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最近のマイガーデン
ラン科の ネジバナ です。芝生地などで見かける小さなラン。古くは もじずり と呼んだ。
花は横で10ミリ足らず。花はらせん階段状につく。根には菌根があり、菌類と共生。
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エビネ ラン科 コウズエビネに近い園芸種。
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シマツルボ ごく小さい花 8ミリ前後か。 ユリ科 アフリカ南部原産
細い葉には縦じまがある。
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ベンケイソウ科 Echeveria SP 花は5-6ミリか。
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本題です。
ジャーナリストで日本生まれのマヤ・ムーアさんのお話です。2児の母。
戦争中は、敵国の英語を使うなと、いろいろな外来語を無理やりに日本語にしました。
敗戦となり、英語ブームが来ます。
初期にはNHKラジオで平川唯一さんのカムカム エブリヴァディー・・(ショジョ寺の狸 の替え歌)
が有名でした。テレビ時代になり、何人かの先生が初級英語、中級英語を担当しました。
マヤ・ムーアさんの父親の ウイリァム L . ムーアさんは中級英語を担当。ICUの教員でもありました。
この番組を担当したKさんから、メールをいただきました。その頃、マヤ・ムーアさんは乳母車に乗っていたと。
後に二人はロンドンでまた会えたそうです。マヤさんはロンドンの日本大使館職員。Kさんはロンドン支局の幹部。
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原発を造る前には安全なので心配ないと言われていた。
地域の経済・雇用にも貢献すると。しかし、過去の歴史を無視し、一部の専門家の忠告も聞き入れず、
対策が甘くなり、津波によって原発はメルトダウンして、放射能は飛び散った。
入れなくなった地域のあの素晴らしいバラ園は荒廃したままです。
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福島第一原発の西8kmに岡田少年の家があった。山間の広大な敷地。
親は果樹や養鶏を手広く経営していた。いずれ岡田青年は引き継ぐ。
1961年6月のある日、山間をバイクで走りっていた。品のある佇まいの屋敷で、深紅のバラに出会った。
岡田勝秀さんはひとめ惚れしてしまった。父親の桃園や鶏舎を手伝いながら、バラの栽培を始めた。
全く知識はない。指南書もない。新聞広告で、バラ栽培12か月を見た。注文し、届いたときは多くの美しい写真に感動した。
ますます薔薇のとりこになった。有頂天 !70種類を手に入れた。
ある日、父の言葉・・「お前、そろそろ、バラ園を作ってみないか。」
7年目、24歳。開園した。入園料を取るバラ園に人は来るか。
予想に反して、人々は花を望んでいた。噂を聞いて日本各地から訪れた。
単純なバラ園ではなかった。天性の自然児の岡田さんは、父が残したサクラやもみの木なども切らなかった。
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岡田さんは評判の良いバラ園のために、現場で良く働いた。一般の来客はオーナーとは思わずにただの作業員とみていた。
栽培技術は上達した。しかし、何か満足できていない。「このバラ園は本来、夢見ていた庭園とは違う。」
原因が分かった。周りの風景に溶け込むものにしよう。日本国内、欧米にも視察に行った。1ドル360円の時代。
時間と金をかけて学んだ。福島に戻って、リニューアルした。
自然 緑 空間 バラ を柱にした。来客はもっと密に植えてと言った。岡田さんは10年後を予測して進めていた。
奥さんはカフェとレストランをオープンした。
岡田さんはコーヒーをすすりながら早朝の風景を堪能していて気が付いた。そうだ、早朝5:30にオープンしようと。
写真愛好家たちは早朝にたくさんやってきた。遠方からここを目的に泊りがけで。
ある時作業をしていると、庭師の一人と思った女性が、気楽に声をかけた。
この花は何ですか。バラですよ。女性はびっくりした。
それを参考にして、野ばらの小径を作った。
オールドローズの小径も作った。
続く