ケルベロスの基地

三本脚で立つ~思考の経路

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BABYMETAL探究(ミラーニューロン)

2015-03-28 15:19:13 | babymetal
ミラーニューロン、をご存じだろうか?

今までここで重ねてきた考察は、結果として、

BABYMETALの、とりわけYUI&MOAの「振り」=「演」奏が、今までのヘヴィ・メタル・バンドのヴォーカリストが何となく(あるいはブルース・ディッキンソンやロブ・ハルフォードのように意識的に)行ってきた、表情や身振りを、美少女が踊るという前代未聞・空前絶後のかたちで、見せる=魅せるものとして比類のない高品質で実現したものだ、

ということを確認するものだったのだが、
では、なぜ彼女たちのパフォーマンスはこんなにも「中毒」性が高いのか(こんなブログを書き綴っているのもまさにその症状の一つですね)、
という謎を考えるうえで、ミラーニューロンをめぐる脳科学の知見は、大いに示唆的である。

ミラーニューロンとは、脳神経細胞の一種で、簡単に言えば、踊っているひとを見ているときには僕たちの脳のミラーニューロンが自分が踊っているのと同じように発火している、という性質をもつ。

『ミラーニューロンの発見 「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学』マルコ・イアコボーニ(ハヤカワ文庫NF)には、次のような記載がある。

「私たちの脳にある一部の細胞―すなわちミラーニューロン―は、自分でサッカーボールを蹴ったときにも、ボールが蹴られるのを見たときにも、ボールが蹴られる音を聞いたときにも、果ては「蹴る」という単語を発したり聞いたりしただけでも、すべて同じように発火する。」

この細胞の発見は、とりわけ哲学的なアポリア「他我問題」(なぜ我々は他人のこころがわかるのか?)を根こそぎ粉砕してしまう破壊力を持つものであるのだが、BABYMETALがなぜこれほどメタルヘッズを虜にするのか、を考えるヒントとしてもたいへん参考になる。

BABYMETALを視聴しているとき、僕たちの脳の、他のバンドを視聴している時には活性化されないニューロンが活性化されている。

しかし、それはそれだけなのではないのか?脳の細胞が活性化されるなんて、僕たちの意識の前景にも出てこない、しょせん電気信号の反応に過ぎないのではないか?

ところが、驚くべき、こんな実験結果があるのだ。
「まず被験者に二人の人間が腕相撲をしているところを観察させ、次いで一人の人間がどもりながら音読しているところを観察させて、それぞれの状況における被験者の筋活動を測定した。被験者は額と手のひらと唇と腕に電極をつけられ、目の前の光景を観察しているあいだに各部位の筋活動を測定された。…被験者の唇で記録された筋活動は、どもりながら音読している人を被験者が見ているときに最も高くなった。そして腕の筋活動が最も高くなったのは、腕相撲を見ているときだった!ちょうど実験物理学において、物質が特定周波数のエネルギーによって励起されると振動する傾向があるように、観察者の筋肉も、実際に運動している人間のせわしなく活動する筋肉に共鳴しているように思われた。」
この実験自体は、ミラーニューロンの発見以前のものなのだが、前述したミラーニューロンの存在を考えると、理にかなっている。

つまり、
ミラーニューロンという脳内細胞の活性化は、単に脳内の活動で終わるのではなく、実際に僕たちの筋肉を動かしてもいるのだ。

すなわち、YUI&MOAの「振り」=「舞」踊を観ているとき、僕たちは、ミラーニューロンの発火を経由して、自分が踊っているときに動かす筋肉を動かしている、ということだ。単に、BABYMETALのパフォーマンスは、他のヘヴィ・メタル・バンドよりもビジュアルにおける情報量が多い、というだけではなく、実際に、僕たちの身体を揺り動かすものなのだ。


さらに、BABYMETALの「演」奏には、とりわけMOAMETALによる「表情」もある。

「幸せそうな顔や怒った顔を見ているときの被験者の顔の筋肉の活動」を測定した実験において「人が微笑むときに収縮させる頬の筋肉の活動は、被験者が幸せそうな顔を見ているときに高くなり、人が怒るときに収縮させる眉の筋肉の活動は、被験者が怒った顔を見ているときに高くなったのである。」
「ただ見ているだけの別人の表情を、あたかも私たち自身が浮かべているかのようにミラーニューロンが発火することで、シミュレートされた顔面のフィードバックのメカニズムが実現する。このシミュレーション過程は、努力して意図的に他人の身になったふりをするものではない。苦もなく、自動的に、無意識のうちに行われる脳内ミラーリング(=脳内模倣)である。」


MOAMETALの微笑みを見ているとき、僕たちは、ミラーニューロンの作用で、無自覚に微笑んでいる、のだ。BABYMETALのライヴ映像を観る楽しさ。他に類を見ない多幸感。それは、ここからも来ているのだろう。
あるいは、継続中の『イジメ、ダメ、ゼッタイ』の、プログレッシヴな構成の重要な要素としても、YUI・MOAの合いの手や微笑みがある。基調としての、<悲しさ><戦い><決意><祈り>などのうえに、<笑顔>が絶妙に配置されることで、何度見聞きしても飽きることのない、複雑な味わいが生まれているのだ。
このへんに、BABYMETALの中毒性の秘密がある。(もちろん、楽曲のよさ、SU-METALの歌・声の魅力、神バンドの演奏の確かさ、は、当然のこととしてここでの論考はスタートしている)


舞踊の天使、YUIMETAL。
微笑の天使、MOAMETAL。

おなじみの、このキャッチフレーズは、単なるカワイイキャラクターの設定だけではなく、BABYMETALの「演」奏が与えてくれる、唯一無二の「刺激」の宣言でもあるのだ。

繰り返しになるが、僕は、YUI・MOAの「振り」を、「演」奏だと考える。そこには、とりわけMOAMETALが見せる、微笑みも含まれる。それは、飾り物・プラスアルファの付加価値、というよりも、脳内のミラーニューロンを介して実際に僕たちの身体を揺り動かすという意味で、真の「演」奏なのである

BABYMETALを考える・語る際に、早くこのことが共通の認識として定着すればよいのに、と思う。













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BABYMETAL探究(舞踊考6)

2015-03-22 13:41:44 | babymetal
BABYMETALを観るのに慣れると、他のヘヴィ・メタルのライヴ映像が物足りなくなる、という想いを持つことが多くなる。例えば、ドリーム・シアターの「Braking the Forth Wall」。購入後、まだ最後まで観通せていない。とりわけ、ジェイムズ・ラブリエのパフォーマンスが、何ともだらだらしたものに感じられて、耐えられなくなり、途中でディスクを止める、というのを繰り返してしまっている。

(ヘヴィ・メタルにおける)ヴォーカリストとは何なのか?ということを、BABYMETALに出会ってから改めて考えるようになってしまった。

もちろん、ヴォーカリストは、歌を唄うのである。
でも、それだけなのか?
『メタル・エヴォリューション』でも触れられていたが、例えば、ブルース・ディッキンソンや、ロブ・ハルフォードは、単に歌を唄うだけでなく、ヴィジュアルを含めたもっと多次元の情報を観客に与え、観客の想像力を刺激・解放・搖動しようとしているのであったはずである。
あるいは、こういう言い方もできるだろう。
マイクスタンドの前でずーっと直立不動の姿勢を撮り続け、歌のみを唄うヴォーカリストなどはいない。どんなヴォーカリストでも、歌を唄う際には、必ず身振り手振りをまじえつつそうするのだ。

それは、僕たち人間の本性だ。僕たちが話すときには、表情や身振り手振りを交えながら話すのであり、言葉のみを発するということは、通常は、ない。

『言葉は身振りから進化した』(マイケル・コーバリス著)には次のような、(BABYMETALを考える上で)示唆的な記述がある。

「心理学者のデビット・マクニールは…ジェスチャーが常に音声言語と同期することを示していた。つまり、音声言語とジェスチャーは一つの統合されたシステムを作りあげていることを示唆している。彼はジェスチャーを二種類に区別した。一つは、「区切りジェスチャー」あるいは拍子やバトンと呼ばれる、特定の意味はないが強調のためのものだ。…一方、アイコン的ジェスチャーは、指示的ジェスチャーとも呼ばれるもので、しっかりと意味を伝達する。」

「音声言語が進化したのは音声と手の動きが異なる目的で使われるようになり、しかも補完的に働くようになったからだ。音声言語は統語情報の伝達に極めて適している。アイコン的、あるいは模倣的要素がないからだ。しかもこの役目を手や腕に任せてしまうことが可能だ。手と腕は当然ながら言語の模倣的な側面を表現することに適応している。かたちや大きさをアナログ的に伝えることにも向いているし、移動の方向を示すことも得意だ。「あいつはそっちに行ったよ」というときの指さしジェスチャーが典型的な例だ。声に文法的な要素を担ってもらうことで、手は自由を獲得し、模倣的な表現を担うようになったのだ。」

書名にもあるように、マイケル・コーバリスは、言葉の添え物として身振りがある、という見解を否定し、まず(時に声を伴う)身振りによる意思伝達があり、そこから音声言語がいわば引き剥がれて独立した、という見解に立っている。
BABYMETALで言えば、YUIMETAL・MOAMETALの「振り」=舞踊とSU-METALの唄とははじめから一体化したBABYMETALの「演」奏であり、そこから引き剥がれて独立したのが、例えば「紅月」などのSU-METALのソロだ、ということになる。
これは極めて僕たちの実感に近い説明だと思う。

つまり、「歌詞を楽器隊の演奏に載せて、抑揚・感情表現をまじえながら発声する」ことがヴォーカリストの役割だ、と僕たちは思いがちだが、それは実は抽象化(すなわち捨象化)した認識であって、
実際には、「歌詞を楽器隊の演奏に載せて、身振り・手振り・表情、とりわけ発声によって抑揚・感情表現をまじえながら観客に届ける」のが、ヴォーカリストの(本人の意識・無意識に関わらず、実際におこなっている)役割なのである。

BABYMETALはそのヴォーカリストの役割を、3人の美少女によるとんでもない超絶技巧「演」奏において実現しているのだ(MOAMETALのあの表情(顔芸)も、だから、本来のヴォーカリストの役割の増幅なのだ)から、他のヘヴィ・メタル・バンドの、とりわけヴォーカリストのパフォーマンスが物足りなく見えてしまうのも仕方がないのだろう。しかも、BABYMETALは、単なるトリプル・ボーカルなどでは全くなく、Vocal&DanceとScream&Dance×2、という立体的な構成である。とんでもない次元へ飛翔した真の意味でのヴォーカル・ユニットが、ヘヴィメタル界に降臨したのだ。


歌詞について考えるうえでも、『言葉は身振りから進化した』は示唆的だ。

「われわれの会話に出てくる対象物、行為、そしてそれらの性質の圧倒的多数は音と全く関係がない。」
「声を組み合わせてできる音はそもそも、世界にあるものや、そこで起きる出来事をそのままに表現できない…。音声言語は本質的に線形なもので三次元空間を表現することはほとんどできない。」
音声言語にはもともとアイコン的な部分が全くない。つまり、抽象的な意味を伝達するために存在するシステムなのだ。」


例えば、『イジメ、ダメ、ゼッタイ』を、SU-METALの歌だけで聴いたとしたならば、そこにあるのは、抽象的な歌詞による、道徳的な(?)メッセージだ。そこには、(まだ考察途中だが)僕たちが愛聴する『イジメ、ダメ、ゼッタイ』の、あの眩暈をおぼえるような多次元の輻輳する魅力はない。それが、他のヘヴィ・メタル・バンドの映像ディスクに感じるようになってしまった平板さ、なのかもしれない。

『言葉は身振りから進化した』から、さらに二つ、面白い箇所を引く。

音声言語は…音のジェスチャーの組み合わせだと考える方が適切だ。声道にある六つの独立した調音器官生み出される音のジェスチャーである。この六つの調音器官とは唇、舌の先端(舌端)、舌全体、舌の付け根、軟口蓋、咽頭である。これらをさまざまに組み合わせて使うことで単語を発声できる。」

そもそも言葉もジェスチャーであり、それを極端なかたちで「増幅」して見せ(&聴かせて)ているのがBABYMETALだ、とも言える。(彼女たちの「演」奏を、ダンスと呼ぶことへの僕の違和感は、このへんに大きく関係しているようだ)。

「霊長類の進化それ自体、視覚世界を第一に進化してきた。これには数限りない証拠もある。実際われわれも猿も非常に洗練された視覚システムを有している。そのおかげで世界をフルカラーの三次元で見ることができるのだ。運動や操作を通して世界を探索する複雑なシステムが備わったのもこのおかげだ。」

かつて、ほとんど音盤のみでしか音楽に触れられない時代が長くあった。もちろん、ライヴ会場にいけば、必ず「視覚世界」がそこにはあるのだが、しかし、それはむしろ例外的な視聴形態であり、根本は、まず聴く、ことだ。これは、現在にも引き継がれているところはあるだろう。
しかし、今や、ネット経由で、音だけではなく「視覚世界」までも簡単に届く時代になった。(今までも、ビジュアルをめぐるヘヴィ・メタル史のさまざまな「事件」はあった。『メタル・エヴォリューション』考察でも今後触れることになる…)。
そういう意味で、BABYMETALの出現は、ヘヴィ・メタル史の必然だったのかもしれないし(もちろん、出現した後だからこう言えるのであって、真に革新的な存在は、衝撃・驚愕・なんじゃこりゃ感を伴って出現するのである)
そして、BABYMETALは、また、人間の、ジェスチャーと言葉をめぐる関係の、根源への回帰、を僕たちに観せてくれているのかもしれない。
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BABYMETAL探究(舞踊考5~イジメ、ダメ、ゼッタイ4)

2015-03-17 00:52:54 | babymetal
昨夜のWOWWOWの放送、すぐにBDにして、ポータブルBDプレイヤーで数回繰り返して観たが、最新版のBABYMETALの素晴らしさを、(量的には十分ではないけれど)味わうことができた。
初期の、(あえて言えば)「チープな豪華さ」みたいな楽しさから、「ゴージャスな豪華さ」へとグレード・アップしている印象を受けた。

『イジメ、ダメ、ゼッタイ』では、何と言っても、パートⅤ間奏その2での、ふたりのバトルにおける、YUIMETALのジャンプが凄い。が、その後の、MOAMETALのとんでもないのけぞりも凄い。
初期の映像では、必ずしりもちをついていたところだが(LEGEND Z の1曲目でもしりもちをついていたから、この曲を「演」奏するのが毎回の公演の終盤であったために体力の限界のためのしりもちだった、というだけでもなかったのだと思う)、こんなとんでもない動きをするようになったのだ、と、その進化ぶりには改めて目を見張った。
繰り返しになるが、YUI・MOAの「振り」は、プラスアルファのおまけではなく、BABYMETALのヘヴィ・メタルとしての「演」奏だと僕は考えているのだが、そういう観点からすれば、BABYMETALの「演」奏は、海外での経験を通じて、とんでもないレベルへと高まっているのだ。それを目の当たりにした。

さて、このブログを書くために、少しずつダンスの本などにも目を通しているのだが、『ダンスの創作過程』(アイリーン・ロックハート、エスター・ピース著)という本の中に、ダンスの<動きの質>として、次のような区分があった。
A.スウィング(swinging)
B.持続的 (sustained)
C.衝撃的 (percussive)
D.停止系列(suspended)
E.震動系列(vibratory)
F.崩壊系列(collapse)

これが標準的な区分なのか、この書独特のものなのか、よくわからないが、BABYMETALの「振り」には、これらのさまざまな<動きの質>が組み合わされて、さまざまな感覚・感情を誘発するものになっているのだろう。特に、C、E、Fあたりは、なるほどこういう区分の仕方があるのだなあ、と納得したのである。…参考文献も手さぐりです。

さて、以前に行なった区分に従って、『イジメ、ダメ、ゼッタイ』の「振り」=「演」奏の分析・探究を、ちょこっとずつ続けていこう。(手持ちの映像では確認しきれないところもあるので、例えば、5月発売のLONDON2公演のディスクを観て、確認できるところが増えれば後で手を加えていくかもしれません。)


パートⅠ イントロ
01:Intro1(16小節+αタメ) 
ピアノのイントロから、SU-METALの「ルルルー」の歌、後のタメまで。
YUI・MOAがスタートラインにつく。

02:Intro2
激しいリフ。
SU-の「X」ポーズ。左手にはマイクを持ち、右手ではフォックス・サインをしている。
YOI・MOAは、クラウチング・スタートのスタンバイ姿勢。SU-が、(観客から向って)左を見ながら腕を突き出し、右を見ながら腕を突き出す。YUI・MOAを確認。(おそらく、YUI・MOAがSU-に対して「いくぞ~」と片手を突き出して応えているようだ)。(ここまで4小節)。
もう一度、SU-の「X」ポーズ。腕を孤を描きながらほどき、ジャンプして、
「アー!」このときも、右手はフォックス・サインをしながら伸ばす。(4小節)
YUI・MOAの疾走→2度交差して中央へ(8小節)

03:Intro3 3姫のユニゾンで、ターラ・ラーラというギターに合わせて
ステップ・ステップ、指さした腕をぐるっとまわして観客を指す。(2小節)
くりかえし。(2小節)
右手をフォックスサインにして挙げ、右を見てぴょんぴょんぴょんぴょん、(2小節)
左を見てぴょんぴょんぴょんぴょんジャンプ(2小節)
三姫とも「X」ポーズでキメッ、手をほどく(2小節)

この後も、たびたび登場する「X」ポーズだが、その意味するところは、この曲においては、何と言っても、「ダメ」、だ。イントロ前半で、SU-が2回、イントロの終わりで三姫いっしょに1回行う。
<動きの質>では、ここはD.停止系列であり、前半はYUI・MOAの疾走スタートへの緊張感を高め、イントロの終わりでは、イントロ部の完結と、続く「駄々っ子ヘドバン」との緩急のコントラストをつくる。歌詞の「ダメ」と、停止系列の動きとはほぼイコールである。

また、この「X」ポーズは、この曲に限らず、BABYMETALの典型的なキメのポーズの一つであり、実に美しい。とりわけ、僕が魅せられているのは、「赤い夜」ライヴでの「BABYMETAL DEATH」の冒頭のSU-METALのこのポーズだ。顔は隠されて見えないのだが、何とも言いようのない神々しい美しさである。(追加訂正 「BABYMETAL DEATH」が、「イジメ、ダメ、ゼッタイ」のキメポーズを引用している、というのが正しい説明ですね。)

以前にも触れたが、この「X」ポーズだけでも単に歌詞の表現だけではない多層的な次元の表現になっている。言語化できるのはその一部でしかないのだろう。

それから、この曲の「演」奏は、三姫の結束という、いわば、メタ・レベルでの表現にもなっている。つまり、「イジメ、ダメ、ゼッタイ」という歌詞の表現世界での結束とは別に、いまステージに立ち演奏している三姫の、結束を、この後もたびたび「振り」の仕方として明示しているが、YUI・MOAの疾走前のSU-とのやりとりがまずそうした次元になっているため、その後の「演」奏全体が、例えば三姫のユニゾンが単なる「演」奏上のユニゾンではなく、背景にある人間的な「絆」をも(そこまで観客が意識の前景におかないにせよ)感じさせるものになっているのではないか。

YUI・MOAの疾走は、楽器隊、とりわけベース・ドラムスの打数の多さとあいまって、まさに「疾走」チューンであることを、ビジュアルとして、肉体の動きとして示している。
脳科学的には、「ミラー・ニューロン」などと言われるが、僕たちがアスリートの動きを見ていると心身がそれに同調するように、実際にYUI・MOAの疾駆を見ると、楽器だけを聴くのとは異なる次元での疾走を感じるのだ。
(ミラー・ニューロンについては、いつかまた触れたい)。
「疾走」チューンに合わせて走るダンスをしている、のではなく、YUI・MOAの「疾走」という「振り」がより強い・深い次元でこの曲の「疾走」を観客に伝えている、のである。
また、YUI・MOAが二回交差するのは、2つの「X」を描くのだ、と見ることもできるかもしれない。大・中・小さまざまな「X」をさまざまな動き・次元において描くのは、他にも例えば「4の歌」でもみられる、緻密な「振り」の構造である。


パートⅡ いわゆる「一番」の歌詞
04:A 「ゆめをみること~もてなくて」
YUI・MOAが向い合い、いわゆる「駄々っ子ヘドバン」(2小節)
腕をやわらかくスイング(2小節)
「ひかりと~ひーとーりー」
繰り返し(2小節+2小節)

『イジメ、ダメ、ゼッタイ』の「振り」の、最大の見せ場の一つが冒頭にやってくる。YUI・MOAの「駄々っ子ヘドバン」は、常軌を逸している「振り」だ、と初めて見たときから感じた。顔を地に向け、だらんとさげた腕を振りながら、必死に首を振る、荒ぶる・激しい、というより、狂気、に近い「振り」。
歌詞も「絶望」の表現だし、コード進行も、C#m→B→A→G#m→F#m→Eと、下降をたどる(実際のベース音はオクターブの関係で実音として下がっていくわけではないが)ことや、ギターのハードなリフとも相まって、鬼気迫る絶望感、を僕は感じる。
「ダメ」ということのまた別の形象化なのかもしれないが、YUI・MOAが向き合っている配置から、「イジメ、ダメ」ではなく、「わたし、ダメ」という閉塞感を感じる。

先取りになるが、短い間奏の後のパートⅣ09:F「なみだみせーずーに~」はいわゆる2番にあたるところで、コード進行や歌メロは04:Aの繰り返しになっているのだが、楽器陣やYUI・MOAの「振り」は全く異なる、「祈り」を感じさせるものであり、その静謐さ・聖なる感じがひきたつのも、この04:Aでの、「駄々っ子ヘドバン」という常軌を逸した「激しい振り」があるからだ。
MOAMETALが脚でリズムをとっているのに、YUIMETALはそうではない、という非対称が目立つが、それも、この「振り」のなりふり構ってられない追いつめられた必死さというものを僕たちに感じさせる要因のひとつだと思う。揃っていないことが「演」奏として有機的に機能しているのである。

(つづく ちょこっとずつ、つづけていきます)



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BABYMETAL探究(『メタル・エヴォリューション』04)

2015-03-15 00:07:31 | babymetal
(当方、幕張、落選DEATH!涙・涙・涙…。でも、神様(キツネ様)が、今回は自重しろ、とお告げしてくれたのだ、と考えて、今回はきっぱりあきらめ、すでに予約していた幕張のホテルもキャンセルしました。当選された方、おめでとうございます!海外を巡ってきたBABYMETALの雄姿を拝める、凱旋コンサート、存分に楽しんでください!)

さて、『メタル・エヴォリューション』の考察の、第4話編である。
『M・E』も、前回までは、いわば「前史」という趣だったのだが、この第4回は、いよいよ「N.W.O.B.H.M」の回、御大アイアン・メイデンのデビュー当時や、ヴォーカルがポールからブルースに交替するあたりをめぐる関係者の談話も満載の、ヘヴィ・メタルの本史に突入する、これまた実に観応えのある回であった。

視聴しながら、ひしひしと感じたのが、アイアン・メイデンとBABYMETALとの大いなる共通性だ。以下、そのへんを中心に、特に感銘を受けた内容をいくつか書き記したい。

1.道なき道を切り開き

 アイアン・メイデンが80年にアルバム・デビューするまでずいぶんと辛酸をなめた旨を、スティーヴ・ハリスが語っている。

(なぜアルバムを出すのに時間がかかったか?と問われて)
「俺たちは、パンクの前からやっていたけど、77年辺りにパンクに火がついてね。ライヴ・ハウスはパンク・バンドだらけだった。」


(半分は茶化しながら)サム・ダンが「パンクにはどんな影響を受けましたか?」と何度も訊き、スティーヴが「すべてが大嫌いだった。パンクになんて全く影響を受けていないよ。」と繰り返し応えている。忌まわしい「原風景」としてスティーヴ・ハリスの脳裡には光景がこびりついているのかもしれない。

今や、ヘヴィ・メタルのまさに「典型」・代名詞ともいえるアイアン・メイデンだが、彼らは、ヘヴィ・メタルの土壌などなかった時代に、彼らの楽曲・パフォーマンスによってヘヴィ・メタルを観・聴く観客や状況をつくりあげてきたのである。彼らもまた「突然変異」と「自然淘汰の過程での生き残り」=進化の過程をたどってきたのだ。
実際、アイアン・メイデンのデビューの衝撃をリアルタイムで体験した僕には、彼らが、新たな道を切り開いて登場してきた、ということは実感として腑に落ちる。
道の方向は違えども、これはBABYMETALの現在進行形の姿と重なる、と僕は考える。

アイアン・メイデンはまさにヘヴィ・メタルの典型だと信奉し、BABYMETALはそうしたヘヴィ・メタルではないから認めないという「メタル原理主義者」とは、実は、アイアン・メイデンの凄さもほんとうには理解していないのだ。優れた先人たちは、常に、道なき道を切り開いてきた、のである。

「BABYMETALというジャンルをつくりたい」というSU-METALの発言については以前に考察したが、このスティーヴの発言に照らし合わせれば、「私たちも、新しい土壌を切り開く覚悟をもっているのDEATH!」ということなのだ、と僕は理解する。


2.ライヴ・パフォーマンスの圧倒的な説得力
 
 上記のような状況の中、ライヴ・ハウス「バンド・ワゴン」のDJニール・ケイに渡したカセット・テープがきっかけで、アイアン・メイデンは熱狂的なファンを増やしていく。(現在なら、YOUTUBE、か)。そして、アイアン・メイデンの飛躍をある意味決定したのが、大手レーベルのEMIとの契約だった。それは、それまでアンダー・グラウンドだったN.W.O.B.H.M.を表舞台に押し上げる画期的な出来事だった。しかし、EMIは、パンク全盛の時代になぜアイアン・メイデンと契約したのか?

(どうしてEMIは契約に踏み切ったのですか?何かビジョンがあったのか?それとも、あなたが強烈にプッシュしたの? とサム・ダンに問われて)
アイアン・メイデンのマネージャー、ロッド・スモールウッドの語り
「彼らが目にしたのはただ一つ。満員の観客が熱狂している姿だ。」


実に、かっこいい台詞だが、これが彼らをめぐる「真実」である。これも、BABYMETALと姿が重なる。(アイアン・メイデンの初期における一つのエポックが、レディング・フェスでの3万人に最高にウケたパフォーマンスであったようだ)。


3.「エディ」とは何なのか?

 1stアルバム「鋼鉄の処女」のアルバムのインパクトは、あのエディの顔が与えている。スティーヴも、エディがアルバム・ジャケットであった効果をしみじみ語っていた。それは、(「メタル原理主義者」が見逃しがちな、あるいは、語らないところだが、)ヘヴィ・メタル・バンドにおいても、”キャラクター”のイメージのもつ大きな意味合いがある、ということについてである。

ロッド・スモールウッドの語り
「バンド・メンバーを使って、恐ろしい写真を撮れないことはわかっていた。メイデンはクールでもないし、恐ろしくもない。メイデンの全ては音楽が語ってるからさ。ロジャー・ディーンがイエスでやったようなイメージ戦略が必要だったと思ったし、俺はそれを1つのキャラクターでやりたかった。」


以降、アルバム・ジャケットだけではなく、ライヴ・ステージでもエディは大活躍をする。しかし、改めて考えてみると、アイアン・メイデンの音楽と、エディというキャラクターとは、直接は関係はない。しかし、アイアン・メイデンのアイデンティティーの一部をエディが形成しているのは間違いない。
BABYMETALは、アイアン・メイデンの”エディ性”を極端に前景化したのだ、と見ることもできるだろう。そして、アイアン・メイデンとは違って、その”キャラクター”イメージを音楽性と融合したその先鋭性こそ、BABYMETALのヘヴィ・メタルにおける革新性である。

(また、2.3.を合わせて、マネージャー、ロッド・スモールウッドの役割の大きさ、を僕はこの番組で初めて認識したのだが、これも、それを極めて前景化したのが、BABYMETALにおけるKOBAMETALだ、ということになる。)


4.劇的なヴァージョン・アップ

アイアン・メイデンのヴォーカルが、ポール・ディアノからブルース・ディッキンソンに変わったことは、彼らをいわばローカル・ヒーローから全世界的カリスマへと変えるきっかけになった。

ブルース・ディッキンソンの語り
「ポールの声は凄く荒削りで、凄くユニークなスタイルで魅力もあったよ。でも、どこまでいけるかは疑問だった。スティーヴはもっと幅の持った声が欲しいと考えるようになったんじゃないかな。」



もちろん、ここで僕は神バンドのことを思う。映像作品を見ても、骨バンド時代のアテ振りでも、充分に面白いし、唯一無二のパフォーマンスだと思う。しかし、僕たちメタル・ヘッズが、いま、これほどまで彼女たちに魅せられているのは、言うまでもなく、神バンドが加わったからだ。圧倒的に表現力・説得力が増した。

キャリアの、(願わくは)初期における、劇的なヴァージョン・アップ。ここでも、アイアン・メイデンとBABYMETALは、僕には重なって見えるのだ。


番組は、最後に、アメリカで成功したデフ・レパードといういわばN.W.O.B.H.M.の”鬼っ子”についても突っ込んで語っていた(ビジュアル、オーヴァープロデュースの問題)が、これはまたいつか機会があれば考察したい。
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BABYMETAL探究(舞踊考4~イジメ、ダメ、ゼッタイ3)

2015-03-12 15:59:25 | babymetal
『イジメ、ダメ、ゼッタイ』の、
舞踊=「振り」と、歌詞との、関係を考えてみたい。


その関係は、大別して、次の三種類に分けることができそうだ。
(考察を進めて行くなかで、さらに細分化が必要であれば、その都度行っていくことにする。特に何か目的があって書いているわけでもなく、楽しみでやっているだけなのだから、じっくり丁寧に考えていこう)。

<「振り」の歌詞との関係>

a.歌詞の表現(「イコール」の振り)
b.歌詞と立体的に関係(歌詞との「掛け算」)
c.歌詞とは無関係(「リフ」「リード」などの役割)

aとは、いわば、歌とのユニゾンだ。あるいは、五度上の完全音程を重ねるパワーコード的な構造によって、耳で聴く歌詞を増幅する役割をはたす「振り」だ。

bとは、歌詞とは異なる表現による「振り」によって、「演」奏をより立体的にするものだ。例えば、歌詞として「悲しみ」を歌っていても、それをYUI・MOAが笑顔をふりまく「振り」で「演」奏していたら、その「掛け算」によって複雑なニュアンスが発生する。

cは、イントロや間奏、アウトロでの「演」奏であり、また、歌詞が歌われている箇所であっても、歌詞の表現する世界とは無関係に、例えば、楽器隊と連動したり、リズムをビジュアルで増強する「振り」だ。とりわけ、この曲の「演」奏における「X(ダメ)」はまた、あの「X(エックス)」へのオマージュであろうから、歌詞の世界から離れた分析視点は必要である。

もちろん、ある「振り」が、a・b・cのどれなのかは、観る側の主観的な判断によるところがあることは言うまでもないし、必ずしもきれいに区分できない「振り」もあるだろう。ただ、微細な線引きは別として、かなりのところまでは客観的な区分ができそうに思う。

その前にひとつ、『イジメ、ダメ、ゼッタイ』の歌詞自体の持つ複雑さ・多次元性について軽く解きほぐしておく必要があるだろう。

BABYMETALの楽曲のなかでも、一般世間の目に曝される機会(地上波TVでの演奏など)がいちばん多い曲であるのだが、タイトルを見て・楽曲をざっと聴いたら、「イジメ撲滅を訴える倫理的な歌」だと思われるだろうし、しかし、本当に真剣にそれを訴えている曲だとも思えない(とりわけ、YUI・MOAの合いの手や「振り」)から、イジメをネタにした歌詞やダンスをメタル風の曲に載せた話題性狙いの(あざとい)アイドル楽曲だ、と思われてしまうかもしれない。

そうした危険性をもはらんだ多層構造としてこの曲の歌詞自体が作られているのだ、と僕は考える。

<『イジメ、ダメ、ゼッタイ』の歌詞の構造>
(あ)イジメはゼッタイだめだ、というメッセージ
(い)BABYMETALのメタル・レジスタンスの宣言
(う)意味性を超えた、音「楽」としてのリズム・音・声の媒体

いちばん表層にある(あ)においても歌詞にかなりのねじれがあるので、それは、この後詳しく考えたいが、この曲を聴いて普通にまず理解されるのがこの次元であることは言うまでもない。実際に、ライヴの演奏でも紙芝居では「いじめ、だめ、ぜったい」を意味する(あ)の次元のメッセージが流される。本当は(い)であって(あ)ではないのだ、という言い方は、したがって間違いだ。明らかに(あ)の層の意味をこの曲の歌詞は孕んでいるのである。

(い)については、PVに象徴的に表わされている。いじめられている(抑圧・スポイルされている)のは、「燃やされるフライングV」に象徴されるメタル・メタラー(ロンゲのひげのおっさん)なのであるし、ライヴではウォール・オヴ・デスが煽られる。ある意味では抑圧されたメタラーたちへの一体化の呼びかけ(つまり、アンセム)でもあるのだ。

(う)「きつね(飛べ)きつね(飛べ)きっと飛べるさ」という歌詞は、もちろん、(い)の次元にあるのだと捉えることもできるが、実際に僕らがこの曲を聴くときには、そうした意味を理解することなく、音やリズムや声を味わっているのだ、と言った方が実体験に即しているのではないだろうか。
歌「詞」は、歌「詩」でもあり、散文的な意味を伝えることを超えた、(例えば中原中也の「ゆあーんゆよーんゆよやよーん」のような)”言葉のダンス”でもある。フォックスサインを作った三姫が飛びながらこの歌詞を歌う(a)楽しさは、(い)(う)にあるのであり、もっと言えば、(あ)として歌詞を聴いてきた聴き手のアタマが「?」となる仕掛けの面白さでもあろう。

(あ)のねじれについて。

歌詞の冒頭A「夢を見ること それさえも持てなくて~見つづけてくれた あなた」は、イジメを受けている側からの歌詞だと理解できるが、B「自信(持って)持てずに(負けないで)~自分サヨナラ(バイバイ!)」のパートでは、それが二重化される、SU-の歌は冒頭からのいじめられている側による歌とも理解できるが、YUI・MOAの合の手は発話主体の外にある。そして、C「イジメ(ダメ!)イジメ(ダメ!)カッコわるいよ(ダメ!ダメ!ダメ!ダメ!)」とは、SU-の歌もいじめられている側からは離れている(いじめられている本人が「イジメはカッコ悪いからダメ!」などとは言わないだろう)し、続く「傷ついて傷つけて傷だらけになるのさ」も、視点が混在している。それがC終わりの「君を守るから」にまで至る。ここは明らかに外からの視点になっている。

歌「詞」が「詩」であるとは、単線的な意味に回収されない、ということである。英語の歌詞を聴きながら、(もちろんところどころ意味はうっすらと理解はしながらも)僕たちはその歌詞そのものの音やリズムや声を楽しんでいるのであって、(「Kill the King」は「王を殺せ」であるよりも「キル・ザ・キング」であり、「Rock Bottom」は「どん底」であるよりも「ロック・ボトム」であろう。)僕たちメタルヘッズは、そのようにしてヘヴィ・メタルの楽曲を受容してきたはずなのだ。BABYMETALの歌詞も、そのように受け取られるように作られている。
ただし、BABYMETALの歌詞が日本語であるということは、僕たち日本人にとっては、「意味」による理解が強くなってしまう(意味がわかってしまう)ということであり、それを無化・二重化・転覆させるために、YUI・MOAの「振り」(のひとつの役割)があり、歌詞そのものに、多重化・ねじれた構造が埋め込まれているのだ。

ということをふまえて、a・b・cを分析してみよう。
(つづく)



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