「九条自由広場」

「昭和区九条の会」(名古屋)のブログです。会と市民の皆さんとの交流の広場です。ぜひ「コメント」をください。

「昭和区九条の会一周年のつどい」350名以上の盛況

2006-07-31 22:33:15 | 平和の集いの案内・提案・感想
 昭和区九条の会は7月九日で結成一周年を迎え、記念のつどいを開きました。
 
 会には三百数十人の皆さんが集まり、「昭和区在住の声楽家夏目さん石黒さんの歌曲」や「市内私立高校生の群舞」「元ドラゴンズ社長の佐藤さんの講演」などで一周年を祝いました。

 参加された方に感想をお聞きすると
  「ビラ見て、孫みたゃーな高校生の人が出やーすと聴いたで、来てみたがね。
  いーしょおけんめえ、元気でやってみえたで 涙が出たがね。」とか

  「こわい会かも知れんと思っとつたけど、歌も若きゃあ人の踊りもあってえー
  会だったがね。 こんなら、向かえの人も誘やよかったわ。」と夫婦で参加された方。

  「戦争はいかん。忘れてはいかんで頑張ってちょーだい。」とカンパをされて行く方も多く、やってよかったとしみじみ思いました。
                          まもる
 

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コメント





ご苦労様 (落石)

2006-07-17 19:24:35

もう一年経ったのですね。
これからも頑張って下さい。







よかったですよ! (ありま)

2006-07-18 11:54:58

バラエティに富んだ良い企画でしたね。
参加者も増えた。
でも、初参加の町内会長は「少なかったな」と。
戦争反対の声はたくさんあるのにどうして300人か?と

イラクの時は町内のあちこちで戦争反対の声を聞いた。
でも、今はテポドンがあるからな。
しかしな、テポドンに対抗して軍備を増強したり、9条を取っ払っても何の解決にもならんぞ!
と怒っていました。

元ドラゴンズの社長さんも壇上から訴えねばならないほど緊迫した状況にあることをひしと感じた集いでした。








戦争は「いかん」 (酔眼老人)

2006-07-18 23:50:49

 老人には戦争の思い出がある。
 老人は再びあの時代に出会いたくない。
 老人は若者があんな目に遭うのは可哀想だと思う。
 
 老人はこの国が曲がって行くと思う。
 老人は何か心配で落ち着かない。
 老人はどうなるのか知りたい。

 老人は「一言いいたい」
 老人は戦争は「いかん」と。

 老人は平和について語るのが苦手だ
 老人は人前で語るのが苦手だ。
 老人は「未来」を語るのが苦手だ。
 老人は取り残されたくはない。
 老人は誰かが言ってくれるのを待っている。
  
  戦争は「いかん」と

  おい、お前言ってくれ。
  もっと大きな声で。
  戦争は「いかん」と。 






ようこそ、酔眼さん! (文科系)

2006-07-19 09:29:31

酔眼さん、ようこそ!
常連の1人として、歓迎いたします。

「語るのが苦手」と自認される貴方が、よく書いて下さいました。語るより、書くはもっと手間が要る。
これからも、書いてください。投稿などへの感想の、一言でも良いですから。

僕も大好き、酔眼にはなりませんが。中心は赤ワイン、あとはビールとたまにウイスキー、毎日です。
何か、お酒の話でも良いですよ。「世の中、戦争、9条に関係ない物はない」と、こんな感じで僕はやっています。





私の戦争体験 幼稚園・小学校時代 ①    爺老

2006-07-31 22:20:13 | Weblog
 私が生まれたのは昭和4年、2才の時に満州事変。8才の時にシナ事変。つづいて日中戦争でした。
 幼い私が戦争についての記憶は、お婆さんから聞いた日清戦争の話です。日清戦争にに負けたべん髪のシナ人の捕虜が、ヒイヒイ泣きながら曳かれてったという話が初めです。
 幼稚園では、次の様な歌も歌った覚えがあります。

  僕は軍人大好きよ   (替え歌) 僕は軍人大嫌い
  今に大きくなったなら        今に大きくなったなら
  勲章つけて剣さげて         むしろかぶって 小屋建てて
  お馬に乗って             お芋を焼いて
  ハイドウドウ              ハイドウドウ
 
 それから、小学校にかけて、たくさんの戦争の本を読みました。
 例えば、黄海の海戦「勇敢なる水兵」の絵本や歌・・日清戦争の海戦で、瀕死の水兵が敵艦の沈没を願いながら天皇陛下万歳と言って死ぬ話。                                               ・日露戦争・・旅順の要塞。軍神広瀬中佐。乃木大将。東郷元帥。日本海海戦。
        バルチック艦隊全滅。
 ・第一次世界大戦・・ドイツの捕虜の話。
こんな話を絵本や歌で知りました。
 
 そして、男の子は皆軍人になるのだ、女の子は従軍看護婦さんになると言っていました。
 その頃、日の丸は国中にあふれていました。日の丸を掲げない家は「非国民」の家、日の丸を持って兵隊の行進を見送らないと、非国民だと罰せられたのです。
 シナ事変、日中戦争で大きな都市を占領するたびに、日の丸を掲げ、私たち子どもも戦果を喜んだものでした。しかし、その日の丸が進むにつれて何千何万という人々が、死に、殺され、踏みにじられたのでした。日中戦争の次は第二次世界大戦です。(太平洋戦争=大東亜戦争ともいいます。)

 私はその頃、日の丸の下で「小国民」としてお国の為に尽くすのだと強く思っていました。
 しかし、身体が弱く軍人さんにはなれないと思っていたし、昆虫が大好きだったので、六年生の時書かされた作文「十年後の私」に「昆虫学者になってボルネオ(今のカリマンタン)で蝶を追いかけているでしょう。」と書いて「この戦争の大事な時に、何と言う非国民だ!」と、ひどく叱られました。     つづく
                                                                                         
            

私の戦争体験記・・はじめに②        爺老 77歳

2006-07-31 22:11:31 | Weblog
最近、医療の改善?憲法改善?教育基本法改善?共謀罪法?とかととても気になる硝煙(砲などを撃った後の煙)の立ち込める気配が広まってきています。
 改憲には戦争放棄の九条を無くそうという意図が感じられます。
 すでに、一部の学校で日の丸に対する礼節を厳しくし、起立しなかったからとか、頭を下げなかったからとか、日の丸を掲げなかったから、等の理由で罰せられた人たちが何人も出てきています。
 私は、こんなニュースに接するたびに、忘れようとしていた戦時中のことが、ますます思い出されるようになりました。 そして、また戦時中の様なことにならないかととても心配になってきました。
 しかし、そうした事を中年の人たちに話しかけても、生活に追われているためか、政治的なことは意図的に避けているように思えました。子どもを持つ親であれば避けて通れない問題なのに?と不思議に思いました。
 そして、その理由を良く考えてみると「戦争を知らないからだ」と気付きました。そんなことから、私なりの戦争体験記を書こうと思いたったのです。

私の戦争体験記・・はじめに①        爺老 77歳

2006-07-31 22:00:38 | Weblog
 私は「昭和区九条の会」の会員で77才になる老人です。
 まず私の作った歌を読んでください。

  忘れんと勉めしものをなぜに又 戦火の臭いたちこめるとは

  戦争の足音迫る昨日・今日

戦争の残骸あわれ小国民

 私の青春は戦争で踏みにじられました。
 私たち昭和初め頃生まれた子ども達は、戦争中「小国民」と呼ばれ戦気高揚に狩りだされました。
 「欲しがりません勝つまでは。」とガマンガマンを強いられました。
 戦争の被害を受けたのは大人ばかりでなく、心身とも傷ついたこの頃の少年少女でした。
 77才になった今でも時々当時の夢を見てうなされる事があり、忘れよう忘れようと努力しました。
 
 次の言葉は、私の体験から得た真実です。どう言い繕っても、
 
 「戦争は、バカらしい、怖ろしい、狂気の 大暴動です。」

 それは若い人に、是非知っておいて欲しい事なのです。
 
 未来の子ども達が、こんな戦争に巻き込まれないように
 「戦争は絶対してはならない」ということを、戦争を知らない人々に伝えなければならない。
 
 これが 今生き残っている「爺・婆」の勤めであると思います。

 語り部として「私の戦争体験」を語ります。 是非読んで感想をください。

                                                        爺老