ケルベロスの基地

三本脚で立つ~思考の経路

BABYMETAL探究(カワイイ(kawaii)考1)

2015-04-27 23:45:03 | babymetal
BABYMETALの読み方が、「ベイビーメタル」ではなく「ベビーメタル」であるのは、「ヘヴィメタル」と掛っているからだ、と説明されるのだが、このへんの定義の、ダーク・ゾーンにも、BABYMETALの「奇跡」のひとつが潜んでいるような気がする。
「奇跡」とは、偶然でありながら運命を決定づける必然的な出来事のこと、であるならば、BABYMETALの道のりには「奇跡」が実に数多く埋まっている。
(数多いのなら、もはや「奇跡」とは言えないのかもしれないが、そうとしか言いようのない物語がいたるところにある、というのがファンの実感だろう。まあ、ファンとは本来そうした思いを抱いてしまう存在なのだろうけれど、それにしても…である)

BABYMETALのBABYとは、「新しいメタルの誕生を意味する」等と言われるが、それは「ベイビー」ではなくて「ベビー」だというこだわりの説明にはならない。「ベイビーメタル」でも、「新しいメタルの誕生」の意味には変わりなく、むしろ、その定義は「ベイビー」の方がより鮮明になるのではないか。
(だいいち、誕生児の「BABY」であれば、正式にはやはり「ベイビー」と発音すべきであって、それを「ベビー」だとは強弁できないはずだろうし。)

とすれば、BABYMETALを「ベビーメタル」と読むのは、それが、<BABY=ヘヴィ/ベビー>という次元の異なる二重性を同時性として感じとる、という、いわば「掛詞(かけことば)」だからだ、ということになるのではないか。
そして、名は体を表す、という言葉のとおり、この<BABY=ヘヴィ/ベビー>という「掛詞」性とは、まさにBABYMETALそのものの存在の本質であり、それこそが、BABYMETAL(とりわけYUI・MOA)が体現している「カワイイ(kawaii)」なのではないか。

もう少し、ときほぐしてみよう。

(前回も触れたが)どちらも衝撃的である、BABYMETALとピンクレディーの「振り」の質の違い。
それは、この<BABY=ヘヴィ/ベビー>の有無ということでもある。
単に演者が幼いか大人かということではなく、ベビーであると同時にヘヴィであるという二重性を持つ、ということ。しかも同時に、そのヘヴィとは、すでに体現されてきた既存のヘヴィメタルのヘヴィではなく、ベビーとの二重性を持つ新たな質のヘヴィであること。
その新たなヘヴィこそが、BABYMETALの体現している、革新的な「カワイイ(kawaii)」なのではないのか。

革新的な「カワイイ(kawaii)」って、何?と問われたら、YUI・MOAを見よ、といえば足りる。あのキレキレの「舞踊」こそが、<BABY=ヘヴィ/ベビー>である「カワイイ(kawaii)」の意味の内実だ。
言葉の意味とは時代とともに変遷する。
「カワイイ(kawaii)」という言葉は、BABYMETALの出現によって、新たな領域へと意味の射程を広げた、とも言えるのではないか。

ただし、新たな領域へ進んだ、といいながら、BABYMETALにおける「カワイイ(kawaii)」は、古語から連なる本来の意義も色濃く保っているように思われる。日本語の「かわいい」とは、本来、表面的な「プリティ」の意味ではなく、見ていて胸がしめつけられる・涙が出てくる、そんな気持ちこそが本義だったのだ。
ちなみに、岩波古語辞典の訳語には「可憐」の語も挙げられている。「可憐」の進化形としての「カワイイ(kawaii)」とは、まさにBABYMETALそのものではないか。

そして、問題はむしろここからである。

ロックの精神とは、本質的に、反抗・反逆、であろう。そして、ヘヴィ・メタルとは、そうしたロックの精神を、音、歌詞、ビジュアル等において、際立った激しさ・重さとして先鋭的に具現化し表現する音楽であるはずだ。

そうした見方において、<BABY=ヘヴィ/ベビー>メタルとは何なのか、を考えると、この「掛詞」性は、ヘヴィメタルの文脈のうえでこそ極めて反抗的・反逆的である、ことがわかる。
つまり、ポップミュージックならばともかく、ヘヴィメタルにおいて<ベビー>であることは、”ありえない(ありえなかった)”過激さ、すなわち際立った<ヘヴィ>ネスを持つ、のだ。
仮に、アイドルという言葉を使うならば(アイドルとは何か、も、考えなければならない最大のテーマのひとつだが)、アイドル界においては当たり前であるアイドルであることが、ヘヴィメタルにおいては、そのヘヴィメタルの既存の存在様態に対する反抗的・反逆的なありようとなる。
多くのメタルヘッズたちが、BABYMETALに遭遇した際に、「なんじゃこりゃ!」感や拒否反応、さらには「メタルをなめるな」という怒りを引き起こされる、ということは、それだけ<BABY=ヘヴィ/ベビー>が、ヘヴィメタルの文脈のうえでは反抗的・反逆的だ、ということの証である。

そうしたことを反省的に感じることができた(実態としては、BABYMETALの「演」奏に、完膚なきまでに打ちのめされ、ハートを鷲掴みにされた)メタルヘッズが、BABYMETALを(今まで見たことのないとんでもないカタチだからこそ)まぎれもなくヘヴィメタルだ、と認める、というのがBABYMETALのヘヴィメタルの文脈のうえでの受容のされ方ではないだろうか。
逆に言えば、「オーセンティックなヘヴィメタル」という概念にしがみついていた自分自身とは、まるで「由緒正しい不良らしい不良」に憧れる中学生のよう(そこにあるのは真の反抗・反逆ではなく、既存の<らしさ>への耽溺だ)でしかなかったのではないか、と、いわば自家中毒に陥っていた自分に気づく、ということだ。
そんな価値観の変容を、<BABY=ヘヴィ/ベビー>メタルという挑発的な存在は、メタルヘッズに突きつけてくるのだ。
<BABY=ヘヴィ/ベビー>の「掛詞」的二重性の「カワイイ(kawaii)」とは、そうした破壊力を持っている。


そして、さらに、「BABY」を「ベイビー」ではなく「ベビー」と読むのが、<日本語的>読み方であるならば、ここにも、BABYMETALの最大の本質のひとつが露呈しているはずだ。
もちろん、単に、「演」者の国籍とかの話ではない。
こんな<ヘヴィ/ベビー>メタルなんてものは、日本でしか誕生しえなかった、という意味で、だ。

つまり、『メタル・レボリューション』に至る前2作『メタル ヘッドバンガーズ・ジャーニー』『グローバル・メタル』でも、たびたび触れられていた、ヘヴィメタルの受容の、日本の特殊性に関わるポイントだ。

前述したような、過激な反体制・抵抗というヘヴィ・メタル音楽の性質は、日本においては稀薄である。日本人は、そうしたスタイルも込みで、「音楽」としてヘヴィメタルを楽しんでいる。これは、僕たちにはあまりにも当たり前過ぎて自覚できないのだが、ぜひ機会があれば、特に、『グローバル・メタル』を観ていただきたい。僕たち日本でのヘヴィメタルとは、世界の多くのメタルヘッズたちにとってのヘヴィメタル(マイノリティである自分たちにとっての反抗・反逆的な生き方のシンボルでもある)とは異なるのだな、ということが実感できるはずである。

『メタル ヘッドバンガーズ・ジャーニー』の特典映像のなかに、インタビューを受けていた二井原実が、「日本では、ミュージックを「音楽」って書くんだ。」と、サム・ダンたちに向けてわざわざ紙に書いて見せる、という、たいへん印象的な場面がある。
日本における、善と悪の対立とは?、邪悪なるものとは?、と質問されてのことである。
もちろん、そうした質問を二井原に向けて発すること自体、それがサム・ダンたちにとっては、ヘヴィメタルの本質に関わっているということだ。
そして、二井原実がいみじくも答えたように、僕たちにとっては、そうした邪悪さも含めたスタイルを持つものとして、ヘヴィメタルという「音楽」を楽しむ。それが日本におけるヘヴィメタルの受容の実態だ。

それは、悪く言えば、高度資本主義化した(古い言葉でいえば「エコノミック・アニマル」的な)消費であろう。宗教的な実感など全くないまま、「ヘヴン・アンド・ヘル」等と声を合わせて歌い、メロイック・サインを掲げる。
ある意味、「軽薄な消費」の対象のひとつとしてヘヴィメタルがある、という側面は今も昔も変わってはいないだろう(端的に言えば、カッコいい音楽、としてヘヴィメタルを受容しているのだ)。

しかし、だからこそ、日本から、BABYMETALという、異形のヘヴィメタルが出現しえたのだ。

「カワイイ(kawaii)」という、既存のヘヴィメタルのまるで対極にあるものを、観るものが納得せざるをえない超絶的な高品質で、激しく・美しく・楽しく「演」奏してみせる。

これほど凶悪なものはない
という意味で「カワイイは正義」なのである。

それが、ヘヴィメタルにおける「正義」なのだ。






BABYMETAL探究(舞踊考8~空間造形)

2015-04-22 00:25:26 | babymetal
カラオケのLIVE DAM で、BABYMETALの「赤い夜」から「BABYMETAL DEATH」と「イジメ、ダメ、ゼッタイ」が、「黒い夜」から「メギツネ」と「ヘドバン・ギャー!!」が、「まま音」で配信されていて、映像(演奏もSU-METALの歌もついているから、厳密にはカラオケではない)に合わせて唄うのが最近のささやかな楽しみのひとつなのだが、先日、たまたま、ピンク・レディーの振り付けマスター(本人たちが振りを踊る映像)数曲と交互に観る機会があり、あらためて、BABYMETALの舞踊の特質について、を考えたのであった。

ピンクレディーの振りをまともに視聴するのは、小中学生の時にリアルタイムで観て以来、30年以上ぶりだったが、改めて衝撃をうけた。当時以上に、「なんじゃこりゃ!」を感じた。「カメレオン・アーミー」の、「そろそろ来る、カメレオン」のところなど、本当にカメレオンに見える!
日本中を巻き込むムーブメントを持つだけの”濃さ・深さ”を蔵していることを改めて確認した。もしも、2015年の今、彼女たちが現われたとしても、大きな話題になるだろう、訴求力を持っている。

そのうえで、痛感したのが、両者の振りの質が、まるで異なる、ということだ。

その大きな要因は、2つ(あくまでも主観的印象だが)ある。

1つは、BABYMETALの舞踊の精密な工芸品を思わせる緻密さ、精度だ。
これはYUI・MOAというちびっこたち(敬意をこめてこう呼ぼう)がちょこまか動き回ることからきているものかもしれないし、ピンクレディーが歌いながらの振りという制限があるのに対し、YUI・MOAは舞踊に特化している、ということからも来ているのだろう(以前にも触れた、MIKIKOMETALの振付哲学によるものでも、もちろんあるだろう)。

そしてもう1つが、BABYMETALの舞踊の、空間造形の豊かさだ。
ピンクレディーの振りが(BABYMETALと比べると)”その場で突っ立って踊る”と印象されるほど、BABYMETALの舞踊は、空間的なダイナミックな造形となっている。もちろんピンクレディーも右に左に動いているのだが、YUI・MOAの空間を刻む速さ・鋭さ・動線の多彩さとは比較にならない。(もちろん、上に書いたような前提条件の違いがあるのだから、ここでは優劣を述べているのではない)。

単に、ビジュアルの魅力も加わっている、というだけではなく、この、空間造形というのが、BABYMETALがヘヴィ・メタルに持ち込んだ、革命的な「演」奏の新機軸なのではないか。

ヘヴィ・メタルとは、もちろんまず何よりも、音楽であり、音楽とは、本来、典型的な時間芸術であるはずだ。
しかし、例えば、ヘヴィなリフや、ダウンチューニング、デス・ヴォイスというのは、曲の時間的な流れ、というよりも、一瞬一瞬のいわば”時間の切口”におけるヘヴィネスの発現なのではないか。
そして、”時間の切口”とはすなわち空間性ということではないのか。
つまり、ヘヴィ・メタルとは、本来、どこかで、音による空間造形の激しさ・過激さを表現しようとするものではなかっただろうか。

「音像」と言えば、実感しやすいだろうか。
曲の流れとは別に、一瞬一瞬の「音像」をヘヴィにメタリックに表現しようというヘヴィ・メタルの志向は、ある種の空間造形的な志向だと言えるのではないのか。

BABYMETALの舞踊という「演」奏は、単なる「音像」だけではなく(神バンドの演奏とSU-METALの唄声という唯一無二の「音像」の説得力に加えて)、「演像」とでも呼ぶべきさらに立体的な・奥行きのある・動きのある空間造形としてヘヴィ・メタルを体現したものなのではないか。
それがKAWAIIであることのヘヴィ・メタルとしての意味を、次回、考察したい。)

ピンクレディの振りが衝撃的なのは、端的にいえば、「なまなましい」からだ。あえて、「ダサい」と言ってもよい。
そこには、例えばE-girlsの洗練されたダンスにはない、肉体の動きとして、迫ってくるものがある。それが(ダンスではない)「振り」の力であり、BABYMETALの舞踊にもそうした「なまなましさ」「ダサさ」は残っている(典型的には、「イジメ、ダメ、ゼッタイ」の例えばカニダンスや駄々っ子ヘドバンであり、多くの曲での、地べたにへたりこんだり寝転んだりすることや、「ヘドバン・ギャー!!」でのYUI・MOAのジャンプだ)。

こう書きながらも、まだ正体は明らかにできてはいないのだが、「音像」「演像」という概念で、BABYMETALのヘヴィ・メタルとしての「演」奏の革新性の、ある部分を、語ることはできるような気がする。

ということを、カラオケのピンクレディーの映像を観ながら感じたのであった。


以下、戯言である。

レディング・フェスのメイン・ステージで「演」奏する、女子高生3人、と考えるだけで、泣けてくる。

夢でもマンガでもなく、彼女たちが、実力で勝ち取ったステージだ。

ファンになったみんなが感じていることだろうが、
リアルタイムでBABYMETALという、こんな空前絶後のヘヴィ・メタルを
体験できる幸せ、奇跡を、感じる毎日である。
三姫をはじめ、神バンド、スタッフの皆さんに、本当に日々元気をもらっている。

よくぞ、ヘヴィ・メタルに降臨してくれた、と、

感謝しかない。

間もなく黒ミサ・赤ミサ、
そしていよいよワールド・ツアーである。
レディング・リーズ・フェスの前に、まず、メキシコがどうなのか、心配なのだが、
何があろうと、彼女たちは全身全霊で闘うのだ、その姿を
(こちらがその姿に励まされながら)見守りたい。

あきらめていた、幕張のチケットが取れた。
あと、たったの2か月!
ライヴ・イン・ロンドンのリリースもあとひと月後、だ。

熱い夏がもうすぐそこに来ている。





BABYMETAL探究(よりみち編~My Graduation Toss 覚え書き)

2015-04-12 00:08:20 | babymetal
一か月ほど前から、音楽理論(コード進行など)の独学も、はじめたのだ。

BABYMETALの、舞踊という「演」奏を考える上でも、当然ながら、楽曲のつくりを音楽的に分析できた方がよいに決まっている、
そう思い、30年ぶりくらいに、楽典的な本(いまはCDやDVDつきで、学びやすい本がたくさん出ているなあ)を買っては、通勤の電車の車中で読んでいるところである。

ただ、理論書を読んでも、その瞬間瞬間は頭には入るんだけれど、
それがちっとも頭に残っていかない(加齢の所為でもあろう)ので、
具体的に、「My Graduation Toss」という楽曲が
なぜこんなにせつなさを感じさせるのだろう?ということを分析しながら、
本に載っている理論を(すこしずつ)体感しながら学ぶ日々を重ねている。
(そのせいもあって、このブログもなかなか更新できていない…)

本来、今までの流れからは、「イジメ、ダメ、ゼッタイ」を分析の題材にすべきなのだろうが、
たまたま思いたった時期が、まさに「グラ・トス」にぴったりの時期であり、
あらためてこの楽曲の素晴らしさに浸っていたので、まずこの曲から、と手をつけたのだった。
またBABYMETALの楽曲、例えばイジメに比べて、「グラ・トス」はもう少しシンプルな構造になっているだろうし、初心者にはまだ取り組みやすいかな、という思いもあってのことだった。

で、実際に、理論を学びながら分析してみると、やはり「グラ・トス」という楽曲はよくできているのだなあ!、という思いを新たにしたのだった。

さくらの季節にふさわしい、
明るい冷たさ、
あたたかなさびしさ。

「グラ・トス」が与えるそんな印象には、音楽的な構造からくる必然性もあるのだ、ということが、ほんの少しかもしれないが、理解できた(気がしている)。


以下、このブログをのぞいていただいている方には、多少なりとも参考・刺激になるかと思い、気づいたことをいくつか書いておこうと思う。
(BABYMETALを経由して、「グラ・トス」のような名曲に出会ったという、僕のような方は大勢いるはずだから。)
ただし、素人のニワカ勉強による分析なので、とんちんかんなことを書いているかもしれません。ご容赦を。

この曲に関しては、マーティー・フリードマンが、
マーティ・フリードマン★鋼鉄推薦盤 というサイトに、
<さくら学院『My Graduation Toss』はJ-POPの王道的良曲>
というタイトルのもと、次のような記載をしている。

ちょっと専門的になるけど、『My Graduation Toss』のサビのコード進行はこういう感じです。

================================
D→A→C6→B7→G→B♭→D→
G→EonG#→A→G→A
================================

 そして、このコード進行は歌謡曲~J-POPではよく使われるタイプのもの。プリンセス プリンセス『DIAMONDS』とかね。つまり、このコード進行を使うと自然にJ-POPっぽい曲が作れてしまうんです。これ、ここだけの秘密にしておいてください(笑)。

 ちなみにこのコード進行、今のアメリカのヒットチャートの曲では使われなくなってきているものです。それが今も多用されているのは、おそらく日本だけの現象。ボクがJ-POPに魅かれる最大の理由は、アメリカにはなくなってしまったこういうメロディやコード進行が残っているからなんだよね。J-POPは、いわばガラパゴス的な進化を遂げていると言えるのかも。



これをもう少し具体的に噛みくだいてみよう。

最初のサビの部分を、歌詞とコードとを合わせて小節ごとに記載すると、
次のようになる。

D            
きみにおく/る グラデュ/

AonC#
エーショント/ス たか/

C6     B7
らものを/あつめた/


ー  / オルゴ/

B♭
オルのな/かきらめ/


くー た/びー いつ/

G       onG#
でー もお/もいだせ/

A       G  A 
るー みん/なのこと/~ 



この曲は、基調はニ長調(Dメジャー調)なので、
全体的に、D、A、Gを使ったコード進行はシンプルなものなのだが、

特徴的なのは、まず、B♭である。
これは、本来、Dメジャー調の和音ではなく、同主短調(DはDでもDm)の和音であり、専門的には「準固有和音」と呼ばれるものだ。
その響きの特徴は、
「物悲しいパラレルワールド」(『音楽の正体』渡邊健一)である。
(この比喩は、卓越!)

「つまり、長調の曲の中にパラレルワールドである同主短調を混ぜ込むと、その短調ゆえの物悲しさを曲の中に自然と流れ込ませることができるのだ。」(『音楽の正体』)

そして、歌詞をみると、驚くべきことに、

  →(たか)らもの
B♭ →(オルゴ)ールのなかきらめ(く)

という、キラキラかがやく詞に、Dm調の「物悲しさ」がまぶしてあるのである!
(なお、C6の6とは「ラ」であり、B7の7も「ラ」だから、
 D→A→C6→B7では常に「ラ」音が響き続けているという装飾も加えてある)


そして、そのうえで、もう一つ、のコード(きちんと表記するならば、メロディに「レ」の音があることからも、E7だろう)も、Dメジャー調本来の和音ではなく(これは同主短調でもなく)、次のA(D調のドミナント)につながる「ドッペル・ドミナント(ドミナントのドミナント)」である。
その響きの特徴は、

「ドッペル・ドミナントの良いところは、ホッとしたあたたかい心地にさせてくれること。それならば、その前は淋しい方がいい。淋しくて悲しくてボク泣いちゃう……という気分の方がいい。その方がドッペルに出会った時に救われた気持ちが増す。」(『音楽の正体』)

である。ここも、歌詞との関係は、なんと!

E7 → (おも)いだせ(るー みんなのこと)

となっていて、まさに、物悲しさを支えるあたたかさ、になっている。
なんか、これだけで、胸が熱くなる、というか、泣ける(笑)。

(ちなみに、このドッペルドミナントを効果的に用いた名曲として、「デイ・ドリーム・ビリーバー」があるそうで、2013年度卒業生が後輩たちに贈った名演を、想い出させる)
(ベース音のG#は、G→G#→Aと半音ずつ上がるクロマティックな進行のためだ)

サビの次の部分では、
  → (べつ)べつのみ(ちをしめす)
B♭ → (うけ)とめるたとえひとり(でも)
と<物悲しさ>をまぶしたうえで、

E7 → (たびだーちー)という名(のしょうどう)
と明るく、前にふみだす詞になっている。

以下、

  → (まん)てんのほ(しぞらにー)
B♭ → (うかぶ)せいざのようにい(つでも) <物悲しいキラキラ>

E7 → (こころはひと)つになれ(る) <明るい>

  → (つた)えておき(たかったきもち)
B♭ → (くち)にだしたらないて(しまう) <物悲しい>

E7 →  (さいごま)でえがお <明るい> 
  ( で、さらに「じゃなくてごめんね」と、もうひとひねり。 ☚これは、泣くわ)

  → (たか)らものに(であえた)
B♭ → (オルゴ)ーるのなかきらめ(く) <物悲しいキラキラ>

E7 → (いつでもお)もいだせ(る)<明るい> ☚これも、泣くわ。

  → (それ)ぞれのみ(ちをしめす)
B♭ → (なみ)だをふいてあるき(だそう)<物悲しい>

E7 → (たびだーちー)という名(のしょうどう)<明るく、前向きに>



なお、準固有和音の中でも、D調でのCとB♭は、普通のポップスでは使われない、ロックの世界でよく使われる準固有和音だそうで、この曲の基本的な「カッコよさ」、BABYMETALからたどりついた僕たちがこの曲を「神曲」だと感じること、にも、こうしたコード進行上の構造的な秘密があるのだ、と考えられる。

また、
Bメロの、「(ボ)タンにからみつく~、さび~し~さをほどきながら、まっすぐ、みつめた、みらいのとびらをあけて」のところは、
使っているコードはD調のコードだけれど、Bメロ全体のコード進行は、並行調であるBm調になっているために、ほのかに陰りを帯びて感じられるのだと思われる。


という具合に、やはり名曲というものは、例えばコード進行と歌詞が、有機的に絡み合っているものなのだな、と、ニワカ勉強ながら感じたのだった。

さて、BABYMETALの楽曲はどうだろうか?楽しみでもあり、はるかに手ごわそうでもある。(いつか取り組みたい)









BABYMETAL探究(舞踊考7~舞踊とは?)

2015-04-02 22:46:13 | babymetal
BABYMETALの「振り」=舞踊を、ダンス、と呼ぶことへの違和感はかつてここに書いたことがあるのだが、それはいったいどういうことなのか、改めて考えてみた。

参考にした文献が、『舞踊学講義』(舞踊教育研究会 大修館書店)である。
言うまでもないが、BABYMETALを考えるために購入したものの、ひとつだ。
これも、BABYMETALの中毒症状の、ひとつ(でも、こんなのは可愛いもの、ですよね?)だ。

歌でもなく、楽器の演奏でもなく、(それらも超絶的に凄いのだが、さらにそのうえに)「振り」=舞踊による彼女たちのヘヴィ・メタルの「演」奏。
それは、今までのヘヴィ・メタルを語るやり方では語りきれない。語る側も全く新たな思考ツールを用意しなければならない、というのが、BABYMETALの革新性(のひとつ)であり、彼女たちのパフォーマンスを語りたくなる秘密(のひとつ)なのだろう。

この文献『舞踊学講義』でとりわけ興味深かったのが、第4章の「日本の伝統舞踊」という章だ。
次の引用部分などを読むと、僕が、BABYMETALの「振り」をダンスではなく舞踊と呼ぶべきだと考えてしまう、その謎をほどくためのヒントが語られているような気がする。

一般に、日本の伝統舞踊は「舞(まい)」と「踊(おどり)」にわけて定義されることが多い。そもそも「舞踊」という言葉は、明治以降使用されている新しい言葉である。それ以前には「舞」「踊」「振(ふり)」などの名称が用いられ、それぞれに異なった舞踊の概念を内包していた。通常、舞楽・能楽・神楽などは舞と呼ばれ歌舞伎・盆踊り・念仏踊りなどは踊と呼ばれる舞は旋回運動を中心とした舞踊踊は跳躍運動を中心とした舞踊と解釈されている。しかし、舞にも跳躍運動が、踊にも旋回運動がみられ、必ずしも舞踊運動による相違だけでは両者を区別しがたい。一般に舞は静的で意識的であるのに対し、踊は躍動的で熱狂的である。また、舞が上昇階級志向であるのに対し、踊は庶民志向である。舞と踊というそれぞれ異なった表現の性質を舞踊の中に見いだし、それらを区別して伝承している点が、日本の舞踊伝承の特色の一つであろう。

読んで、びっくり、そして、納得である。ここに述べられている「日本の伝統舞踊」の特徴とは、まさに、BABYMETALの「振り」をこそ語っている!
(おそらく、ダンスには、こうした「舞」「踊」の区別なんてないだろう。)
ここを読んでまっさきに思い浮かんだのが、「BABYMETAL DEATH」の「振り」=「舞踊」だ。舞楽・能楽を思わせる静的な仕種と、バタバタ駆け回る熱狂的な躍動との混在は、まさに、上の「舞」と「踊」という説明によって言い当てられている。考察中の「イジメ、ダメ、ゼッタイ」も、ダンスではなく、「舞」「踊」なのだという観点から分析できるものだと僕は考える。
もちろん、ダンスにおいても、さまざまな様態の動きが組み合わされてはいるのだろうが、そこには、本来、「舞踊」とは「舞」と「踊」という異なった(ある種対極的な)性質の表現なのだ、という核心は看過されてしまう。

そして、さらにもう一つ、
同じ章に、BABYMETALの「振り」を考えるうえで、極めて重要な記述がある。

日本の伝統舞踊における表現性の第一の特徴として、舞踊が純粋に舞踊として存在するのではなく、演劇や音楽などの要素と一体となって伝承されている表現要素の「複合性」をあげることができる。能楽や歌舞伎の演者にみられるように、演者は舞踊行為の他に台詞を語り、歌を歌い、場合によっては楽器も演奏する。そのため日本の伝統舞踊は総じて「芸能」という名称で呼ばれることが多い。しかもこれらの芸能における表現システムは、舞踊、音楽、演劇、造型などの表現要素が単に加算された構造ではなく、たとえば演奏者と踊り手とはお互いにリアルタイムに間合いを図りながら演じるように、要素ごとの相互作用を重視した構造になっている例が数多く認められる

これも、まさにBABYMETALのことを語っている記述として僕には読めてしまう。
BABYMETALがアイドル畑の出身であることの、ヘヴィ・メタルとしての意味があるとすれば、まさにこの、「芸能における表現システム」をヘヴィ・メタルにもちこんだ、ということにあるのではないか。
「芸能界」のアイドルたちのおこなう「振り」とは、「複合性」の表現であり、そこからダンスを純化したものが、例えばEXILEやE―girlsだとすれば、BABYMETALの「振り」は、前者に属するものである。それは、優劣評価ではなく、踊りの質の違いだ。舞踊を純粋に舞踊として見せようと前景化するEgirlsではなく、演劇や音楽などの要素と一体となって、観客にはたらきかけるBABYMETALの「振り」とは、日本の「伝統」の流れの端に正しく存在するものなのだろう。

ここまでくると、僕は、僕自身の違和感の正体がくっきりしたように思われる。
ダンス、という呼び方では、最初の引用の「舞」と「踊」の異質性(とその混然化)や、二つ目の引用の「芸能における表現システム」に触れることができない、と、何となく感じていたからなのだろう。

もちろん、他の章にも、BABYMETALの魅力を探るうえで、いろいろと示唆的な記述は、いくつもあった。

・舞踊は、創造的な想像力によって空間化された身振り、すなわち、虚の身振りである。

・舞踊とは変身の行為そのものだとは感じないか。

・踊る行為には、「コミュニケーション」(伝達、共有、共感)、「クリエイティブ」(創造的、自発的な自由な行為)、「イクスプレッスィブ」(表現的な行為)の意味が含まれている。

・踊ることの不思議な魅力は、「何を表わしているか」という観念的な意識からではなく、むしろ何かを感じて集中した身体、動きの緩急の中に、内から表現感が表れてくるところにある。

・舞踊の際立った特性が、これまで我々が慣らされてきた「言語という制度」と対峙し、「合理性崇拝」のアンチテーゼとしての性格にあるのならば、現実の中でまだ潜在したままの舞踊の大きな可能性が見えてくるであろう。

・舞踊が人間にとって最も古い文化だからこそ今新しい。

・人間の力の及ばない偉大な自然畏敬の念をあらわし、神や先祖に踊りを奉納し、踊ることによって神々と交わろうとした。

・人間が生きていることの証ともいえる身体の活動を基盤とし、自らの身体、そして他者の身体に、直接、生命的反応を呼び起こす舞踊のこの表現

・イメージを内包した(運動の意味や情調を伴った)リズミカルな運動のパターンといわれる舞踊運動。

・日常の作業運動や何かの意味を伝達するサインとしての身振りなどは、誰もが決まった型を同じリズムで行うことで成り立つが、それらの日常の運動を成立させる要因を組み合わせ、変化、強調することによって、表現性や意味を内包した、エネルギーの起伏を持った、リズミカルな運動である舞踊の運動が生まれてくる。

・身体的レベルで直接的に相手の心に感応し、音声言語にまさる非常に多くの情報伝達が一瞬にして行われるのである。観客が理解できない言語によって演技しても絶賛を得ることがあるが、これらは非言語的な身振りや表情、声の変化等人間が持っている普遍的記号によって伝達が行なわれたといえるだろう。


とりわけ、最後に挙げた一節は、まさに、BABYMETALの国境を超えた「現象」ぶりについての言説であるかのようだ。(「声の変化」とは、彼女たちにおいては、まず「合いの手」のことだ。つまり、「合いの手」とは声による「舞踊」なのである)。

しかし、やはり、BABYMETALとは、「日本の伝統舞踊」の系譜のうえの最新形態である、という見方との出会いが、『舞踊学講義』の最大の収穫だった。
以前にも書いた、MIKIKOMETALの発言にも通じるし、ちかぢか書かなければならない、「日本のヘヴィ・メタルの受容のされ方」にもつながる、極めて重要な観点である。

(単なる結果論ではなく)BABYMETALは、やはり、日本だからこそ生まれえた存在、なのである。