NJの山花旅

山花旅の写真が多数。環境問題と歴史、時事も加えます。

元気な米人女性② 廃墟の福島バラ園を世界に紹介 d

2020年07月14日 13時21分44秒 | 愉快・感動する話

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近所の公園にて 7月10日 品種不明   剣弁咲き

種類はHT (ハイブリッド ティー)   

オールド ローズに対して、改良が進んだ新しいものです。

19世紀後半、フランスなどで交配改良が進み、四季咲きの大型のものが作出されました。

東洋のバラも交配に使われました。

 

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マイガーデン 何の花でしょう ?

サボテン科のサボテンです。品種は 般若。入手してから60年以上は経ちます。

草ではなく木です。70歳に近いか?

 

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Astorophytum 属  蕾にも棘があります。

本体の直径は15cm  高さ35cm

 

 

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本題です。

表紙に使われたバラは ニュー ドーン

 

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50年かけてつくり上げた愛しいバラ園。世界的に有名になった。

オーナーの 岡田勝秀さんは 詩人の如く。

 

 

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オールド ローズ 

品種は ザンガーハウザー・ユビレウムローゼ

 

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品種は たそがれ  フロリバンダ種 四季咲 作出者は 小林森治

 

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福島第一原発は津波でメルトダウン。放射線は人を拒んだ。

双葉町は入れなくなった。バラ園は荒廃した。

事故前の美しい風景。

右手前のピンクは ブライダル・ピンク

左のオレンジは ふれ太鼓

双葉バラ園が荒廃し、岡田さんは植物から心が遠のいた。

しかし、多くの人々の励ましで、凍った心が解け始めた。

一つのエピソード。

つくば市の児童養護施設の校長から、施設にバラ園をつくりたいという相談があった。

岡田は興味がわかなかった。しかし、校長の言葉に心が動いた。

子どもたちはバラだけでなく、もっと深いことを学べますと。

 

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白薔薇のアーチ Cl   クライミング ローズ

 

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アーチ Cl 白  サマー スノー

 

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上 ㇿサ ブランダ

下 テリハノイバラ 照葉野茨

 

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日本語版の序文は倉本 聰さん。

1935~   脚本家 劇作家 演出家 

 

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英語版には元駐日米国大使が寄稿。

日本生まれで、日本大好きな Maya Moore さんと親しかった。

 

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エピローグは霧の日

黄色 ランドラ

長文にお付き合い、ありがとうございました。

外は過激化した梅雨前線で雨が続いています。

被災者に心を寄せたい。


元気な米人女性② 廃墟の福島バラ園を世界に紹介 c

2020年07月11日 17時22分32秒 | 愉快・感動する話

1

マイ ガーデン     オールドローズ 5月3日

品種 ルイーズ  オディール ブルボン系 1851年 仏で作出 香りが高い

 

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7月4日 品種 コンカドール  (イエローカサブランカ)

オリエンタル ハイブリッドです。

日本のヤマユリ と サクユリ(タメトモユリ)などをもとにして作出されました。

 

本題です。 福島県 双葉バラ園

岡田勝秀さんの長年の努力で、夢のバラ園になりました。50年経ち、67歳。
友人が叱咤激励した。「西洋の名だたる庭園は100年かけている。まだ半分。まだまだこれから。」

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二人の息子に継ぐまでにやることがある。そうだ、深い緑の森に包まれて、うっとり夢見るように咲くバラたち。

   「森に沈む薔薇園」が目標。

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森のバラ園

 

しかし、
2011.3.11 午後2:46 大地震 大津波 原発事故 放射能汚染 荒野と変わった双葉バラ園

それから3か月経ち、6月11日。短時間だけ入れることになった。金庫を探すだけで終わった。

雑草の中でバラは満開だった。目をそむけた。

愛おしい恋人たちは、どうして私を捨てたの?   なぜ、今頃戻ったの?   もう、行ってしまうの?    行かないで・・・・

そう聞こえる叫びに体が震えた。

その後、何回か双葉の現地へ行けた。撮りためた写真を持ち帰った。

 

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品種 マチルダ  仏 フロリバンダ種

フランスへ行ったときにバラに魅せられ、10年間も写真を撮りに来ていた杵淵英美さんは3月19日、

岡田さんへ見舞いと励ましの手紙を送った。(きねぶちひでみ)

岡田さんは避難先を転々としていたので、受け取ったのは4月6日だった。

手紙を読んで、凍りついていた心にかすかな光をともした。

 

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横浜ばら写真の会の講師、松田久子さんは杵淵さんの写真の先生。大震災から一年経ち、東北を支援したかった。

銀座で写真展を計画した。岡田さんへ電話して、つくば市に住んでいた岡田さんに会いに行った。

岡田さんは花を見るのも避けていた。初めは冷たく対応した。

松田さんからたくさんのバラの写真を見せられ、岡田さんの心は次第にとけていった。

双葉へ連れて行ってくださいと懇願した。一般の人は入れない。

美しいバラ園の写真と同じ場所で、荒廃した現状を撮ってくださいとお願いした。

6月23日。岡田さんは杵渕さんへ心の手紙を送った。

岡田さんの心は、避けていた植物へ向いていった。つくば市の近所で咲いていた野ばらの一枝を持ち帰り、

挿し木した。放置していた雑草がはびこるつくば市の団地の庭に心が向かった。

銀座の展覧会は開かれた。岡田夫妻、松田先生、杵淵さんもいた。来客はバラ園の被災前後を比較した写真を見て、涙した。

 

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イギリス、韓国、日本で発行 (TBSラジオHPより)

 

TBSラジオで毎週土曜日、午後1時から放送している「久米宏 ラジオなんですけど」

2019年11月23日(土)放送のゲストコーナー「今週のスポットライト」では、

ジャーナリストのマヤ・ムーアさんをお迎えしました。

原発事故後、住まいは転々として茨城県に転居した岡田勝秀さんは、

福島から来たことやバラ園を営んでいたことは、周りに語らずに暮らしていました。

マヤさんが岡田さんのもとを訪ねたときは、裏庭は伸びた雑草で荒れ放題。

岡田さんは「もう植物は育てない」と心を閉ざしていました。

マヤさんが双葉ばら園の本を出したいと切り出すと、岡田さんの奥さんからは

「主人を猿回しのサルにはしないでくださいね」と辛辣な言葉。

もちろんそんなつもりはなかったマヤさんは、これで覚悟が決まりました。

双葉ばら園の誕生から原発事故までのストーリーを紹介する文章を書き、

「横浜ばら写真の会」が撮りためた数千枚の写真の中から150枚を選び、半年で本の構成を完成させました。

マヤさん語る
ところが、これを出版してくれる会社が1年以上見つかりませんでした。もう諦めようと何度も思いましたが、

そのたびにバラに背中を押されるような不思議な出来事があり、奮起しました。 

 

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品種名 ダイアナ プリンセス オブ ウェールズ (エレガント レディー)

 

「わたしがいちばん気持ちを入れているバラは『プリンセス ダイアナ』なんです。

出版社がなかなか見つからないときに、ダイアナ妃の夢を見たんです。

私はロンドンの日本大使館時代にレセプションなどで彼女に何回か会っています。

彼女が夢に出てきて、私の腕を取って『あなたのことを応援するわ』って言ってくれた。

そういう夢を見たんです。その2週間後に出版社(世界文化社)が見つかりました。

続く

 


元気な米人女性② 廃墟の福島バラ園を世界に紹介 b

2020年07月04日 16時14分33秒 | 愉快・感動する話

1

最近のマイガーデン

ラン科の ネジバナ です。芝生地などで見かける小さなラン。古くは もじずり と呼んだ。

花は横で10ミリ足らず。花はらせん階段状につく。根には菌根があり、菌類と共生。

 

 

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エビネ ラン科 コウズエビネに近い園芸種。

 

3

シマツルボ ごく小さい花 8ミリ前後か。  ユリ科 アフリカ南部原産

細い葉には縦じまがある。

 

4

ベンケイソウ科 Echeveria  SP  花は5-6ミリか。

 

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本題です。

ジャーナリストで日本生まれのマヤ・ムーアさんのお話です。2児の母。

戦争中は、敵国の英語を使うなと、いろいろな外来語を無理やりに日本語にしました。

敗戦となり、英語ブームが来ます。

初期にはNHKラジオで平川唯一さんのカムカム エブリヴァディー・・(ショジョ寺の狸 の替え歌)

が有名でした。テレビ時代になり、何人かの先生が初級英語、中級英語を担当しました。

マヤ・ムーアさんの父親の ウイリァム  L .  ムーアさんは中級英語を担当。ICUの教員でもありました。

この番組を担当したKさんから、メールをいただきました。その頃、マヤ・ムーアさんは乳母車に乗っていたと。

後に二人はロンドンでまた会えたそうです。マヤさんはロンドンの日本大使館職員。Kさんはロンドン支局の幹部。

 

6

原発を造る前には安全なので心配ないと言われていた。

地域の経済・雇用にも貢献すると。しかし、過去の歴史を無視し、一部の専門家の忠告も聞き入れず、

対策が甘くなり、津波によって原発はメルトダウンして、放射能は飛び散った。

入れなくなった地域のあの素晴らしいバラ園は荒廃したままです。

 

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福島第一原発の西8kmに岡田少年の家があった。山間の広大な敷地。

親は果樹や養鶏を手広く経営していた。いずれ岡田青年は引き継ぐ。

1961年6月のある日、山間をバイクで走りっていた。品のある佇まいの屋敷で、深紅のバラに出会った。

岡田勝秀さんはひとめ惚れしてしまった。父親の桃園や鶏舎を手伝いながら、バラの栽培を始めた。

全く知識はない。指南書もない。新聞広告で、バラ栽培12か月を見た。注文し、届いたときは多くの美しい写真に感動した。

ますます薔薇のとりこになった。有頂天 !70種類を手に入れた。

ある日、父の言葉・・「お前、そろそろ、バラ園を作ってみないか。」

7年目、24歳。開園した。入園料を取るバラ園に人は来るか。

予想に反して、人々は花を望んでいた。噂を聞いて日本各地から訪れた。

単純なバラ園ではなかった。天性の自然児の岡田さんは、父が残したサクラやもみの木なども切らなかった。

 

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岡田さんは評判の良いバラ園のために、現場で良く働いた。一般の来客はオーナーとは思わずにただの作業員とみていた。

栽培技術は上達した。しかし、何か満足できていない。「このバラ園は本来、夢見ていた庭園とは違う。」

原因が分かった。周りの風景に溶け込むものにしよう。日本国内、欧米にも視察に行った。1ドル360円の時代。

時間と金をかけて学んだ。福島に戻って、リニューアルした。

自然 緑 空間 バラ を柱にした。来客はもっと密に植えてと言った。岡田さんは10年後を予測して進めていた。

奥さんはカフェとレストランをオープンした。

岡田さんはコーヒーをすすりながら早朝の風景を堪能していて気が付いた。そうだ、早朝5:30にオープンしようと。

写真愛好家たちは早朝にたくさんやってきた。遠方からここを目的に泊りがけで。

ある時作業をしていると、庭師の一人と思った女性が、気楽に声をかけた。

この花は何ですか。バラですよ。女性はびっくりした。

それを参考にして、野ばらの小径を作った。

オールドローズの小径も作った。

                  続く