体が弱り、一人での外出は難しくなった。ホーム職員の大上茂利さん(35)は、第二高女の同窓会に一昨年と昨年同行、ガマも訪れた。女性は銃撃があった場所や白骨遺体を目にした場所などを詳しく覚えていたといい、大上さんは「これほどはっきりと記憶に残るほどの戦争があったのか」と思うと、自然と鳥肌が立ったという。【中里顕】