さあ、いよいよ ”新たな調べ” 降臨の「祭り」がはじまる。(たぶん)。
SSA1日目、2日目、大阪城ホール1日目、それぞれに1曲ずつ”新たな調べ”a・b・cが降臨し、
僕の行く大阪城ホール2日目、巨大キツネ祭り千秋楽では、
aもbもcも3曲すべてともに披露(さらに+α)!。
なんて、たいへん欲どおしい妄想を抱いているのだが、
例えば、aが3人で、bがSU-METALソロで、cがBLACK BABYMETALデュオで、
なんてことは、妄想は妄想でも、ありうる美しい妄想ではないか。
で、その前夜、忘れないうちに記しておきたいのが、MIKIKOMETALの決定的な発言である。
「私の振り付けは、演奏の一つとしてとらえている」
MIKIKO(METAL)御自ら、正式にこう語ったのは初めてではないか。
NHK8月19日放送の『SWICHインタビュー』前半の、種田陽平によるMIKIKOへのインタビューの中でのことだ。
(大阪のサマソニの日だったので、その話題のため、この番組はBABYMETALのファン界隈ではあまり話題にはならなかったと思う)
まとめサイトでは、この番組の感想として、
「BABYMETALの登場が一瞬だけだった(「ギミ・チョコ!」のPVが10秒ほど)」
等の不平の書き込みしか目にしなかったが、いやいや、そういうことではなく、ここでMIKIKOが語ったことは、BABYMETALの魅力とは何なのか、それを理解するうえで、たいへん重要な、決定的なものだった。
(Pefurmeのメンバー3人と一緒に振り付けを練り上げていく様も映像で映されていたが、「ああ、BABYMETALもこうやってるんだろうなあ」なんて思いながら観ていてじわーっと来てしまった)
MIKIKO(METAL)の凄さは、自分の行っていることを、実に自覚的に、方法論的にとらえていることだ。
だから、いつでも高いクオリティで仕事として実現できる。
この、芸術性の高さ(あるいはキャッチーさ)と、安定して量産できる、
というのは、まさに、エンターテインメント業界の第一線で活躍できる、その秘訣なのだろう。
番組で、「なるほど!」と思った発言はいくつもあったが、例えば、
□ まず、MIKIKOなりの楽曲のイメージからのドラマ的設定(世界観)を立て、それによって振り付けの細部をつくる。
□ 曲の「リズム」の理解を深め、振り付けとの相乗効果をはかる。
□ 音の振幅の波形をイメージして、振り付けをつくっている。
などなど。
で、次の二つの対話は、まさに「決定的」だった。
□(「恋ダンス」をめぐっての会話)
種田 「特に、あれですね。手が重要ですね。手話じゃないけど、手が語るみたいな。」
MIKIKO「はい。手がなんか手話っぽい、ドキドキというというときもあれば、なんか、こうフワッと「見えなくなる」みたいな歌詞なので、カンカン(頭の上に猫耳のような掌を立て)というのはビートをひろってて、で、女の子が可愛く見えるポーズで、「見えなくなる」でキュッて閉じてって、で、次はこう「のぞく」っていう振りが入っていたりする。歌詞をなぞりながら、ビートをなぞりながら、こう、ストーリーを作っていってる、みたいな手法で」
種田「おもしろいですね。ビートで踊るのはともかく、あの、そこにそういう手振りっていうんですかね、振り付けと、その手の動きとか身体の動きを見ていると、ストーリーが少しずつ伝わってくるんですよね」
MIKIKO「そうなんですよね。うんうんうん。なので、いちばんの最後にやるのは、全部音を消して無音の動画を見ることにしてて、自分の振り付けを。で、その、無音でも、何となくいま、悲しい曲なんだろうなあ、とか、ビートの速いワクワクした曲なんだろうなあ、みたいなのが、分かるとこまでいけるように、ていうのが、最後の仕上げ、です」
BABYMETALの舞踊の素晴らしさの核心が、まさにこれだ。
楽曲に乗せたカッコいいダンス、ではなく、「演」「奏」としての舞踊!。
□ メッセージ性のある振り付け をめぐって
種田「MIKIKOさんの振り付けって、対話がある、っていうか、なんかこう伝わってくるものがあって。それが子どもにも伝わったりとか」
MIKIKO「すごい難しいんですけど、そのお、踊り・ダンスみたいなものが、とってもカッコいいものです、ってそんなに思ってなくって。もちろん、日本人だから、あんまり、こう、喜んで子どもが生まれて踊る、とか、そういう性質ではないし、日本人が「踊ること」「踊っている者を見ること」に対してちょっと壁があること、みたいなことを感じながら生きてきたんです。で、実際作って人に見てもらうってなったときに、やっぱり、不自然じゃないもの、自然に見えるもの、Perfumeでいうと、それこそおしゃべりしているようなダンスであったり、なので、普通の「ダンサー」の人が見ると、もしかすると何か物足りないかもしれないんですけど、演奏のひとつとして捉えているとこがあるから、ああいうような動きになっている」
僕はなにも「本人の、言質をとったぜ!」とドヤ顔をしているのではない。
「やっぱり、そうですよね」と、深く肯いているのだ。
「踊り・ダンスみたいなものが、とってもカッコいいものです、ってそんなに思ってなくって」なんて発言は、
まさに、BABYMETALの舞踊が、他のダンスユニットと決定的に異なる、その核心を、語り抜いた台詞だろう。
例えば、「ヘドバンギャー!」のYUI・MOAのジャンプ。
あれが「言語」「手話」だなんて頓珍漢な理解はありえないのであって、
また、決して、カッコいいダンス、でもない。
彼女たち2人の全身全霊のジャンプによって、
「ヘドバンギャー!」という楽曲(音楽の実質、あるいは、世界観)を「演」奏し、魂を与えているのだ。
奏=かなでる。
BABYMETALの舞踊の「神々しさ」。
それは、
それが楽曲に乗った流麗なダンスではなく(もちろんこれはこれで楽しく美しいのだが)、
彼女たちの身体による「演」が、調べを「奏=かなでる」、その発露になっているから、でもあるのだ。
”新たな調べ”を「演」し、「奏」=かなでる、
そんな新たなBABYMETALが、いよいよ明日登場する。
さあ、新たな祭り、新章のはじまりだ(たぶん)。
どこまでもついて行くぞ。
The Chosen 500(Five Hundred)も申し込むぞ!(・・・たぶん)。
SSA1日目、2日目、大阪城ホール1日目、それぞれに1曲ずつ”新たな調べ”a・b・cが降臨し、
僕の行く大阪城ホール2日目、巨大キツネ祭り千秋楽では、
aもbもcも3曲すべてともに披露(さらに+α)!。
なんて、たいへん欲どおしい妄想を抱いているのだが、
例えば、aが3人で、bがSU-METALソロで、cがBLACK BABYMETALデュオで、
なんてことは、妄想は妄想でも、ありうる美しい妄想ではないか。
で、その前夜、忘れないうちに記しておきたいのが、MIKIKOMETALの決定的な発言である。
「私の振り付けは、演奏の一つとしてとらえている」
MIKIKO(METAL)御自ら、正式にこう語ったのは初めてではないか。
NHK8月19日放送の『SWICHインタビュー』前半の、種田陽平によるMIKIKOへのインタビューの中でのことだ。
(大阪のサマソニの日だったので、その話題のため、この番組はBABYMETALのファン界隈ではあまり話題にはならなかったと思う)
まとめサイトでは、この番組の感想として、
「BABYMETALの登場が一瞬だけだった(「ギミ・チョコ!」のPVが10秒ほど)」
等の不平の書き込みしか目にしなかったが、いやいや、そういうことではなく、ここでMIKIKOが語ったことは、BABYMETALの魅力とは何なのか、それを理解するうえで、たいへん重要な、決定的なものだった。
(Pefurmeのメンバー3人と一緒に振り付けを練り上げていく様も映像で映されていたが、「ああ、BABYMETALもこうやってるんだろうなあ」なんて思いながら観ていてじわーっと来てしまった)
MIKIKO(METAL)の凄さは、自分の行っていることを、実に自覚的に、方法論的にとらえていることだ。
だから、いつでも高いクオリティで仕事として実現できる。
この、芸術性の高さ(あるいはキャッチーさ)と、安定して量産できる、
というのは、まさに、エンターテインメント業界の第一線で活躍できる、その秘訣なのだろう。
番組で、「なるほど!」と思った発言はいくつもあったが、例えば、
□ まず、MIKIKOなりの楽曲のイメージからのドラマ的設定(世界観)を立て、それによって振り付けの細部をつくる。
□ 曲の「リズム」の理解を深め、振り付けとの相乗効果をはかる。
□ 音の振幅の波形をイメージして、振り付けをつくっている。
などなど。
で、次の二つの対話は、まさに「決定的」だった。
□(「恋ダンス」をめぐっての会話)
種田 「特に、あれですね。手が重要ですね。手話じゃないけど、手が語るみたいな。」
MIKIKO「はい。手がなんか手話っぽい、ドキドキというというときもあれば、なんか、こうフワッと「見えなくなる」みたいな歌詞なので、カンカン(頭の上に猫耳のような掌を立て)というのはビートをひろってて、で、女の子が可愛く見えるポーズで、「見えなくなる」でキュッて閉じてって、で、次はこう「のぞく」っていう振りが入っていたりする。歌詞をなぞりながら、ビートをなぞりながら、こう、ストーリーを作っていってる、みたいな手法で」
種田「おもしろいですね。ビートで踊るのはともかく、あの、そこにそういう手振りっていうんですかね、振り付けと、その手の動きとか身体の動きを見ていると、ストーリーが少しずつ伝わってくるんですよね」
MIKIKO「そうなんですよね。うんうんうん。なので、いちばんの最後にやるのは、全部音を消して無音の動画を見ることにしてて、自分の振り付けを。で、その、無音でも、何となくいま、悲しい曲なんだろうなあ、とか、ビートの速いワクワクした曲なんだろうなあ、みたいなのが、分かるとこまでいけるように、ていうのが、最後の仕上げ、です」
BABYMETALの舞踊の素晴らしさの核心が、まさにこれだ。
楽曲に乗せたカッコいいダンス、ではなく、「演」「奏」としての舞踊!。
□ メッセージ性のある振り付け をめぐって
種田「MIKIKOさんの振り付けって、対話がある、っていうか、なんかこう伝わってくるものがあって。それが子どもにも伝わったりとか」
MIKIKO「すごい難しいんですけど、そのお、踊り・ダンスみたいなものが、とってもカッコいいものです、ってそんなに思ってなくって。もちろん、日本人だから、あんまり、こう、喜んで子どもが生まれて踊る、とか、そういう性質ではないし、日本人が「踊ること」「踊っている者を見ること」に対してちょっと壁があること、みたいなことを感じながら生きてきたんです。で、実際作って人に見てもらうってなったときに、やっぱり、不自然じゃないもの、自然に見えるもの、Perfumeでいうと、それこそおしゃべりしているようなダンスであったり、なので、普通の「ダンサー」の人が見ると、もしかすると何か物足りないかもしれないんですけど、演奏のひとつとして捉えているとこがあるから、ああいうような動きになっている」
僕はなにも「本人の、言質をとったぜ!」とドヤ顔をしているのではない。
「やっぱり、そうですよね」と、深く肯いているのだ。
「踊り・ダンスみたいなものが、とってもカッコいいものです、ってそんなに思ってなくって」なんて発言は、
まさに、BABYMETALの舞踊が、他のダンスユニットと決定的に異なる、その核心を、語り抜いた台詞だろう。
例えば、「ヘドバンギャー!」のYUI・MOAのジャンプ。
あれが「言語」「手話」だなんて頓珍漢な理解はありえないのであって、
また、決して、カッコいいダンス、でもない。
彼女たち2人の全身全霊のジャンプによって、
「ヘドバンギャー!」という楽曲(音楽の実質、あるいは、世界観)を「演」奏し、魂を与えているのだ。
奏=かなでる。
BABYMETALの舞踊の「神々しさ」。
それは、
それが楽曲に乗った流麗なダンスではなく(もちろんこれはこれで楽しく美しいのだが)、
彼女たちの身体による「演」が、調べを「奏=かなでる」、その発露になっているから、でもあるのだ。
”新たな調べ”を「演」し、「奏」=かなでる、
そんな新たなBABYMETALが、いよいよ明日登場する。
さあ、新たな祭り、新章のはじまりだ(たぶん)。
どこまでもついて行くぞ。
The Chosen 500(Five Hundred)も申し込むぞ!(・・・たぶん)。