★「世界の流れの中で考える日本国憲法」(井上ひさし)・・・2、水色ペンキの入ったバケツを下げて 非核地図を塗り広げる
国際法や条約などの堅い約束(ハード・ロー)や、宣言や行動計画やガイドラインといったゆるい約束(ソフト・ロー)によって網の目のように編まれた国際社会・・・これはなかなかおもしろい、そしてふしぎな生きものである。戦争と暴力で荒れ狂っているかと思えば、同時に中立国(いわば良心的兵役拒否国家)を認め合ったりしている。そればかりでなく、この国際社会は、わたしたちの知らないうちに、途方もない大事業を進めていたりもするのだ。
ここに好例がある。第2次大戦のあともなお「南極はうちらの領土だ」と所有権を主張する国が7つ(アルゼンチン・オーストラリア・チリ・ニュージーランド・イギリス・フランス・ノルウェー)あった。
日本も観測船宗谷を派遣した「第3回国際地球観測年(1957年7月から18か月間)」に参加国はそれぞれ南極に観測基地を置いたが、そのとき改めてこの領有権問題が再燃した。というよりもアメリカとソ連がおたがいにお互いを疑いの目で見ていたらしい。
「観測にかこつけてアメリカは(ソ連は)こっそり南極に軍事基地を作ろうとしているのではないか」
そこで、国際地球観測年を主催する国際学術連合会議が上の7カ国に、アメリカ・ソ連・南アフリカ・ベルギー・そして日本の5カ国を加えて議論することにした。場所はワシントン。討論は白熱して火花を散らし、やがて談判決裂の危機が来た。
そのとき、日本側が、「わたしたちは紛争を話し合いで解決するという憲法を持っている。これはよりよい世界をめざすための最良の手引書であって、人類の知恵がぎっしり詰まっている。それにもとづいてわたしたちはあくまでも話し合いで解決するように主張する」と発言・・・・というのは、オーストラリア国立大学で住み込み作家をしているときに(1976年)、この会議に出席していたという地理学の老教授から聞いた話だが、なにしろ、あのときは日本中の小学生までがお小遣いを削って献金して基金を集めてやっと築いたのが昭和基地だったし、その上、戦後初めて世界の学術界に再登場したこともあって気合いが入っていた。
その気迫に圧されて討論が再開され、やがてその成果が「南極条約」(59年)となって結実した。
条約の中身をまとめると、次のようになる。
「領有権は凍結する。南極は人類の共有財産であり、世界公園である。軍事基地も軍事演習もだめ、活動は調査研究に限られる。そして核実験も核の持ち込みも禁止する」
この核禁止の流れはゆっくりと広がって行った。気がつくと、宇宙も(1966年、宇宙条約)、中南米も(68年、ラテンアメリカ非核地域条約)、海底も(71年、海底非核化条約)、南太平洋も(85年、南太平洋非核地帯条約)、東南アジア全体も(95年、東南アジア非核兵器地帯条約)、そしてついにアフリカ大陸も(95年、アフリカ非核兵器地帯条約。アフリカ統一機構閣僚理事会で採択)、どこもかしこも非核兵器地帯になっている。
試みに、非核兵器地帯を水色のペンキで地球儀の上に印すと、南半球全体が水色に染まる。もちろん海底も宇宙も水色一色である。相も変わらずなんだかんだと真っ赤になって揉めているのは北半球のお偉方たちだけだ
名古屋大学名誉教授の森英樹氏の名言を拝借するなら、〈もうひとつの世界は可能だ〉(『国際協力と平和を考える50話』岩波ジュニア新書 )なのだ。
どぎつい赤を水色で塗り直そうという国際社会のもう1つの大きな流れの先頭に立っているのは、もちろん日本国憲法である。わたしは今日も水色のペンキの入ったバケツを下げて生きている。
国際法や条約などの堅い約束(ハード・ロー)や、宣言や行動計画やガイドラインといったゆるい約束(ソフト・ロー)によって網の目のように編まれた国際社会・・・これはなかなかおもしろい、そしてふしぎな生きものである。戦争と暴力で荒れ狂っているかと思えば、同時に中立国(いわば良心的兵役拒否国家)を認め合ったりしている。そればかりでなく、この国際社会は、わたしたちの知らないうちに、途方もない大事業を進めていたりもするのだ。
ここに好例がある。第2次大戦のあともなお「南極はうちらの領土だ」と所有権を主張する国が7つ(アルゼンチン・オーストラリア・チリ・ニュージーランド・イギリス・フランス・ノルウェー)あった。
日本も観測船宗谷を派遣した「第3回国際地球観測年(1957年7月から18か月間)」に参加国はそれぞれ南極に観測基地を置いたが、そのとき改めてこの領有権問題が再燃した。というよりもアメリカとソ連がおたがいにお互いを疑いの目で見ていたらしい。
「観測にかこつけてアメリカは(ソ連は)こっそり南極に軍事基地を作ろうとしているのではないか」
そこで、国際地球観測年を主催する国際学術連合会議が上の7カ国に、アメリカ・ソ連・南アフリカ・ベルギー・そして日本の5カ国を加えて議論することにした。場所はワシントン。討論は白熱して火花を散らし、やがて談判決裂の危機が来た。
そのとき、日本側が、「わたしたちは紛争を話し合いで解決するという憲法を持っている。これはよりよい世界をめざすための最良の手引書であって、人類の知恵がぎっしり詰まっている。それにもとづいてわたしたちはあくまでも話し合いで解決するように主張する」と発言・・・・というのは、オーストラリア国立大学で住み込み作家をしているときに(1976年)、この会議に出席していたという地理学の老教授から聞いた話だが、なにしろ、あのときは日本中の小学生までがお小遣いを削って献金して基金を集めてやっと築いたのが昭和基地だったし、その上、戦後初めて世界の学術界に再登場したこともあって気合いが入っていた。
その気迫に圧されて討論が再開され、やがてその成果が「南極条約」(59年)となって結実した。
条約の中身をまとめると、次のようになる。
「領有権は凍結する。南極は人類の共有財産であり、世界公園である。軍事基地も軍事演習もだめ、活動は調査研究に限られる。そして核実験も核の持ち込みも禁止する」
この核禁止の流れはゆっくりと広がって行った。気がつくと、宇宙も(1966年、宇宙条約)、中南米も(68年、ラテンアメリカ非核地域条約)、海底も(71年、海底非核化条約)、南太平洋も(85年、南太平洋非核地帯条約)、東南アジア全体も(95年、東南アジア非核兵器地帯条約)、そしてついにアフリカ大陸も(95年、アフリカ非核兵器地帯条約。アフリカ統一機構閣僚理事会で採択)、どこもかしこも非核兵器地帯になっている。
試みに、非核兵器地帯を水色のペンキで地球儀の上に印すと、南半球全体が水色に染まる。もちろん海底も宇宙も水色一色である。相も変わらずなんだかんだと真っ赤になって揉めているのは北半球のお偉方たちだけだ
名古屋大学名誉教授の森英樹氏の名言を拝借するなら、〈もうひとつの世界は可能だ〉(『国際協力と平和を考える50話』岩波ジュニア新書 )なのだ。
どぎつい赤を水色で塗り直そうという国際社会のもう1つの大きな流れの先頭に立っているのは、もちろん日本国憲法である。わたしは今日も水色のペンキの入ったバケツを下げて生きている。