竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

最終の歌人・家持

2012-01-13 09:41:33 | 日記
 日本人のこころの歌 (7)
 ―私家版・古代和歌文学史
          
 最終の歌人・家持(万葉集四) 

 「万葉集」の巻十七から巻二十までの末四巻は、雑歌・相聞・挽歌の部立を基本とするそれまでの巻と違って、最終編集者とされている大伴家持の「歌日記」であるという人もある。この四巻から、官人・家持の人生の軌跡をたどることもできる。
 730年、家持は、父旅人とともに大宰府から都に帰還した。しかし、その翌年には父が、さらにその後を追うようにして歌の師・山上憶良も他界した。
 746年、家持は橘諸兄のあと押しもあって、50歳の若さで越中守に任じられた。越中での5年間、国守としての任務に精勤しながら生涯の歌の三分の一を超える214首の歌を詠んだ。
 751年、家持は平城京に帰還した。だが、都では、聖武天皇も三年前に譲位されており、律令国家体制に翳りが見え始めていた。光明皇后の後宮を中心に藤原仲麻呂が独裁的な実権を握って、その一派の強引な政策によって、大伴氏などの保守皇親派は没落の危機に立たされていた。
○うらうらと照れる春日に雲雀あがり情悲しも独りし思へば
 753年春2月、家持37歳の詠である。この歌については作者自身で(悲愁の情は)「歌に非ずして撥ひ難きのみ」と、後に書き加えている。
 同じ年に、兵部省の次官として、難波(東国から九州への出港地)で、防人の交替事務にあたっていた家持は、「万葉集」巻二十に、84首の「防人の歌」を採録している。郷里への思慕を切なく率直に吐露した防人の心情は、術もなく廃れゆく自分の青春と大伴家の命運に思いを致す自分の心境と通じあうものがあったに違いない。
 759年、心ならずも因幡守として赴任した、雪に埋もれた国庁での年頭の寿歌
○新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事
には、もはや雪の瑞兆にすがるほかないという心の寂莫がこめられている。奇しくも、この歌が「万葉集」の最末尾の歌になった。
 785年、史実では、この年に家持は赴任先の多賀城で没したが、直後に藤原種継暗殺事件に加担したという嫌疑がかかり、遺骨を路上にさらされたとされている。
それまでの26年間の不遇な晩年には1首の歌も残されていない。

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