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ここは傾斜地です。
多宝塔まで登ります。
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ここは傾斜地です。
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禅林寺(ぜんりんじ)は、京都市左京区永観堂町にある浄土宗西山禅林寺派総本山の寺院。
多宝塔 みかえり阿弥陀仏 が有名
一般には通称の永観堂(えいかんどう)の名で知られる。山号を聖衆来迎山(しょうじゅらいごうさん)、院号を無量寿院と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は、空海の高弟の真紹僧都である。当寺は紅葉の名所として知られ、古くより「秋はもみじの永観堂」といわれる。また、京都に3箇所あった勧学院(学問研究所)の一つでもあり、古くから学問(論義)が盛んである。
永観堂の正式名称 聖衆来迎山 無量寿院 禅林寺
(しょうじゅらいごうさん むりょうじゅいん ぜんりんじ)
第七世法主永観律師にちなみ永観堂と通称
創 建 貞観五年(863)
清和天皇より「禅林寺」の勅額を賜う
宗 派 浄土宗西山禅林寺派
宗 祖 法然上人(源空)
派 祖 西山上人(證空)
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延暦寺(えんりゃくじ) 京都と滋賀の境 比叡山 11月22日朝 (旅行3日目)
根本中道 不滅の法燈
伝教大師(最澄上人):後漢の孝献帝の子孫がわが国に帰化した三津首(みつのおびと)の一族から767に生まれた。後に唐で修行。
鎌倉仏教の祖師、法然、親鸞、日蓮、栄西、道元が育った。
1571年 信長は、反抗と権力の増大を危惧か、焼き払い、僧侶男女数千を殺戮した。
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比叡山で修行した著名な僧としては以下の人物が挙げられる。
良源(慈恵大師、元三大師 912年 - 985年)比叡山中興の祖。
源信(恵心僧都、942年 - 1016年)『往生要集』の著者
良忍(聖応大師、1072年 - 1132年)融通念仏宗の開祖
法然(円光大師、源空上人 1133年 - 1212年)日本の浄土宗の開祖
栄西(千光国師、1141年 - 1215年)日本の臨済宗の開祖
慈円(慈鎮和尚、1155年 - 1225年)歴史書「愚管抄」の作者。天台座主。
道元(承陽大師、1200年 - 1253年)日本の曹洞宗の開祖
親鸞(見真大師、1173年 - 1262年)浄土真宗の開祖
日蓮(立正大師、1222年 - 1282年)日蓮宗の開祖
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この写真一枚は フリー百科より 文殊楼
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石山寺 (いしやまでら) 琵琶湖の南
良辯僧正開山 天然記念物 硅灰石。 多宝塔と紫式部の源氏の間。
石山寺は琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川の右岸にある。本堂は国の天然記念物の珪灰石(「石山寺硅灰石」)という巨大な岩盤の上に建ち、これが寺名の由来ともなっている(石山寺珪灰石は日本の地質百選に選定)。
『石山寺縁起絵巻』によれば、聖武天皇の発願により、天平19年(747年)、良弁(東大寺開山・別当)が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのがはじまりとされている。
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サクラ
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紅葉とサクラの花
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これで湖東三山を終わります。 次は・・・
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西明寺 さいみょうじ 湖東三山
834年 三修上人開山
国宝は本堂と三重塔(壁画美、須弥壇回り)
天然記念物 不断桜
1571年 十七の諸堂と三百の僧坊を信長が焼く。
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11月21日 十月桜か冬桜
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大菊 厚物 もありました。
次は西明寺です。
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明壽院庭園
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サクラが咲いています。
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湖東三山の一つです。
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謹賀新年
多数のご訪問にお礼申し上げます。閲覧数はのべ120万を超えました。
今年が良いお年でありますように祈ります。
人類の課題は多いようです。
1 限りある地球の環境をいかに守るか。経済発展、文明の極端な進歩が良いことなのか・・・
2 自然は時には荒れ狂う。いかに上手に自然の恩恵を受けつつ、自然の脅威から身を守るか。
3 自然環境問題だけでも危険期に入っているのに、 更に人間同士の対立、格差は、人類の滅亡を早めます。
どこかで方針転換が必要です。
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水子地蔵・・・地球の人口問題ともかかわるのでしょうか・・・
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金剛輪寺(こんごうりんじ)は、滋賀県愛知郡愛荘町にある天台宗の寺院。山号は松峯山(しょうほうざん)。地名から松尾寺ともいう。本尊は聖観音、開基(創立者)は行基とされる。西明寺、百済寺(ひゃくさいじ)とともに湖東三山の1つに数えられる。
フリー百科より
歴史琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する金剛輪寺は、寺伝によれば奈良時代の僧・行基の開創とされ、創建は天平9年(737年)または天平13年(741年)と伝える。金剛輪寺の所在地は、昭和の市町村合併以前は秦川村といったことから、渡来系氏族の秦氏とも何らかの関係があったとする見方もある。
その後、平安時代前期の嘉承年間(848 - 851年)には天台宗の僧・円仁(慈覚大師)によって再興されたと伝え、寺では円仁を中興の祖としている。以上の創建伝承を裏付ける確かな史料はないが、伝来する仏像の制作年代などから、平安時代後期には寺が存在したとみられる。平安時代から中世にかけての金剛輪寺の歴史は必ずしも明らかでないが、寺内には平安時代後期から鎌倉時代の仏像が多く残る。本堂の須弥壇金具には弘安11年(1288年)の銘があるが、これは前身本堂のもので、現存する本堂は南北朝時代の再興とみられる。
天正元年(1573年)、織田信長の兵火で湖東三山の1つである百済寺は全焼し、金剛輪寺も被害を受けるが、現存の本堂、三重塔は寺僧の尽力で焼失をまぬがれたという。当寺の本堂をはじめとする中心堂宇は総門や本坊のある地点から数百メートルの石段を上ったはるか奥にあるため、見落とされ、焼き討ちをまぬがれたのではないかという説もある。
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百済寺(ひゃくさいじ) 湖東三山
百済(くだら)の僧 恵慈が導師。同じく道欣が創建。
くだら寺と称した。後、宗派が変わり、百済寺(ひゃくさいじ)となる。
信長は三百坊を焼く。 喜見院池泉回遊式庭園
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湖東三山 ひゃくさいじ
信長と対立して焼き払われた悲劇の古刹です。庭園も有名で、最古の山城とも言われます。
戦いに負けて石などは信長の築城のため持ち去られた。
湖東三山一覧
山号 | 寺号 | 本尊 | 開基 | 所在地 |
---|---|---|---|---|
龍應山 | 西明寺(さいみょうじ) | 薬師如来 | 三修上人 | 犬上郡甲良町池寺 |
松峯山 | 金剛輪寺(こんごうりんじ) | 聖観音 | (伝)行基 | 愛知郡愛荘町松尾寺 |
釈迦山 | 百済寺(ひゃくさいじ) | 十一面観音 | (伝)聖徳太子 | 東近江市百済寺町 |
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フリー百科より
奈良県広陵町の百済寺(くだらじ)
大阪府枚方市にあった百済寺(くだらじ)と異なります
飛鳥時代にあったとされる百済大寺については「大安寺」で検索してください。
滋賀県 ひゃくさいじ
琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する。寺伝によれば、推古天皇14年(606年)、聖徳太子の建立という。聖徳太子は当時来朝していた高麗(高句麗)の僧・恵慈とともにこの地に至った時、山中に不思議な光を見た。その光の元を訪ねて行くと、それは霊木の杉であった。太子はその杉を、根が付いた立ち木のまま刻んで十一面観音の像を作り、像を囲むように堂を建てた。これが百済寺の始まりであるといい、百済の龍雲寺にならって寺を建てたので百済寺と号したという。百済寺の史料上の初見は11世紀の寛治3年(1089年)であり、聖徳太子創建との伝承がどこまで史実を反映したものかは不明であるが、百済寺という寺号から見て、この寺は渡来系氏族の氏寺として開創された可能性が高い。平安時代には、近江国の多くの寺院と同様、比叡山延暦寺の勢力下に入り、天台宗の寺院となっている。
平安時代から中世にかけて、かなりの規模をもった寺院だったようだが、明応7年(1498年)の火災で全焼し、その数年後の文亀3年(1503年)の兵火でも焼け、この2回の火災で創建以来の建物ばかりでなく、仏像、寺宝、記録類なども大方焼けてしまった。さらに天正元年(1573年)には織田信長の焼き討ちに遭い、またも全焼している。当時、この地に勢力をもっていた佐々木氏の一族六角氏は、観音寺城の支城である鯰江城(なまずえじょう)を百済寺の近くに築いていた。信長は自分と敵対していた佐々木氏に味方するものとして、百済寺を焼き討ちした。本堂をはじめ現在の建物は近世以降の再興である。
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永源寺障壁画
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永源寺も紅葉が美しい。 何年か前の11月21日
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何処を回ってもお寺の紅葉が美しい。
良いモミジなどを特別に植栽した歴史を感じます。
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